現代アニメ批評 #1『鬼滅の刃』

「現代アニメ批評」では、幅広いアニメ作品の中から話題の(もしくはちょっとマニアックな)作品を取り上げ、アニメ鑑賞をより深く楽しむための批評を連載していきます。

「批評」=アニメをもっと楽しむための ”見方の拡張” 

批評という言葉を定義するのは難しい。「連載の初めにアニメを批評することの意義について簡単に書いてくれ」とオーダーされてしまい、この連載を「現代アニメ批評」と名付けたことを初回から後悔している。批評の定義も意義も人によって異なるだろうし、そもそも私には批評の意義を他人に説けるような実績も力量もない。

そこで、ここではあくまで私自身の個人的な批評観を提示しておきたい。すなわち、批評的(Critical)な試みとは、自らの思考を臨界点(Critical point)まで追い詰めること、あるいは危機的(Critical)な状況に陥らせることだ、と。

人は様々な経験を通して自身の思考の限界を拡張し続ける。自身の思考の限界を規定するもの……それは経験則や人生観といった自身の中にある戒めかもしれないし、常識や慣習といった社会からの圧力かもしれない。いずれにせよ、そういった自身の思考の限界を規定するものに疑義を投げかけ、自身の思考の臨界点を押し拡げていくような経験こそが批評だと考えている。

優れたアニメ作品は、ただ観て面白いというだけでなく、観る者の思考の臨界点を拡張するような力を持っている。これまで囚われていた常識や人生観に揺さぶりをかけ、私たちが生きる現実世界の見え方さえ変えてしまう。批評的なアニメの観方とは、自身がもともと持っていた価値観の範囲内で安全に楽しむのではなく、その作品の解釈の臨界点に挑むことを通して自身の価値観に揺さぶりをかける、そんな観方である。

そうした観方をして来なかった人にとっては、居心地が悪く、不快な経験に感じるかもしれない。だが、真に優れた作品は、それを観た者に大きな動揺を与え、その心に消えない傷跡さえ残す。そして、観た者の人生を変えてゆく。これは決して大げさな言い方ではない。

この連載が私だけでなく読者の皆さんにとっても、取り上げるアニメ作品の解釈のみならず、世界の観方そのものが拡張されるような経験となることを祈ります。

令和時代の傑作『鬼滅の刃』を批評

闇夜に煌めく斬撃。怒りと悲しみの咆哮がこだまする戦場で、意地と意地がぶつかり合い、信念と信念がぶつかり合う。魅力的なキャラクターたちが繰り広げる、命を賭した技の饗宴。

少年漫画の王道を行く作品でありながら、例えば「呼吸」法によって強化した身体から繰り出される剣技で超常の力を持つ鬼と戦うなど、随所にオリジナリティも光る。主人公である竈門炭治郎役の花江夏樹を筆頭に、力のある声優陣がまさに「息づかい」まで見事に演じきっており、芝居としての見所も多い。

ufotableが手掛ける流麗かつ迫力のあるアニメーションも見事で、音楽の使い方や各話の構成も含め、軽やかなテンポ感と重厚な戦闘描写のバランスが絶妙で、長いシリーズにもかかわらず、視聴者を決して飽きさせない。

吾峠呼世晴の同名の漫画を原作とする『鬼滅の刃』は、その商業的規模を踏まえても、現代アニメを代表する名作と言えるだろう。現代アニメ批評の第1回は、この怪物に挑みたい。

出典:Youtube

物語を貫く〈柱〉の比喩 – 家とお舘、大黒柱と人柱

物語は、主人公である炭治郎が家族を鬼舞辻無惨に惨殺され、唯一生き残った妹の禰豆子も鬼にされてしまう、という事件から始まる。炭治郎は亡き父に代わり若くして家族を支える長男であったが、父の代わりに家族を守れなかったという後悔が、鬼狩りとして自身を鍛え上げてゆく原動力となる。

そのような意味で、この物語はまさに炭治郎が大黒柱になり損ねたことから始まるのであり、家族の唯一の生き残りである妹を生かすために命を削って鬼狩りとして働く、つまり〈大黒柱〉になる物語だと言える。炭治郎の姓である「竈門」も、家族が食の共同体であるということを考えると、やはり意図的なものだろう。

加えて、鬼殺隊という組織自体も「お館様」を「柱」が支えるという家のメタファー(隠喩)で構成されており、その「お館様」は鬼殺隊士を「子供たち」と呼ぶなど、このメタファーは細部まで徹底して描かれる。「柱稽古編」などはまさに、〈同じ釜の飯を食う〉ことで鬼殺隊をひとつの家族にする物語だ。

そもそも鬼という存在が〈朝廷に仇なす存在〉であったことを考えると、鬼殺隊という組織は大日本帝国のメタファーなのである。お館様が天皇、隊士が臣民であり、「天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふ」(『国体の本義』)というわけだ。大日本帝国とは天皇を家長とする家であり、その家を支える人柱として、戦争では多くの若者が犠牲となった。

『鬼滅の刃』でも数多くの名もない鬼殺隊士たちが、正義感とお館様への愛ゆえに、自らの命をなげうって戦う。人間という存在はあまりにも無力な存在であり、鬼と生身の人間の力の差は歴然で、作中では数多くの鬼殺隊士が使い捨ての駒のように成すすべなく死んでゆく。家族のため、仲間のため、お館様のために。

剣士/鬼 というブラック労働

加えて、鬼殺隊とは現代のブラックな労働現場のメタファーなのではないか、とも思う。

たったひとりの家族を養うために、傾きゆく国家を支える人柱となり、火の玉のように命を燃やして戦うしかない。竈門家を支える大黒柱となることがそのまま鬼殺隊=国家を支える柱となることとシームレスにつながる、というのが『鬼滅の刃』という物語の骨格であることは否定しようがない。大黒柱となるためには、文字通り命をなげうってお館様=国家のための人柱となる覚悟が必要なのだ。

それは、今日食うだけの金を得るために尊厳を踏みにじられながら非正規のブラック労働で食いつなぐような労働者――その過酷な労働の上前をはねる資本家やあくどい政治家たちに搾取され続ける〈生贄〉のような労働者――を大量に生み出した、経済が低迷し続け国が傾きつつある現代の日本を象徴しているのではないか。その意味で、『鬼滅の刃』とは、若者が家族を持つことを躊躇するほど過酷な時代が産み出した鬼子なのではないか、と思わずにはいられないのだ。

出典:Youtube

一方で、鬼殺隊と戦う鬼たちもまた、鬼舞辻無惨という超パワハラ上司の元で過酷な労働を強いられるブラック企業の社員を思わせる。炭治郎が倒す鬼たちは悉く人間時代に理不尽な人生を送ってきた存在であり、死の間際にその記憶がフラッシュバックする演出がなされる。社会から抑圧され最底辺に落とされた者たちの、この世界そのものに向けられた憎悪こそが鬼なのではないか、と思えてくる。

自己管理の呼吸 ストレスマネジメントノ型

このような文脈で考えると、剣士たちが使う「呼吸」というものの意味もまた違って見えてくる。

剣士たちは呼吸によって身体能力を向上させるが、現代的な視点で考えると、呼吸法とはメンタルコントロールの一環である。かつての少年漫画では怒りが強くなるための重要なファクターだったが、現在は怒り(感情)をどうコントロールするかに力点が置かれる。

そして、これを現代的な感情労働における感情のマネージメントの文脈で考えると、自らの感情をコントロールできる人間を求める現代のビジネスシーンの引き写しにも思えるのだ。鬼殺の剣士とは、まさしく感情労働の現場におけるエリート労働者なのであり、一方の鬼たちは己の感情をコントロールできないがゆえに、鬼殺の剣士たちに後れを取ることになる。

息継ぎすることさえ困難なこの忙しない世界の中で、呼吸を整えることによって状況を打開していく。剣技の型を自然のエレメントによって分類するという王道の設定の根底に「呼吸」というオリジナルの要素を据えたことは、この作品の現代性を引き立たせるきわめてユニークな点である。

鬼狩りの悲壮、鬼の悲惨 –  弱くて無様なヒーローたちの煌めき

人間の絶望的なまでの弱さ、脆さ。炭治郎をはじめとした鬼狩りたちは、ただ単に〈強くてかっこいいヒーロー〉なのではない。下級隊士を筆頭に、そして人間の中では最強クラスである柱たちでさえ、鬼たちの前ではあまりにも弱い。

だが、人生に業を背負い、己の弱さに絶望しながらも、希望を求めてもがき苦しむ鬼狩りたちは、死闘の中で刹那的な命の煌めきを見せる。鬼たちもまた悲惨で絶望的な人生の果てに、悲しい最期を迎えることになる。この悲壮感こそが、『鬼滅の刃』を時代の寵児に育て上げた最も重要な点だと思う。

この他にも、『鬼滅の刃』は現代社会への不穏な批評性に満ちた作品である。例えば、鬼になり、竹の口枷をつけた姿で戦う禰豆子というキャラクター。鬼になってなお、享楽を禁止され、暗示によって人間のために働かせられ続ける禰豆子の姿は、これまで女性たちの口を封じ続け、人間(Man=男)のための労働に縛り付けてきた日本社会への痛烈な風刺にも見える。

そういった不穏な批評性を随所に覗かせながら、そしてあれほどの悲壮感を漂わせながら、王道少年漫画として時代を代表する作品の地位を固めていった『鬼滅の刃』が、いかに驚くべき作品であるかは改めて言うまでもないだろう。

文: 冨田涼介
批評家。1990年山形県上山市生まれ。2018年に「多様に異なる愚かさのために――「2.5次元」論」で第1回すばるクリティーク賞佳作。寄稿論文に「叫びと呻きの不協和音 『峰不二子という女』論」(『ユリイカ』総特集♪岡田麿里)、「まつろわぬ被差別民 『もののけ姫』は神殺しをいかに描いたか」(『対抗言論』3号)など。

 

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