ヒトはなぜ「残酷」を観たがる? ニーチェ『悲劇の誕生』で読む『進撃の巨人』- PicoN!な読書案内
「残酷な話」が好きです。--と言うと語弊がありますが、おおむね事実です。
『進撃の巨人』『鬼滅の刃』『チェンソーマン』。この3作は私がこの10年間くらいに特にハマったマンガであり、国内外で社会現象的に大ヒットした作品でもあります。そして同時に「残酷な話」という共通点がある作品たちです。
マンガ(に限らず映画でも小説でも)の残酷な描写に惹かれてしまう人、結構いるのではないでしょうか。それは悪趣味だからとか、ヘキが歪んでいるからとか、そういうわけではなさそうです。『進撃』や『鬼滅』などが広く読まれたということは、「残酷好き」が何も特殊性癖なんかではなく、普遍的な心理だということを意味しています。
そしてもちろん、人間が本質的にマゾヒスト(M)だという意味でもありません。私を含め、たいていの人は現実世界に対しては何ら「残酷」を求めていません。日常生活で巨人に襲われたり、鬼に襲われたりしたら、フツーに嫌です。
それでも昔から「お涙頂戴」と言い、passionという英単語が “情熱” と “受難” の両方を意味するように、なぜだか「残酷な話」を求めてしまう。どうやら人間というのは、そういう不思議な生き物のようなのです。
文/PicoN!編集部 佐藤舜
「人間はなぜ悲劇を求めるのか?」問いに取り組んだ哲学者・ニーチェ
言い換えれば、人間はなぜ悲劇を求めるのか?
この問いに真摯に向き合った哲学者がドイツにいました。フリードリヒ・ニーチェ。マンガにも『ニーチェ先生』という作品があるくらい、世界で最も有名な哲学者のひとりです。
ニーチェのデビュー作のタイトルはまさに『悲劇の誕生』。この著書の中でニーチェは、アイスキュロスなどのギリシャ悲劇を念頭に置きながら、「人間はなぜ悲劇を求めるのか?」という問いに真っ向から取り組みました。
その答えをあえて一言で乱暴に、私なりの言葉でまとめるならこうです。
Q. 「人間はなぜ悲劇を求めるのか?」
A. 「悲劇とは ”とんでもなくデカくて凄い何か” に圧倒されつつ、救いの在りかを問う体験だからだ」
悲劇とは ”とんでもなくデカくて凄い何か” に圧倒される体験
改めて、悲劇とは何でしょうか?
たとえば『進撃』における巨人、『鬼滅』における鬼、『チェンソーマン』における悪魔のように、 ”とんでもなくデカくて凄い何か” に人間がぶちのめされたり、敗れたりするさまを描く芸術だーーととりあえず定義できそうです。
ニーチェはそれを「ディオニュソス」と「アポロ」というキーワードで説明します。ディオニュソス=死や混沌、アポロ=生や秩序、と置き換えて考えるとわかりやすいです。「ディオニュソス」とは自然とか宇宙とかいった、無秩序、ゆえに本質的なもの。一方で「アポロ」とは、その無秩序のうえに生まれる秩序のことです。生命もアポロだし、人間がつくったルールや決め事などもアポロです。
ニーチェは上記の文脈で、悲劇とは「ディオニュソスとアポロのせめぎ合い」であると定義します。単に ”とんでもなくデカくて凄い何か” (ディオニュソス)が人間(アポロ)に圧勝して終わりではいけない。人間(アポロ)が圧勝してめでたしめでたしでもいけない。両者が戦ってせめぎ合うからこそ、そこに感動が生まれる。どんなヒーローアニメも必ず一回は主人公がピンチに陥るのは、この「せめぎ合い」の感じにこそ感動が宿るからでしょう。
スポーツで言えば、弱小校が強豪校に必死でぶつかっていくようなあの感動です。最初から消化試合みたいに惰性で闘ってたら、全然感動しません。最近ヒットしているオードリー若林さんのアメフト小説『青天』も、その意味で正しくニーチェ的「悲劇」と言えるのかもしれません。偶然かどうか、『青天』の中には、ニーチェと同じ実存主義哲学者のひとりであるアルベール・カミュのエピソードも登場します。
悲劇はジャズの不協和音に似ている
悲劇を見るときのあの「見たいけど見たくない、見たくないけど見たい」という感じを、ニーチェは音楽の不協和音にたとえています。音楽の不協和音は、共鳴しない “汚い音” のはずなのに、なぜか心惹かれてしまう。その意味で悲劇と似ているからです(ジャズなどに使われるいわゆるオシャレコードというのは、7thや9th、ディミニッシュといった不協和音のことを普通指します)。
それをニーチェは「聞くことを超えてあこがれる」「見ることを超えてあこがれる」と表現しています。
悲劇的神話が生み出す快感は、音楽における不協和音の快感と同じ故郷を持っている。(中略)これは、芸術的に用いられた不協和音についていえば、聞くことを欲しながら、同時に聞くことを超えてあこがれる、とでも特徴づけねばならないような状態なのだ。
(出典)フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』
ちなみに美学の用語では、”とんでもなくデカくて凄い何か” に圧倒される感動のことを「崇高」と呼びます(※1)。ものすごくデカいスカイツリーとか海、山とかを見たときに感じる、あの感じです。美/崇高の対比は、美学においては最も根本的な概念のひとつです。またハイデガーというニーチェより少し後の哲学者は、似たような文脈で「法外なもの」という言葉を使ったりしました。
※1 正確に言えばちょっと違うので、詳しく知りたい方はChatGPTに聞くか、以下に挙げるカントかショーペンハウアーの著書を参照してください。
参考:イマヌエル・カント『判断力批判』、アルトゥル・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』、古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』
まとめ:『進撃の巨人』が描く “運命愛”
私たちはなぜ悲劇を求めるか? その答えは、『悲劇の誕生』に基づけば次のように整理できます。
①【ディオニュソス】 ”とんでもなくデカくて凄い何か” に圧倒される感覚を享受するため。
②【アポロ】悲しみを直視したうえで問いとして引き受け、乗り越える力を呼び覚ますため。
まず①について。『進撃の巨人』で私が最も悲しいシーンだと思うのは、最終巻のラストです。エレンたちがあんなに死に物狂いで戦ったのに、結局世界はなにひとつ変わらず、戦争や悲劇がその後も何百年、何千年と繰り返される。そういう風景が描かれます。この世界が少しでも良くなったのなら、エレンやミカサの苦しみも無駄ではなかったと思える。でも『進撃』は、そういう “報われ” の可能性さえも徹底的に、残酷に拒む。
世の中はいつまでも変わらず、戦争とか理不尽とか、同じ悲しみがいつまでも繰り返される。このむなしい堂々巡りの感じをニーチェは「永劫回帰(永遠回帰)」と呼びます。個人レベルでは、「俺、いっつも同じ間違いばっかやらかしてんな……」という感じも永劫回帰です。そしてそんな永劫回帰のうえでも、「それでもなお」人生を愛する強さをもつことをニーチェは提唱しています(運命愛、超人思想)。
ニーチェは、運命愛のカギを握るのは「笑い」であると言います。いわゆる「お笑い」のようにゲラゲラ笑うこともそうですが、もっと広く「楽しむこと」と解釈するのが適切かもしれません。
『進撃の巨人』で何度読んでも泣いてしまうのは、 “獣の巨人” ジークの最期です。目的のために悪行の限りを尽くしてきたジークは、死を悟ったときふいに、子供の頃にしたキャッチボールの楽しさを思い出します。そしてつぶやきます。「俺は……ずっとキャッチボールしてるだけでよかったよ」。
アルミンも別のシーンで似たようなことを言います。
「でも……その日は風が温(ぬる)くて ただ走ってるだけで気持ち良かった……枯れ葉がたくさん舞った そのとき……僕はなぜか思った……三人でかけっこするために生まれてきたんじゃないかって……」
(出典)諫山創『進撃の巨人』※傍線は筆者
『進撃の巨人』をはじめ優れた悲劇には、かならず救い(アポロ)のシーンも用意されています。一ミリの救いもない残酷なだけの話は、悲劇ではなくただの「胸糞悪い話」です。
私たちは悲劇を通じて「こんな世の中でそれでも生きていく価値は何か?」と自分に問いかけながら、作中にちりばめられたヒントをもとにその答えを探しているのではないでしょうか。「悲しい話なのになぜか救われた」という気分になることがあるのは、悲しい物語を追体験しながら、その乗り越え方を自ら模索するからでしょう。そして物語が残酷であるということは、その問いに嘘がないことを意味します。ゆえに得られた答えの真実味も増すのです。
『進撃』の中で提唱された答えとは、キャッチボールを楽しむこと、かけっこを楽しむこと、というシンプルなものでした。これは「笑い=楽しむこと」が運命愛だとしたニーチェの見解とも一致します。
これがアポロの真の芸術意図なのだ。あらゆる瞬間に生存一般を生きるに値するものとし、次の瞬間を体験するように押しやる、あの無数の美しい仮象の幻想のすべてを、われわれはアポロの名で一括するのである。
(出典)フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』
そうは言っても、ただ最初から「答え」だけ与えられても意味がない。答えは「問いの乗り越え方」として初めて価値を持つからです。
問いがなければ答える意味がない。答えがないなら問う意味がない。悲しみなくして救いはないし、救いなくして悲しみは耐えがたい。そういう自分のシッポを食べるウロボロスのヘビのような構造で悲劇は、または人生は、成り立っている。言い換えれば、どんな苦しみにも悲しみにも「答えを味わうための問い」「立ち向かいがいのある問い」としての価値がある。――そういう感じが、ニーチェの言う「運命愛」に近いのかもしれません。
悲劇のような出来事を日常茶飯事のように目にするこんな時代だからこそ、『進撃』やニーチェの教えはさらに輝きを放って見えます。この記事が、哲学という “思考のキャッチボール” の楽しさをあなたに伝えられるものになれば何よりです。