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そこにいるだけで十分だった──牛腸茂雄をめぐる記憶。牛腸茂雄×三浦和人 写真展「そこにあって、そこにないもの」記念トークイベントレポート

2025年12月2日(金)、東京・日本写真芸術専門学校8F WALL GALLERYにて三浦和人×牛腸茂雄 写真展「そこにあって、そこにないもの」記念トークイベントが開催されました。
本トークイベントは、三浦和人さんと牛腸茂雄さんの作品を並置した写真展の開催にあたり、その制作背景や作家同士の関係性、作品の継承について語る場となりました。

二人の写真家が辿ってきた物語を知ることができた本イベントの記録を、ここにアーカイブとして残したいと思います。

語り手は、写真家・三浦和人さん。聴き手は、株式会社コンタクト 佐藤正子さんです。

学校案内から始まった写真展

日本写真芸術専門学校の学校案内パンフレットには、「BRIGHT」という別冊子が付録しています。


『BRIGHT』は、学校案内パンフレット本誌と切り離して、1つの写真集として楽しめる仕様になっており、進路検討が終わっても、写真の奥深い世界に触れる本として手元に残してもらえるようにという思いを込めて制作しています。

2026年度生募集の学校案内パンフレット内の『BRIGHT』では、静謐な日常を写すコンポラ写真の旗手・牛腸茂雄氏の作品を掲載。過去に日本写真芸術専門学校で講師を務めていただいた三浦和人さんのご助力のおかげで企画が実現する運びとなりました。

そのご縁がきっかけとなり、三浦和人さんの作品と、牛腸茂雄さんの作品を掛け合わせた写真展を開催することになりました。
三浦和人さんは、牛腸茂雄さんの作品の管理をされていまして、写真展開催等に数多く携わっていただきました。
佐藤正子さんは、株式会社コンタクトで、ロベール・ドアノーなどの有名写真家の展示や出版など数々手掛けておられます。本展示の開催にあたり、レイアウトや作品の管理などでご協力いただきました。

このトークイベントでは、出展作家の三浦先生とその作品を取り扱った佐藤さんから、写真家と聞き手として、牛腸さんのお話も含めて写真展に関するたくさんのお話を聞くことができました。

 

牛腸茂雄の写真はいかにして“残された”のか──展覧会とプリントをめぐる対話

佐藤 先程ご紹介いただいたように、私は、写真展の企画制作をしております。牛腸茂雄さんの展覧会を一番最初に開催させていただいたのは、2016年に、六本木にあるフジフイルム スクエア内の写真歴史博物館での展示でした。写真史に業績を残した方たちの展示をする場所でして、企画会議をフジフイルムのご担当者様としていた時に、私から牛腸茂雄さんをやってみたいと提案して実現しました。後から話に出てくるかもしれませんが、写真評論家の飯沢耕太郎さんを介して、三浦さんをご紹介いただいたのが一番最初のご縁になるので、かれこれもう10年ぐらいになります。

三浦 牛腸さんが亡くなってから40年以上が経ちました。少しずつ、牛腸さんに興味を持ってくれる方が増えてきたのですが、その立役者は、写真評論家の飯沢耕太郎さん。『デジャ=ヴュ』という雑誌に牛腸茂雄特集を組んでくれたおかげで、世間に知られるようになりました。

佐藤 それが牛腸さんが亡くなってしばらく経った1992年、牛腸さんが亡くなられたのが1983年だったので、ほぼ10年。亡くなってから9年経った頃に飯沢さんが『デジャ=ヴュ』で特集をされて。私も特集を拝見したのを鮮明に覚えてます。

三浦 その後、NHKの『日曜美術館』という番組で、写真家・牛腸茂雄が取り上げられたことによって、徐々に知られるようになりました。

佐藤 私はこの流れを、ずっと読者であり鑑賞者の立場として見てきました。そして、展覧会を企画する仕事をする中で、いつか自分が扱わせていただけたらと強く思っていました。関心があったのは牛腸さんの作品そのものだけでなく、その時代の日本の写真史におけるムーブメントでもあります。幸いにも三浦さんのご協力を得ることができ、フジフイルム スクエアで展示を開催することができました。あの時に展示したのは、40点ぐらいでしたかね。

三浦 そうですね。

佐藤 一大回顧展にならなかったという点も、取っかかりとしてはとても良かったと思っています。大きな回顧展を行うとなると、研究や準備にどうしても長い時間が必要になりますから、まずは40点ほどの展示ができたこと自体が、とても意味のあることでした。その際、展示する牛腸茂雄さんの全作品について、三浦さんが新たに展示用のプリントを制作してくださいました。その時に作られたプリントが、現在も展示のベースになっています。今回の展覧会で皆さまにご覧いただいている牛腸さんのプリントも、すべてその時に三浦さんが制作してくださったものを使用しています。

三浦 当時、牛腸さんには「オリジナルプリント」という認識が、あまりなかったんですよね。あくまで「印刷原稿」という捉え方だったと思います。現在、牛腸さんのオリジナルプリントが残っているのは、山口県立美術館に収蔵されているものです。これは、飯沢さん、そして2021年に亡くなられた東京都写真美術館の金子隆一さんが企画し、日本の戦前・戦後の写真を扱った展覧会を、山口県立美術館で3回にわたって開催した際のものです。その中で牛腸さんの『SELF AND OTHERS』が取り上げられ、オリジナルプリント、すなわち印刷原稿が収蔵されました。もう一つ、牛腸さんのオリジナルプリントとして印刷原稿の形で残っているのが、関口正夫さんとお二人で出版した写真集『日々』に掲載されている作品です。こちらも金子隆一さんが東京都写真美術館に収蔵してくださったことで、現在まで残っています。それ以外については、オリジナルプリントとしては残っていないんですよね。

佐藤 印刷原稿という認識だったのは、確かにそうなんですけれども、プリントとしてはとても素晴らしいんですね。牛腸茂雄さんは、ご病気の為、子どもの頃からそんなにもう自分が長く生きられないということをずっと覚悟の上で生きてた方なので、それこそ“生きている証”という言葉も使っていたりするんですけれども、写真集を何とかして残したいと。なので、彼が一番注力していたのは、“写真集を作ること”だったんです。今のように展覧会がいろんなところでできるような時代ではなかったので写真集として残すという意味も、今とは全く異なるのではないでしょうか。

三浦 当時は、写真を発表するための手立てが、今ほど多くはありませんでした。カメラ雑誌も、『アサヒカメラ』『カメラ毎日』『日本カメラ』など、いくつかはありましたが、選択肢としてはその程度でした。あとは、ニコンサロンに代表されるような、いわゆるメーカー系のギャラリーがあるくらいでした。ですから、自分の作品を発表しようとすると、雑誌に掲載されるか、自分で写真集を作るか、という限られた方法しかなかった。しかも、写真集の制作は、今のように簡単にできるものではなく、非常に時間も経費もかかるものでした。

佐藤 印刷原稿というのは、印刷したときに、どういうふうに自分の色を出したいかを考えてプリントされたものなので、やはり展示で見せる表現とは、少し性質が異なります。最初にフジフイルム スクエアで展示を行う際には、三浦さんが当時展示されていた際の状況を、サイズも含めて丁寧に検証してくださいました。そして、「ずっと残せるプリント」を目標に、新たにプリントを制作していただいたんですよね。

三浦 結構苦労しました。

佐藤 それがきっかけになって、最終的に大きい展覧会も開催できるようになって、2023年に兵庫県・市立伊丹ミュージアムで、牛腸さんの全てを見せる展示を企画しました。その時も、三浦さんが全部プリントをしてくださいました。『日々』と、『SELF AND OTHERS』、あとは『幼年の「時間(とき)」』、『幼年の「時間(とき)」』は未完に終わっていて、写真集としては結局出てないんですけれど、このモノクロのシリーズ3つは三浦さんが全部プリントを作ってくださって、それが今も皆さんに見ていただける展示のプリントになってるんです。

三浦 牛腸さんって最初デザイナーになりたいと思って、デザイン学校で勉強しているので、すごく仕事が丁寧なんです。で、そのカリキュラム「基礎造形」の中に「写真」という項目があって、写真の勉強をするのですが、仕事が丁寧なのと、課題の理解力が高いので、すぐ頭角を現してきました。

出会いが才能を照らすとき

三浦 牛腸さんが一番輝いていた時期は、アトリエブロックという建築事務所時代です。

桑沢デザイン研究所卒業の気の合う仲間たちと、他大学を卒業した建築関係者と、アトリエブロックを立ち上げ、さまざまな仕事をこなしていました。そうした場があったことが、とても良かったなと思っています。

佐藤 牛腸さんは、3歳のときに発症した胸椎カリエスの影響で、身長も伸びず、医師からは「20歳まで生きられるか」という診断をされたそうですが、デザインは中学、高校時代からも頭角を現すくらいすごく優秀だったというのは、いろいろなところに資料が残っています。その後、東京の美大に進学したいという希望があり、最終的に、桑沢デザイン研究所に入学したんですよね。お2人は桑沢デザイン研究所で出会われて以来のお付き合いになるんですが、そのお話が出たので、出会いからお話ししていただけますか。

三浦 入学初日、僕は教室の前の方に座っていました。すると、後ろから「この席に座っていいですか?」と声がしたので振り向くと、牛腸さんだったんです。当時は、一般的に障害を持っている人への理解があまり進んでいなかったので、牛腸さんを見たときは本当に驚きました。「どうぞ」と答えて、隣に座って話していくうちに、何か普通の学生とは少し違うなと感じました。どう表現したらいいかというと、眼が澄んでいるんです。話し方も理路整然としていて、すごいなぁと思ったのがきっかけで、その後、彼が亡くなるまで交友は続きました。

佐藤 亡くなられてからも、なおお付き合いがあるというのは、本当にすごい出会いだなと思います。そのお話を聞くたびに、他の方もおっしゃっていましたが、三浦さんは牛腸茂雄に選ばれちゃったんじゃないかと。もちろん無意識だったとは思いますが、牛腸さんも牛腸さんで、三浦さんに何かを感じるところがあったとしても、そこまで深く考えていたわけではないでしょう。しかし、何かがあって、たまたまそういうことが起きたのかな、というのは、あまりにも運命的なものを感じてしまいます。

三浦 ある時、牛腸さんが、「三浦さんは、そこにいるだけで十分です。」って言ったんですよ。その意味が、未だに分らない、考えている。80歳になってもね。自分の事を競争相手って見てないのかな?とかね。そんな風に思ったりしたこともありましたよ。

佐藤 牛腸さんは競争相手というか誰かに対して、たとえば、同級生や他の方とかにライバル意識みたいなのはあったのですか?

三浦 そういうのは表面には全然出ない人。だから人の悪口も言わないし。本当に淡々としてる人でしたよ。

佐藤 時間も限られていると思うので、自分がしたいことや表現したいことに集中する。そのため、あまり人のことまで構っていられないのかな、という気もします。表現者としてそういう人は多いのではないでしょうか。

三浦 多分そうだと思うんです。人のことを構っていられないと思いながらも、実はそれが一番気にかかる。で、自分の持ち得ていないものを吸収しようとするんですよね。僕は桑沢に入る前、都立工芸高校の印刷科に通っていました。高校では印刷、デザイン、木工、金属、機械などの各科がありました。当時はあまり知られていなかったのですが、美術作家・伝統工芸の子息などが多く、人間国宝が何人もいるんです。印刷科では、印刷技術を学ぶだけでなく、より基本的な美術的知識も含めて学ぶことができました。そうしたことから、牛腸さんは僕が印刷科出身であることを知ると、「学校で印刷クラブを作りましょう、印刷クラブを作りましょう!」と、とても熱心に誘ってくれました。相当しつこかったですね。

佐藤 面白いですよね、印刷クラブって。でも、どういうクラブなんでしょうね。もし実現できるとしたら。

三浦 グラフィックデザイナーとして、印刷知識のことを知りたかった、という思いがあったんだと思います。

佐藤 なるほど。座学的なところを吸収したかったんですね。なぜ工芸高校に進学しようとされたんですか?

三浦 僕の父が高等工芸の印刷科出身で、父の勧めで都立工芸に進学しました。僕は陸上ばかりやっていて勉強はあまりしていなかったので、父は「どこも行くところがないなら、都立工芸がいいんじゃないか。」と考えたようです。当時、都立駒場高校に行こうかなと思っていました。僕は勉強よりも陸上で、中学の先輩たちが二代続けてキャプテンを務めていたので、次は自分だなと思っていたんです。ところが怪我をして無理だとわかり、最終的に都立工芸高校に進むことになりました。

佐藤 桑沢デザイン研究所っていうのは、そういう意味では当時のことは今となっては全部わかるわけじゃないですけど、非常に独特の学校だったと思うんです。写真家の石元泰博さんがいたり、バウハウスを日本で初めて持ち込んで作られた学校なんですよね。

三浦 デザイン学校の先駆けみたいなところだったんです。

佐藤 お2人は桑沢デザイン研究所に入学し、そこで出会いました。もともとお二人ともデザインを学ぶつもりで入学したのですが、なぜ写真の道に進むことになったのかという点で登場するのが、大辻清司さんという人物です。大辻さんは写真家としても非常に重要な存在ですが、単に「写真家」と一言で片付けられないほど多才な方です。教育者としても優れ、三浦さんや牛腸さんだけでなく、近年では畠山直哉さんをはじめ、多くの写真家を導いてきた方です。

三浦 3年生で写真研究科に進んだとき、初めて大辻清司さんが僕たちの先生だと知りました。牛腸さんはもともとグラフィックを志していましたが、基礎造形での写真があまりに優れていたため、大辻さんをはじめ先生方が「写真家に向いているのではないか」と考えたようです。
僕が特にすごいと思ったのは、大辻さんが学生の作品を見て「これは絶対に写真の道に進むべきだ」と断言してしまうところです。後に大辻さん自身も、「この才能を潰してはいけない」と強く感じた一方で、身体的なことを思うと本当によかったのか迷いもあった、と書いています。

それほどまでに牛腸さんは理解され、見抜かれていた。大辻さんだけでなく、周囲にもそういう人がいたんです。多摩美を受験して落ちたとき、試験官が「桑沢という学校がある」と勧めたのもその一つでしょう。容姿だけで判断せず、本質を見ようとする人たちに、牛腸さんは救われてきた。その中心にいたのが、大辻さんだったと思います。

佐藤 私が、大きな展覧会を企画する際には、牛腸さんは、本来であれば今もまだお元気でいらっしゃってもおかしくない年齢ですが、やはり多くの場合、亡くなられた方の作品を扱うことになります。そのときに強く感じるのは、亡くなられた方の作品が、ただ単に「いい作品だから」という理由だけでは残らないということです。やはり人と作品との出会いがあり、作家の運命、亡くなった後の作品の運命が決まっていくのだな、と実感することが多いのです。そういう意味で、牛腸さんの作品に関わると、いつも三浦さんがおっしゃったようなことを私も感じます。

三浦 結局のところ、何か新しいことを最初にやるというのは、やはり評価されます。ですから、こうした写真を発表したという事実は、牛腸さんの前には誰もいなかったのです。『SELF AND OTHERS』のような作品も同様です。これは単に写真の技術が上手いか下手かという話ではなく、牛腸さんの能力や意識、そして独自の感性によるものだと、私は思っています。

佐藤 個人個人のものの見方や考えていること、感じていることは、特に写真というメディアでは表れやすいと思います。そういう意味で、牛腸さんや三浦さんも、それぞれの資質はお持ちだったと思います。しかし、桑沢デザイン研究所での大辻さんをはじめとする先生方との出会いや、その後の友人関係も非常に大きな影響を与えたのではないかと思います。

牛腸さんや三浦さん、そして桑沢を中心とした世代の方々には、1968年から70年代頃にかけて、コンテンポラリーフォト、いわゆるコンポラ写真と呼ばれる時代がありました。日本の写真史の中では、このコンポラ写真という括りは実は少し曖昧です。その時期、コンポラ写真以外ではどのような写真が撮られていたかというと、少し前の世代になりますが、『PROVOKE』や森山大道さんのような写真があります。これらは学生運動など激動の時代背景を投影するような、写真です。しかし、三浦さんたちは、社会が激しく動揺する時代にもかかわらず、そうした影響をほとんど受けず、全く異なる視点で日常を淡々と撮影していました。その独自性こそが、いわゆるコンポラ写真として括られる理由の一つではないかと思います。

三浦 でもね、コンポラ写真の当事者って、多分そんなこと考えてなかったと思います。今になってみるとそういうことだった。だから乱暴に言うとコンポラなんていう写真があったの?っていう人達もいらっしゃる。

佐藤 そうなんですよね、そのあたりは少し難しいところです。今スライドでご紹介した作品ですが、牛腸茂雄の「こども」です。

実は今回の展覧会で出品されている写真作品は、三浦さんの作品はすべて、子どもをテーマにした写真集『会話』からセレクトしたものです。牛腸さんの作品も基本的には、『日々』、それから『幼年の「時間(とき)」』、『SELF AND OTHERS』の作品ですが、この1点だけは写真集には収録されていません。この作品は1968年『カメラ毎日』6月号で「こども」というタイトルで掲載され、実は牛腸さんの作品が世に出た最初の雑誌掲載作品になります。しかも、その号は「コンポラ特集号」で、大辻清司さんがテキストを書かれており、非常に重要な1号です。それが偶然だったのかどうかは、私には正確には分かりませんが、とても興味深い事実です。

三浦 ちょっと違いますよね、この写真。牛腸さんの中でも独特です。この写真は、学生時代の初期の作品のような気がしています。やはり、何か意気込みのようなものが感じられるんですよね。だから、高梨豊さんや石元泰博さん、東松照明さんといった作家に、少し近い印象を受けるのかもしれません。

佐藤 でも、個人的にはこの写真は、いろいろなものを象徴しているようなところがあって、とても好きです。今回のDMにも使わせていただきましたし、展覧会の冒頭でも三浦さんの写真と並べて展示する際、どれにしようか迷ったのですが、やはりこれを選んでしまいました。

三浦 僕はこの写真がいいなと思うのは、この右側に立ってる男の子の後ろにちらっと写ってるおばさん。これがすごくいいなと。

佐藤 牛腸茂雄っぽいですよね。牛腸さんの作品も三浦さんもそういうとこがありますけど、何かこう見ているといろいろ見えてくるんですよね。

三浦 1つじゃないんですよね。複数の要素が入ってる。これが面白いですよね。

『こども』という共通言語──二人展で並んだ、時間差の視線

佐藤 展覧会の話になりましたが、今回「こども」というテーマを設定したのは黒田さんでしたよね。そもそも2人展を行うのは今回が多分初めてで、なら「こども」がいいのではないかと、黒田さんが決めてくださったんです。

牛腸さんの写真集には必ず子どもが写っています。テーマとして明確に括っているわけではないのですが。
一方で三浦さんは、『会話』という写真集をすべて子どもでまとめています。

ただ、三浦さんの他の作品には子ども以外の被写体も多く含まれています。

今回、「こども」というテーマで改めて展覧会をご覧になった際、どのように感じられましたか。

三浦 今回この展覧会を主催してくれたのを、一番喜んでるのは僕で、牛腸さんはもしかしたらあんまりやりたくないなと思ってるかもしれない。牛腸さんは『日々』を撮り、『SELF AND OTHERS』、『見慣れた街の中で』を撮っていきます。そして36歳で亡くなられるわけですが、私は牛腸さんよりも2周遅れなんです。1周ではなく、2周遅れで。牛腸さんの写真集作品をオマージュとして制作しています。決して真似るのではなく、自分の作品を出そうとしていますが、そういう形で子どもを撮り、その後、牛腸さんは亡くなる時に『幼年の「時間(とき)」』を出しました。さまざまな編集者に手紙を送っていて、それを見ると、老年期の作品も計画していたような節があるんです。私はその感覚を、何周遅れかでなぞっているんですね。ですので、ここで初めて、牛腸さんの写真に何周遅れかで自分の作品を並べた、そういう展示になっています。

佐藤 牛腸茂雄さんは写真集のために作品をきちんとセレクトし、組んでいらっしゃったので、その写真集をバラして展示するという行為自体が、かなりの暴挙になるんじゃないかと。私自身はお話をいただいたことはとてもありがたかったのですが、「本当にどうしようか」「どこまでやっていいのか」と悩みました。牛腸茂雄さんには熱烈なファンの方も多く、作品をよくご存知の方も多いので、何か変なことをしたら本当に怒られてしまうだろうと思い、非常に緊張しました。

三浦 実は、僕が最初に佐藤さんにお願いした時、普通であれば牛腸作品と三浦作品を分けて展示するのが一般的だろうと思ったんです。ところが、それをどうやってまとめて見せるのかということに、すごく興味がありました。最初にこの展覧会のレイアウトを見せてもらったときは、正直びっくりしました。でも、僕は自分が2周遅れで来て、トップの人と並んだような感覚になり、逆にすごく嬉しかったんです。競技場で1周遅れて走っているランナーの気分に似ていると思うんです。油断はできないけれど、走れた喜びもある。そんな感覚を、今回の写真展でも感じています。

佐藤 そんなに遅れているとは全然思っていなくて、その三浦さんの気持ちは今回初めて聞いて、なるほどと思いました。ただ、やはり若くして亡くなられた牛腸さんの視点と比べると、三浦さんの写真には、きちんと「大人の視点」があるように感じます。もちろん牛腸さんも大人になってから写真を撮っていますが、もし自分が子どもの頃にもっと自由で、健康だったらこうしたかった、ああしたかった、という思いで子どもを見ていた時代もきっとあったはずで、そうした複雑な感情が、子どもたちの写真の中ににじんでいるようにも見えるんです。これはあくまで私個人の解釈ですけれど。それに比べると、三浦さんの写真は、やはりとても「大人の眼差し」だなと感じました。

三浦 やっぱり時間が経って、きちんと「こども」を子どもとして対峙できるようになる。自分の子どもを育ててきた中で生まれてくる視線というのは、確かにそこにあるんですよね。だからいつも、牛腸さんはどんな気持ちで写真を撮っていたんだろう、というところにまた立ち返っていくんです。うん、やっぱり牛腸さんと関係を深めながらずっと続いて行くのかな。

もう一つの居場所──島尾伸三・潮田登久子と牛腸茂雄

三浦 アトリエブロックが牛腸さんの青春時代の最後を締めたと話しましたが、もう1つ重要な場があります。少し後になりますが、写真家の島尾伸三さんと潮田登久子さんの家庭です。潮田さんは僕たちが桑沢で写真を学んでいた時の助手で、島尾さんは造形大学の学生でした。2人の家庭には牛腸さんもよく出入りしており、しまおまほさんの写真も撮っています。ここも、牛腸さんの大事な場の1つだと思います。

佐藤 島尾伸三さんと潮田登久子さんはお2人とも写真家です。潮田さんは数年前に『マイハズバンド』という写真集を出版し、自身の家庭やまほちゃんも撮り続けた作品がまとめられています。潮田さんは80歳を過ぎても海外で高く評価され、一躍時の人となりました。その写真集には、牛腸さんが島尾家を訪れたときの写真も含まれており、交流の深さがよく分かります。

三浦 島尾さんていうのは、小説『死の棘』の作者の島尾敏雄さんの息子さん。だからもうすごく大変な生活を少年時代から送ってきたんだろうなって思いますよ。ずっと書かれてんだから。

佐藤 島尾敏雄さんは特攻隊の生き残りで、奥様は奄美のユタです。そのお子さんが島尾伸三さんで、お孫さんがまほちゃんです。島尾敏雄さんは『死の棘』にもなった作家で、いろいろ小説を書いています。実は三浦さんは沖縄で島尾さんのポートレートを撮影したこともあるそうです。牛腸さんが島尾家を訪れていた頃、三浦さんはあまり一緒に行っていなかったのですか?

三浦 一度も行ったことはありませんでした。島尾伸三さんはとても癖があり、近寄りがたい人で、人を人として見ないところがあるので、全然相手にしてくれませんでした。最近になって、やっと仲良くなってきたのですが、牛腸さんのことも辛辣に言いつつ、きちんと文章に残しています。だから、本当に大した人(大人)だなと思います。

沈黙の中で引き受けたもの──牛腸茂雄作品を守るということ

佐藤 ご遺族がいらっしゃるので、著作権の管理はご遺族がされていますが、作品自体は本当に全部、ネガも含めて管理されてるのは三浦さんなんですよね。牛腸さんが亡くなられた後に、なんで三浦さんがかなりの大役を担うことになったのでしょうか。責任もあるし、結構荷が重い話だと思うんですよね。

三浦 そうなんですよね。仲間はたくさんいたんですけど、誰も下を向いて黙っていて、何も言わないんです。だから牛腸さんが亡くなって整理する時、ネガをどうするかなど悩みました。書籍はご実家にすべて運び、牛腸コーナーのような形で一時的に展示していたんですが、作品やネガ、プリントをどう扱うかとなると、みんな「自分がやります」とは言えないんですよね。だって、それを預かって火事になったり、保存状態が悪くてダメになったら、何を言われるかわかりませんから。

佐藤 いや、ほんとネガって結構大変なことですよね。保管って言っても。

三浦 美術館でも少し前までネガって収蔵しなかったんです。作品は収蔵するんですけどね。最近ちょっと違うようになってきましたけど、その時に高梨豊さんが、「あんまり気負わなくていいんだよ。自分のネガとおんなじ状況で管理すればそれで十分で、それでダメならしょうがないんだよ。」って言ってくれたんで、「だったら、僕が預かりましょうか。」っていうことで、そのネガとプリントを大体茶箱を1箱ぐらいを僕がずっと持ってたんです。そのネガを、茶箱を見に来たのが、飯沢耕太郎なんです。大辻さんから、「三浦さん、牛腸さんに興味を持ってる学生がいるんだけど、三浦さん会ってやってくれませんか?」って言われて、「ああ、どうぞ。」って言ったら、飯沢耕太郎さんがビーチサンダルと短パンでやってきたんです。

佐藤 飯沢さんは筑波大学の大学院にいらして、そこで大辻さんと出会うんですね。

三浦 その茶箱を見てもらって。

佐藤 飯沢さんは実は調査に来てらっしゃる時に、展覧会とか牛腸展とかには行ってるみたいなんですよね。だけどご本人には結局一度も会えないまま。

三浦 そうだって言ってましたね。

佐藤 飯沢さんはじゃあその時、三浦さんのところへ来て、その牛腸さんが残したものを見られたのですね。

三浦 飯沢さんみたいな人だと、一瞥すると大体のものが把握できるから、それでいろんなことができるっていうふうに判断したんじゃないかと。

佐藤 それで、山口県立美術館に繋がっていくわけですね。

三浦 その山口県立美術館で写真展をやって、その後に茶箱を、島尾伸三さんのところに預けて編集したんですよ。それが、四谷三丁目のモールっていうギャラリーでやった展覧会と冊子になってるんです。

佐藤 プリントとか結構大きいコレクションは、先程言ったように『SELF AND OTHERS』は山口県立美術館、『日々は東京都写真美術館なんですけれども、それ以外に関しては、故郷、生まれ故郷の牛腸さんの新潟市美術館が基本的には管理されているんですよね。

三浦 その後に山形美術館、それから、新潟市美術館と三鷹市美術ギャラリー、この3館で牛腸茂雄の巡回展をやったんですね。その時に、家にある資料を全部持っていって調べた。で、それが『牛腸茂雄作品集成』っていうカタログになったんです。これができたおかげで、今、牛腸さんがきちっとちゃんとした形で紹介されていると思う。

佐藤 本当にそうなんですね。いろいろなところで、その写真以外でも紹介される機会が多いので、それこそ飯沢さんの『デジャ=ヴュ』で多分一番最初に出たんだと思いますけど、お姉さん宛のお手紙だとか、そういったものもかなり全部保存されてるんですけど、この時の新潟市美術館の松沢さんとか関係者の学芸員の方々がすごい入念にリサーチをして、きちっとファイリングをしてくださったおかげで、今いろいろな展覧会ができています。

三浦 この企画を立てたのが、共同通信社の石原さんっていう人なんです。石原さんの熱意で山形美術館、新潟市美術館、三鷹市美術ギャラリーが協力したっていう形なんですよね。

佐藤 石原さんはそもそもどこから牛腸茂雄展の企画を立ち上げたいと思われたんでしょうか?

三浦 おそらくモールでしょうね。

佐藤 そうやってちょっとずつ、茶箱の中に収められていたものが、いろいろなきっかけで世の中にちょっとずつ出て、整理されていくっていう過程を、三浦さんは本当に全部伴走してくださっている。

三浦 ネガ以外のコンタクトシートとか、『扉をあけると』、まだ作品集にはなってない『水の記憶』これも新潟市美術館に全部入ってます。なかなか見せてくれないけどね。

佐藤 そうなんですよね。先ほど三浦さんがおっしゃっていた2004年に開催された巡回展に合わせて、共同通信社から『牛腸茂雄写真集成』が刊行されたんです。本当に素晴らしい本で、「これ1冊あれば何でもわかる」と言えるような内容でした。ただ、その本が絶版になってしまい、手に入らない状況で、赤々舎の姫野さんが「それならば『牛腸茂雄写真集成』に代わる、より多くの方に見てもらえる写真集を作りましょう」と声をかけてくださったんです。そうして作られた写真集は、全作品を網羅した内容になっています。また、『SELF AND OTHERS』や『日々』については、昔の作品を復刻するかたちで制作されました。本当に印刷所も頑張ってくれて、丁寧に仕上げてくれました。

佐藤 現在、山口県立美術館に収蔵されている『SELF AND OTHERS』の印刷原稿のプリントをもとに、デザイナーさんやプロデューサーさんと一緒に収蔵庫を開けて見せていただき、実際にプリントを確認しながら印刷を作り上げていった、という経緯があります。

三浦 初版の『SELF AND OTHERS』はグラビア印刷なんです。今はもうグラビア印刷っていうのがほとんどなくなってしまった。で、オフセット印刷なんですが、実はこれ、同じ印刷会社が担当してるんですね。

佐藤 偶然なんですけどね、日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社という京都にある印刷会社さんです。

三浦 会社が力を入れて再現してくれてるので、デザイナーの方の力もあるんですけど、本当にちゃんとしたものに仕上がってる。で、発行はもう2年前でしたっけ?

佐藤 そうです。もうね、3年になりますね。

三浦 で、本当はすぐ資料編も出す予定だったんですけど、資料整理が思ったよりハードで、未だに作業中です。完成はいつですかと聞かれる度に「すみません。」と謝っているんですけど。

佐藤 そうですね。もともとの『牛腸茂雄写真集成』は、資料も写真もすべて収めた、1冊で完結する本でした。最初は今回もそのような形を考えていたのですが、すべてをまとめるとかなりのボリュームになってしまい、実現が難しいという判断になりました。そこでまずは、図録として写真集を制作することになりました。ただ、資料も見れば見るほどまだまだ多く残っているんです。せっかく新しく作るのであれば、そうした資料も掲載して、皆さんの手に届くかたちにしたいという思いもあり、準備に時間がかかっています。本はそのように、かたちとして世の中に残っていくものですが、展覧会は残りにくいものです。展覧会のために、三浦さんがプリントしてくださったモノクロ全作品を実際に見た方の記憶の中にはとどまると思っています。

それぞれが紐解く牛腸茂雄──連なり続ける評価

三浦 こうした活動を続けていると、やはり若い世代の方が牛腸さんに興味を持ってくれるようになりました。その1人が、小倉快子さんです。彼女は高校生のときに、新潟で開催された3館巡回の写真展を見て衝撃を受け、写真の道に進むことを決めました。その後、日本大学に進学し、自ら新潟に「BOOKS f3」という書店を立ち上げます。そして、そこで写真展を開催したいと考えました。『牛腸茂雄写真集成』はすでに刊行されていましたが、彼女はあらためて資料を調べ直し、自分なりに「牛腸茂雄とはどういう人物なのか」を問い直す展覧会を企画したのです。その際には、パンフレットも自ら制作していました。

佐藤 これが本当によく出来ているんです。今の彼女の世代から見た、新しい牛腸茂雄という視点がしっかりと盛り込まれていますし、もちろん強い思い入れや「好きだ」という気持ちもあるのでしょうが、それだけではなく、とても入念にリサーチがなされています。牛腸さんが辿った道を丁寧に追い、自分自身でも写真を撮ってまとめるなど、真摯に向き合っているんです。正直なところ、私自身もこれを見てかなり触発されました。実は、最初の段階で写真集の制作が少し滞っていた時期があったのですが、これを見て「やはりやらなければいけない」と強く思い直したんです。

三浦 その写真展のタイトルがね、すごくいいんですよ。

佐藤 牛腸茂雄 写真展 「SELF AND OTHERS〈失われた瞬間の探求、来たるべき瞬間の予兆〉」

三浦 彼女の気持ちは、本当によく伝わってきます。限られた時間の中で急ぎながらも、資料を的確に整理していて、これがあると牛腸茂雄という人物像がぐっと見えてくるんです。

佐藤 今のお話を聞きながら思ったのですが、良い作品が残っていくためには、作家自身の運命もありますし、亡くなった後に支える周囲の存在も関わっていると思います。ただやはり、新しい世代にどう受け取られていくか、ということが大きいのではないでしょうか。時代はどんどん変わっていきます。その中で、点と点をつなぐように受け継がれていくものこそが、本当に残っていく作品なのだと、牛腸さんのことを見ていて強く感じます。三浦さんは、日本写真芸術専門学校で先生をされていたこともありますし、若い世代や次の世代のことを、何かをするたびにきちんと考えて動いてくださっているように感じます。そばで見ていて、そう思うことがとても多いんです。決して「自分の言うことを聞け」というような姿勢はなく、むしろとても謙虚でいらっしゃる。その姿を見ていると、どうしてこんなに謙虚でいられるのだろう、と感じてしまうほどです。本当に、そういうところがまったくないんですよね。

それから、牛腸茂雄さんも、亡くなった当時は今ほど大きな評価ではなかったかもしれませんが、年を追うごとに再評価が進んでいきました。『デジャ=ヴュ』で特集され、大きな展覧会が開催され、さらにはドキュメンタリー映画も公開されるなど、少しずつ広がっていったのです。

三浦 佐藤真監督の『SELF AND OTHERS』これもいいよね。牛腸さんの肉声が出てくるんですよ。もうそれ聞いた時には鳥肌が立ちます。

佐藤 この映画の制作にあたっては、ドキュメンタリー映画監督の佐藤真さんが関わっていました。とても新しいタイプのドキュメンタリーを撮る方でした。三浦さんたちが牛腸家でさまざまなリサーチを進めていた際に、それまで誰も知らなかった、牛腸さん自身が録音していたテープが発見されたんです。

三浦 そうなんです。それ佐藤真監督と新潟市美術館の元学芸員 大倉宏さんがそれを見つけて、車の中で聞いて、何かもうゾクゾクしたっていう話を聞いていました。

佐藤 機会があれば、これもDVDになっているのでぜひご覧いただくと面白いと思います。私が言いたかったのは、こうして牛腸茂雄という写真家の名前が徐々に世の中に広まり、評価されていく過程のことです。その中で、三浦さんは淡々とネガを管理し、優れた作品をきちんと残すと同時に、ご遺族との関係も非常に良好な形でつなげてくださいます。三浦さんがいなければ、ここまで多くのことが実現しなかったのではないかと思うこともあります。ただ、三浦さん自身も展覧会をご覧いただくとわかる通り、写真家として同じ立場にいるので、牛腸さんに対して嫉妬やライバル心のような感情をほとんど抱かないんです。そこが本当にすごいなと感じます。同じ写真家として、どうしても「なぜ牛腸ばかり評価されるのか」と卑屈になりそうな場面もありますが、三浦さんは全くそうならない。その姿勢が、本当に尊敬に値するなと思います。

三浦 牛腸がじろじろ見られても卑屈にならなかったから、それに負けないようにと思って。

佐藤 でもやっぱりそういうお人柄を見抜かれていたんじゃないですかね。何か知らぬうちにやっぱり選ばれていたっていうのは、何かそんな気もしないでもないですけれども。

二人の写真が対峙する空間

ご質問ある方いらっしゃいますか?

質問者 今回の展示の見方は、会場を時計回りで見た方がよろしいでしょうか?見方を教えてください。

佐藤 今回の展示についてですが、正直なところ、順番はあまり気にせず、どう見ていただいても構わないと思っています。入ってすぐのパネルはこの方向に見えるのですが、私の最初の意図としては、左側から、さっきの子どもの大きな写真のあたりから見ていく流れを考えていました。ただ、会場自体が広くないので、順番に縛られず、むしろ自由に見てもらった方がいいのではないかと思っています。キャプションもあえてつけていません。そのため、少し見にくいかもしれませんが、これは展示の構成について何度も相談した結果の判断です。「これは牛腸さんの作品で、これは三浦さんの作品」ということは、牛腸さんをご存じの方ならわかるかもしれませんが、初めてご覧になる方はどちらの作品か迷うかもしれません。作品リストは配布していますが、それを見ながら、少し考えながら作品を見ていただくと面白いと思います。長く見ていると、だんだん「これは牛腸だ」「これは三浦だ」と、自然に見えてくるものもあるのではないでしょうか。展示の順番や構成については、三浦さんはいかがでしょうか。

三浦 こうした企画展は、やはり会場の場所によってかなり印象が変わりますよね。今回は、佐藤さんがおっしゃったように、基本的には左から見ていただき、ぐるっと回ってもらう形が基本です。ただ、並べ方を見ていただくとわかる通り、写真展では普通1列に並べることが多いのですが、今回は段違いの配置になっているので、どの順番で見ても構いません。気になったところを自由に見て回る、というので十分だと思います。

質問者 個人的には、『SELF AND OTHERS』の最後の写真、子どもたちが少しの煙のようなものに向かって走っていく場面がありますが、あれは明確なメッセージなのかな、と勝手に思い込んでいるところがあります。ただ、それが壁面の真ん中に配置されているので、ちょっと驚いてしまうんですよね。

佐藤 そうですね、私もそう思います。正直、この写真を入れるか入れないかは、本当に悩ましいところでした。入れるにしても入れないにしても、非常に有名な写真ですし、作品自体の力がとても強いので、展示するとどうしても浮いてしまうことは、最初からわかっていたんです。そのため、このセレクトの段階から、「入れるか入れないか」が大きな判断ポイントになっていました。

三浦 そうですね。でも、そうなると、双子さんの写真は入っていないんですよね。あれ(煙に向かって行く子どもたち)は牛腸さんの『SELF AND OTHERS』という写真集の中で、最後の作品です。ただ、それを今回のように、特に意味を持たせず何でもない場所にぽんと置いたときにどう見えるか、というのは非常に実験的な試みです。新しい発見があるのか、それとも失敗に終わるのか、そういうことを確かめる場でもあります。物事はこうした考え方をしないと、次に進めません。もちろん、牛腸さんが作った『SELF AND OTHERS』の写真集自体は、あれで既に完結したコンプリート作品です。

佐藤 そうですね。これで思い出したのですが、一番最初と最後、どちらが最初でどちらが最後でも構わないのですが、さっきの牛腸さんの子どもの写真に使った作品のことです。

要するにそれはあえてこっちに牛腸さん、

こっちに三浦さんっていう二人の写真が1点ずつは対峙するように、お互いが写真をこう見つめ合ってるんじゃないけど、そこはすごく意識したところですね。

 

ある意味で、三浦さんと牛腸さんの関係性を象徴するような形になっています。そのため、2人展としての意識を持ってもらえるように、1点1点の配置だけは最初から決めていました。

三浦 だから僕はこの写真展すごく嬉しいな、よかったなと思ったんですけど、牛腸さんはもしかしたらそう思わない?って最初に言ったのはそういうことです。

佐藤 あと、文字情報があまりにも少ないと、知識のない方は戸惑ってしまうだろうな、というのは、私自身も最初から感じていたことです。それから、窓側の壁についてですが、もともと壁がほとんどない場所だったため、最初はここに展示する予定はありませんでした。しかし、いろいろと黒田さんにご無理をお願いしたところ、なんとベニヤで壁を作ってくださったんです。

本当に大変だったと思うので、とてもありがたく感じています。

質問者 学生が見た方が良いオススメの写真集や作品を教えてください。

三浦 僕、結構いろんな写真が好きなんですよね。沢渡朔さんの『ナディア』とか、『少女アリス』とか、篠山紀信さんの『晴れた日』とか、いろんな作家を全部じゃないけど、色々見ています。図書館で片っ端から見た方がいい。片っ端からパッパパッパでいいの。それを見てる時に、どこか一つでもいいから引っかかると。それがなぜかなっていうのを自分で考えていけばいいと思いますよ。

佐藤 展覧会も見てください。写真集と展覧会って違う媒体なので、同じことを伝えようと思っても、写真集になった時と、展覧会、しかも展覧会って美術館みたいな場所もあれば、小さいギャラリーもあって、見る場所で作品も全然違って見えるし、テーマによっても、『SELF AND OTHERS』じゃないですけど、牛腸さんの個展だったらこういう並べ方はしないよね。っていうことも、展示のテーマに沿って見せる作品と、また全然違って見えると思うし。なので、写真集と展覧会って両方見てもらえると気づきもあって面白いかなと。

佐藤 今日ちょっと特別に、牛腸さんから三浦さんに送られたお手紙を持ってきてくださいました。

三浦 これ、僕が桑沢2年の時、20歳になった時ですね。牛腸さんの記した日付見ると、昭和41年2月21日ってなってるから、ちょうど20歳になった時に僕に手紙をくれたんです。それ読みますね。

三浦 君が手にあふるる水は、過ぎし水の最后のものにして、来たるべき水の、最初のものである。現在という時も、また、かくのごとし。ーレオナルド手記、人生論よりー

いつか、むかえねばならない“この時”といっても、これは形式的な人生における、ある一時点であるのかもしれません。しかし、人間には、このような、割り切れない“もの”「何かが」やっぱり必要と思うんです。ボクもあと数ヶ月で、貴殿のあとを追って、このような事に直面しなければならないのかと思うと、人ごとのように思えないのです。そして、二度と来ないこの日を称えるべく、心から「おめでとう。」とこの一言をお贈り致します。今後の御多幸を祈り致しております。常々のお礼というより、感謝の気持で、微々たる余りふさわしくないものであるかもしれませんが、フィルム(SS・20)をお贈り致します。(貴殿のお進すみになられる道、また、思いのままに使って永久(?)に残るもの、しかも、お金のかからない、そんなことから考え合わせて。)また、フイルムはどこにも売っておりますが、20才(はたち)のシャッターは、いかに技術が向上しても押すことのできないものと思うんです。そんなシャッターが、このフィルムに切られたら、この上ない喜びかと存じております。

ではこの辺で筆を置かせて戴きます。

三浦和人様

牛腸茂雄 41・2・21


 

三浦様、佐藤様、貴重なお話ありがとうございました。

文・編集/PicoN!編集部 市村

展示撮影/黒田渉

 

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