出逢い、想像することからすべてが動きだす。
>前編はこちら『どうせ、動くのなら、納得して動きたい。』
共感・納得が行動の基になる。
「なるほどネ」って、共感して、納得して、腑に落ちた時の心の動きです。
「これは面白い」って、目の前がパァーッと明るくなる瞬間です。
「ニンマリ」って、へッへッへッ、ちょっと得した気分だな・・・と...
出逢いが、ヒトを動かしていく。
1964年に東京オリンピックがあり、2021年の東京オリンピックまで57年間が経ちました。その57年間を振り返ってみようと思います。
- 1964年 ( 17歳 ) 東京オリンピックが開催され、私は山口県岩国市の瀬戸内海沿岸を聖火ランナーとして走り、高校2年生でした。亀倉雄策さんデザインの赤い日の丸を大胆に処理したポスターは、力強い構成で強く印象に残りました。同時に発表された陸上競技選手のスタートシーン、水泳の選手を正面から捉えたポスター、すごい写真だナーと感じたのを憶えています。( 写真は早崎 治さんです)
- 1966年 ( 19歳 ) 明治大学一年生の時に、資生堂の前田美波里さんをモデルにしたBEAUTY CAKEのポスターに刺激され ( これは後日、分かるのですが、NDSの校長をなさった中村 誠さんの作品でした )「デザイナーになるにはどうしたらいい?」と、多摩美卒の先輩に相談したところ、日本デザイナー学院を紹介してくれました。資生堂の山名文夫先生が学院長で、東京オリンピックの競技別ポスターや、日宣美 ( デザイナーの団体 )の審査委員などをやっていらした板橋義夫先生から教えてもらえるということで、明治大学を中退し、日本デザイナー学院で学ぶようになりました。
考えることはタダだから、自由に遊べる。
- 1969年 ( 22歳 ) NDSの研究科を卒業し、銀座のデザイン事務所で鍛えていただきました。一晩で40案考えろと、デザイナーは考えるのが仕事だと、叩き込まれました。
- 1973年 ( 26歳 ) 銀座の事務所のあと、広告代理店に移ったのですが、銀座時代に毎日40案ノックを受けたせいか、広告代理店のデザイナーさん達がみんなアホに見え、井の中の蛙になっていました。そんな時、板橋先生から「もう少し俺の所で勉強しなおせ!」と、お叱りを受け、学生時代から憧れていた事務所に入れてもらえました。
- 1974年( 27歳 ) 板橋先生のお許しを得て、南青山に事務所をつくりました。ビクターエンターテインメントのレコード ( まだCDは出ておりません)をやっていて、EP・LP共にビクターさんの出される半数以上はやっていたと思います。歌手やタレントさんが事務所に訪れてくれて、華やいだ時代でした。この頃、NDSで教えるようになりました。
楽しく遊びたいから、楽しく仕事する。
- 1977年 ( 30歳 ) 私たちの南青山の事務所を板橋先生のADIスタジオと合併させ、仕事量が倍増した頃です。亀倉さんはじめ、デザイン界の巨匠の先輩方が板橋先生を訪ねてこられ、いろいろ勉強させていただきました。酒のお供は、「待ってました!」でした。’64年のオリンピックから既に10年以上経っているのですが、マラソンを素足で走り優勝したエチオピアのアベベ選手のイメージを使い、M銀行のキャンペーンを行いました。エベレスト登頂に成功したヒラリー卿や文豪ヘミングウェイを使いましたが、肖像権はクリアーにしていなかったのではないかと・・・まだ未熟な時代でした。
- 1979年 ( 32歳 ) 少数精鋭で事務所をつくり直し、表参道に拠点を置き、これからの30年間が大忙しの時代になるわけです。1987年に富士屋ホテルさんと知り合い、1994年にゴルフの仕事が始まり、以前から付き合いのあったクルマの仕事をやりながら、企画から制作までオールラウンドに走り回っていた感じです。オリンピックを観ている時間もないくらいの忙しさの中で、毎日が回転していきます。
自分が責任を取るつもりなら、何でもできる。
- 1998年 ( 51歳 ) 長野冬季オリンピックが開催されました。縁がありパラリンピックに協力することになり、24枚ものカレンダーを企画しました。著名人や文化人、スポーツ選手に絵を描いてもらい、15日に1枚のカレンダーに仕上げます。3,300枚印刷し、全国に3,000円で買ってもらえば約1億円ですから、パラリンピック事務局にも少しの協力ができるのでは、との計算です。北野武さんはじめ24人の方々の協力を得ました。カレンダーを売り上げ、その内から、印刷代、配送代、事務経費などを支払おうとするわけですから、これは大変でした。プロデューサーの役目として全国への告知があるのですが、快く協力してくださった有働由美子さん( その当時はNHKでした )、フジテレビの安藤優子さん ( 安藤さんには絵も描いていただきました )には感謝しています。
口から出した言葉には責任を持つ。
- 2021年 ( 74歳 ) 18歳までは親に育ててもらい、36歳までは所属する会社に育ててもらう。54歳までは、これまで培ってきた企画・表現力で社会と闘ってみる。55歳から72歳までは、これまでお世話になった社会に感謝の意味も込めて、いやな仕事も安い仕事も奉仕のつもりで恩返しをする。73歳からは好き勝手にモノづくりで遊び、やりたいことに突き進む。でしたが、73歳になった途端にコロナです。そして、2021年は東京オリンピックです。
好き勝手に東京オリンピックを寸評させていただくと、1964年の東京オリンピックの時に初めて登場したピクトグラム ( 絵文字ですネ )も、2020年では分かりやすく精緻化され、素晴らしいと感じると同時に、これからのデザイナーは、対象を簡略化する能力が必修だとも感じました。残念なのは、エンブレム決定の際のドタバタ劇、開会式、閉会式の手順、内容等のデザイン界の評判を地に落とすような発言・行為が一部の人たちによって、露呈したこと。では、どうすれば良いのか?私なりの答えは持っていますが、この場では枚数も足りませんので、何か、機会があれば皆さんと話してみたいテーマです。
デザインは、問題解決業です。これから勉強をして意識を昂めたい方には、次のことを薦めます。想像力をつけましょう。想像力とは、
▷疑うこと ▷思いをめぐらすこと ▷考えること ▷思いつくこと
▷トライすること ▷そして実現すること 楽しんでください。
文・村中凱