[連載]見えているものについて考えるvol.2/江澤 勇介

コミュニケーションの記憶から考える。

1971年に埼玉県北本市に出来た北本団地は、部屋数2000を超える大きな郊外型団地です。昭和-平成-令和と長い間地域の暮らしを支えてきましたが、築年数約50年を迎えた現在、高齢化率は40%を超え、団地の子供たちが通うために作られた小学校も2021年3月に廃校となるなど、北本市内でも局地的に少子高齢化が進んでいる地域となっています。団地中心部にある商店街もシャッター化が進んでおり、栄えていた頃に比べるとかなり寂しい状況です。

 

私は、生まれてから高校を卒業する手前くらいまでこの北本団地に住んでいました。子供の頃の北本団地商店街はいつも賑わっていて、酒屋さんの店先で売っていた駄菓子やガチャガチャ、祭りの日の夜遅くまで遊んでいたことなど、楽しい思い出ばかり残っています。
いちいち約束しなくても、商店街の隣の公園に行けば誰かが遊んでいたので、いつも退屈することはありませんでした。インターネットが無い時代だったというのも大きいですが、人の数も多く、色々なものがごちゃごちゃに混ざったまま日常の時間が流れていたので、毎日何が起こるかわからない楽しさがありました。

前の記事で、地元である北本市に特に愛着はないかのように書きましたが北本団地にはかなり愛着があるかもしれません。童謡ふるさとに歌われるような日本の里山の風景とは違いますが、記憶の中の団地や商店街は、自分にとって原風景のようなものになっています。

私が団地から引っ越した2000年代前半にはもう商店街のシャッターは目立ち始めており、団地の人口減少や少子高齢化も進み始めていたのだと思います。おそらく私の家と同じように団地で暮らし、ある程度子供が大きくなったら外に引っ越していくという家は多かったでしょうし、そもそも高度経済成長期の急激な人口増加・住宅不足の流れで生まれた郊外の大型団地という存在自体が「途中の場所」として機能し、その後の人口減少によって空洞化していってしまうことは、ある意味必然だったのかもしれません。

なんて、社会学的なにわか知識で偉そうに分析しても、既にそこに暮らしていない自分は当事者ではないし、団地や商店街の衰退に何か意見を言う権利も立場もないのかもしれません。それでも徐々にシャッター化し寂しくなっていく北本団地商店街をみては「仕方ない」「関係ない」では済ませられない、複雑な感情を抱いていました。

一方で同時に、シャッターの並ぶ商店街はとても可能性のある場所なんじゃないかとも考えていました。あそこのシャッターが開いて、本屋が出来て、カレー屋ができて、ライブハウスが並んだら、もう最高じゃん。という感じで、秘密基地を作るように色んな妄想ができる、イメージが生まれてくる場所として、可能性を感じていたのです。
自分のように子供時代を団地で過ごした後「卒業」してしまった人間が、大人になってからも団地商店街に遊びに来られる場所があれば、こんなに寂しい場所にならなくて済むし、週に1日くらいなら仕事を休んで駄菓子屋をやっても良いかもしれない。1人じゃ辛いけど、同じような人が5人いれば週5で駄菓子屋開けられるな、など、考え始めればいくらでも楽しい妄想が浮かんでくる、本当に可能性のある場所なのではないかと思っていました。

とはいえ、シャッターを開けてお店を作るなんてそんな簡単なはずもなく、お金もかかるし仕事もあるし、なかなか実現できる話ではありません。寂しくなっていく北本団地商店街を横目で観ながら、自分の考える「北本団地が面白くなる可能性」なんて所詮は妄想なのかなー、と時間だけが過ぎていきました。

 

しかし思ったことは口に出してみるもので、タイミングや縁がつながり、何人かの友人や団地出身者が集まり、2021年6月、北本団地商店街に「中庭」という場所を作ることが出来ました。その経緯は詳しく書くと長くなりすぎるので割愛しますが、私個人の目線からみると、そういう個人的な感傷と複雑な感情、楽天的な妄想とタイミングがあわさって出来たのが「中庭」です。
(中庭ができた経緯について、もっと詳しく知りたい方はこちらのリンクをどうぞ↓↓)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/ur-kitamoto_jp_616536e9e4b0cc44c5103518

 

「中庭」はジャズ喫茶を中心としたシェアスペースで、ある時は子ども食堂の会場になったり、不登校の子達の居場所になっていたりします。かき氷屋、居酒屋、八百屋にハンドマッサージ、割れた器を直す金継ぎのワークショップが行われたこともありました。定期的に開催されるジャズライブでは、地元のお客さんも市外県外からのお客さんも一緒になって音楽を楽しんでおり、その時々で年齢性別属性を超えた様々な人が集まり交流する場所になっています。

色々な役割を果たす「中庭」ですが、活動の中では一貫して”開いている場所””コミュニケーションの場所”であることが大切にされています。考えてみれば子供の頃に遊びまわっていた商店街も公園も、誰か”だけ”の場所ではない共有空間でした。今、この巨大な団地と中心にある商店街がまちの中庭のような共有空間として開かれたら、面白いことが起こるんじゃないだろうかと考え、場所の名前を「中庭」と名付けたのです。
私たちの場所ではあるけれど、私たち”だけ”の場所ではない、お客さんの場所でもあるけれど、その人”だけ”の場所ではない。そこにいる誰かと一緒にいること、そこに来たい誰かに対して開いていることを大切にしながら、中庭=商店街=北本団地で生まれるコミュニケーションをみんなで面白がって運営しています。

「中庭」が出来たことで、団地で過ごす時間も増えました。かつて自分が駄菓子を買っていた商店街で子供達にかき氷を売っていると、新鮮なような懐かしいような、何ともいえない気分になります。私は子供時代の団地の楽しい記憶があったからこそ「中庭」を作ろうと思い立ちました。記憶は理由になるのです。同じように、もしかしたら、今かき氷を食べている子供達のこの記憶が、いつか原風景となって、この場所で何かを始めるきっかけになるかもしれません。「中庭」で生まれるそんなコミュニケーションの記憶の一つ一つが、未来につながる可能性を持っているのです。それはシャッターが閉まったままでは決して生まれなかった可能性です。

北本団地商店街に「中庭」ができてからまだ約半年ですが、無かった時のことはもう思い出せないくらい、当たり前にそこにある場所になりました。
北本団地には何もない、というイメージが、北本団地商店街には「中庭」があって良いね、に変わり「中庭」があるから北本団地に引っ越してきたという移住者も増え始めています。さらに、私たち以外にも「シャッターを開けたい!」と商店街に拠点を作ろうとする人たちまで現れており、今は集まってきた作家さんたちと一緒に、商店街に二軒目の拠点【まちの工作室】を作るクラウドファンディングに挑戦しています。
(ご興味お持ちいただけましたら、ご協力お願いいたします!↓↓)
https://www.furusato-tax.jp/gcf/1548?fbclid=IwAR0hJVddQdVMqvWcPMlrvD_Sr7WkwS44R0lYcn5NRSpuT-3RNfVyq1nOuxo

 

「中庭」の試みは、新しくて懐かしい未来を考えるための実験でもあります。商店街のシャッターが開き、コミュニケーションが生まれ、楽しい記憶が積み重なっていくことで、北本団地商店街はますます面白い場所になっていくことでしょう。ぜひ一度遊びにきてみてください。

写真・文 江澤 勇介

江澤 勇介
埼玉県北本市を拠点にしたまちづくり会社、暮らしの編集室の人。マーケットの企画・運営、場の運営、文筆、編集、まちづくりなど、何でもやる人。本業は写真を撮る人。現在北本市でシェアキッチン&シェアスペース「ケルン」「中庭」の二つのスペースを運営中。

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