西島伊三雄〜人に愛されるクリエイターの在り方を学ぶ〜

九州で生活をされたことのある方なら、一度は彼の作品を目にされたことがあるでしょう。

今回は、今年生誕100年を迎える、福岡出身のデザイナー/童画家の西島伊三雄(にしじまいさお)氏を特集します。

〈Profile/西島伊三雄〉

1923年(大正12年)福岡県福岡市生まれのグラフィックデザイナー・童画家。
専門学校日本デザイナー学院九州校初代校長
主な受賞歴に、二科特待賞世界観光ポスターコンクール最優秀賞全日本観光ポスターコンクール最優秀賞などがある。
また、福岡市営地下鉄の駅シンボルマーク博多座ロゴマーク、ハウス食品「うまかっちゃん」ネーミング、パッケージデザインなども手掛けている。

お話しを伺ったのは、アトリエ童画代表取締役社長で西島伊三雄氏の息子でもある西島雅幸(にしじままさゆき)氏です。

流暢な博多弁を交えながら、気さくに、そして楽しくお話しをしていただきました。

全2回でお届けする今回の特集。
前半では、西島伊三雄作品のルーツと、彼自身がどんな人間であったのかをお話しをいただきました。

長年愛され続けている「うまかっちゃん」「福岡市営地下鉄」「博多座」などのデザイン。
そして、彼の作品を観る人が、自分の子供時代を思い返すことができる童画

これらの作品を生み出した西島伊三雄というクリエイターは、どんな人物だったのでしょうか。

お話しを聞いていくに連れて、現代のデザイナーやイラストレーターにも通ずる、大切なポイントに気付かされることとなりました。

 

「デザインは、そのデザインが生み出されたプロセスが面白いんです。」

 

そう言って、西島雅幸氏は話しを切り出してくれました。

西島雅幸氏)
デザインっていうのは、そのデザインが生み出されたプロセスが面白いんです。多分、デザインの勉強を始めた方々は、そこが1番気になるところだったりするんじゃないんでしょうか。

デザインを教える人は、デザインのやり方だけを教えてしまうことも多いですからね。
ただ、デザイナーっていうのは商業のデザインなんですよね。画家とは違うわけです。商業デザイナーの中に分類できるイラストレーターとかもそうですよね。

やっぱり、デザイナーにしてもイラストレーターにしても、作品を作っていく相手のことをよく知っておかないと描けないと思っています。

 

編集部)
西島伊三雄氏は、そもそもどのような経緯で商業デザインの世界で活躍をされたのでしょうか。

 

西島雅幸氏)
うちの親父(西島伊三雄氏)は、もともとは絵描きだったんですよ。
絵を描くことが好きだったんです。

生前に「将来は何をしたかったのですか?」という質問を受けた親父は、「本当は映画の看板が描きたかった。」と答えていましたね。

その理由に関しては、「昔はレクリエーションというは映画しかなくて」と答えていました。
しかも、主役のきれいな俳優の人の絵を描けるから、自分も心が躍る。」って。

親父はどちらかというと、自分で想像した絵を好きに描くんじゃなくて、相手から喜ばれる作品を考えて描くのが好きだったんです。

 

編集部)
本当に相手を考えて作品を制作することに喜びを感じられていたのですね。

 

西島雅幸氏)
二科展ってご存知ですか?親父は、そこの審査員を勤めさせていただいていたんですよ。
だけどその審査員の仕事を辞めてしまうんです。とある有名な先生からも引き止めてもらったんだけど、親父はもっとやりたいことがあった様子で。

そして、日宣美日本宣伝美術)に応募するんです。
当時は、二科展の審査員をしていれば、お仕事がもらえるような時代でしたから。にわかには信じ難い選択ですよね。

ただ、親父がやりたかったことと、日宣美の作品とが合致したんでしょうね。
例えば、キャッチコピーだけで面白かったり、ただ星を描いているだけでも、それが一等賞になる。そんな仕事を私は好いとー(好きだ)」って言ってましたね。

 

編集部)
描くことの楽しさを重視されていたのでしょうか?

 

西島雅幸氏)
そうだと思います。人に見てもらうためにはどうすれば良いのかと。そんな仕事が好きだったんでしょうね。

そんなこともあり、次にやるのが、駅貼りポスターの仕事だったんです。
当時は、博多駅にも3.4点のポスターが貼られていて、親父も「ここに貼ってもらえたら嬉しかー」と言っていたようです。

そして、そこに貼るものが何が良いのかを考えると、観光ポスターだったということです。
当時は、写真を使ったポスターが多かったんですが、親父はやっぱり絵が好きなので、絵を使ったポスターを制作していくわけです。

昔は門司鉄道管理局っていうのがありました。そこで、観光ポスターコンクールっていうのが開かれて、そこに出品していました。
すると、今度は世界観光ポスターコンクールというのがあり、そちらで最優秀賞を受賞することになるんです。

それが、この唐津のポスターです。

世界観光ポスターコンクール最優秀賞(昭和34年)

そしたら、今度は全日本観光ポスターコンクールも開催されて。
そこでは鹿児島のポスターを出典して、こちらも最優秀賞に選ばれるわけです。

 

編集部)
どの作品も、本当にその土地の特徴というか、魅力が詰まった作品ですね。

 

西島雅幸氏)
親父もそれを描きたかったということですよね。
だから、より魅力を伝えるために、ただ水彩で描くだけじゃなくて、版画油絵などを駆使して制作を行っていました。

さらに、油絵で描いた作品では、カメラマンを呼んできて、ライトの当て方によって、岩肌のゴツゴツした感じを表現したりもしていました。
これこそが、グラフィックデザインの面白いところだったんでしょうね。

当時は、図案屋と呼ばれる仕事でしたが、図案屋は、こんなに面白い表現ができる時代になったということを作品を通して表していたように思います。

全日本観光ポスター展最優秀賞(昭和40年)

画文集を見ながらお話しをしていただきました

 

編集部)
アイデアをどんどん創出する。今でこそ、制作はソフトで簡単に行えることも多くなりましたが、それでも最初のアイデアの出し方っていうのは変わらないですよね。

 

西島雅幸氏)
そうです。アイデアは、今も昔も一緒ですよ。

 

編集部)
作品制作のこだわりはあったのでしょうか。

 

西島雅幸氏)
本物を、まず自分の目で見てから制作することを大切にしていましたね。自分の目と足と肌で感じたものを描かないと伝わらないというのが信条でした。

例えば、食べもの。
制作対象の土地に行ったら、その土地の人々に食べられているものを食べる。すると、その土地の本当の雰囲気がわかってくるらしいんです。

自分の頭の中で描いていたその土地と、本当に感じたその土地とでは違ってくるらしいんですよ。
そのように自分でその土地を感じることで、イメージを深めていくことも出来てきますし、そこに対する感情も変わってくる。

これらを作中に落とし込んでいっていたのです。

これって、食べ物だけじゃなくて。言葉だってそうなんですよ。
うちの親父はどこかへ行って、帰ってくると、必ず行き先の言葉でしゃべるんです。
佐賀から帰ってきたときには、
あさん、きゅーはなんしよっかんた?」(訳:あなたは、今日何をしていましたか?)とか言い出すんですよ。笑

さらには、身なりも変わってくるんです。
メキシコから帰ってきたときには、ヒゲを生やして、メキシコの歌を歌いながら帰ってきましたね

そして、「テッキーラ飲みたい!」なんて言いながら、心から制作をする対象に染まっていましたね。

 

編集部)
今は、インターネットで検索すると多くの情報を得ることができる時代になってきていますよね。

 

西島雅幸氏)
そうなんですよね。
今って、自分が欲しい情報は簡単に得ることができる。

 

編集部)
一方で、なかなか人との繋がりとか、そういう中で得られる感覚というものが少なくなってきているように思います。

 

西島雅幸氏)
人との繋がりの話で思い浮かぶことが、うちの親父が一番嫌いだったこと。それが電話1本で仕事を引き受けることだったんです。

今でも、よく電話1本で仕事の依頼が来たりしますよね。親父は、あれが好きではなかったようです。
作品を制作する土地に行くのと同じで、まずはどういったクライアントなのかを実際に肌で感じる

それに加えて、クライアントの目を見て話す。このことを、大切にしていましたね。
目を見て話すからこそ、伝わる情報も多いですからね。

 

編集部)
現代のクリエイターでも、そのようなことを通して相手の心を慮ることができる人材になることは重要かもしれませんね。

 

西島雅幸氏)
要するに、気遣いですよね。

どこの世界・業界でも同じだと思うんですが、気遣いができる人じゃないと、その先での活躍は難しいと思いますね。
逆に、それが出来てさえいれば、自分の次の成長に繋げるチャンスが生まれてきますからね。

 

編集部)
その気遣いを大切にされていた西島伊三雄先生の作品からは、温かさが伝わってくるように思います。

 

西島雅幸氏)
そうです。それと、思いやりですね。
やはり、思いやりがないと絵は描けないでしょうね。

童画を制作するとき、親父は必ず童謡をレコードでかけて作業をしていたんです。

このように童謡をかけて作業をすると、心がすごく落ち着くというか。童心に戻って、そして昔の情景を思い浮かべながら制作ができると言ってました。
そうやって、絵を見てくれる方と同じ目線で、同じイメージをしながら描いていたんですね。

観光ポスターでも、その気遣いは同じです。
現地の職人が汗水垂らして作業をしている様子なども、取りこぼさず作品に活かしているんです。

それは、作品の表現にも現れますし、作品を通して、現地の職人に対する尊敬の心を表すこともできます。だから、これまでお付き合いのあったお客さんからもよく言われるんです。「西島先生は人間くさいけん良かー」って。

これに加えて「目線が下からだから良か」とも言ってもらえます。
偉くなったり、有名になったりすると、どうしても上から目線になってしまう人が多いのではないでしょうか。うちの親父は、常に平等でしたね。

 

編集部)
1968年に開校した専門学校日本デザイナー九州校の初代校長も務めていただいておりました。

 

西島雅幸氏)
親父は、学生さんと触れ合うのも好きでしたね。
学生さんに教えるだけではなく、親父自身も学生から吸収したいと考えていたんだと思います。

たとえ相手が学生だとしても、1つでも自分の引き出しが増えれば良いと考えていたのでしょうね。
だから、自分が制作した作品を、わざと大人に見せずに、学生さんに見せて意見を聞いていたこともありましたね
そこで、学生さんに言われた屈託のない感想が、新たな制作に生かされることもあったと思います。

 

編集部)
出会ったもの全てが制作に活かされていたんですね。

 

西島雅幸氏)
でも、そんな親父も、失敗することだってあったんですよ。

鹿児島の繁華街でお酒を飲んだ後、夜9時くらいに歩いていたときです。
みんなで気分良く歩いていたら、道端に絵描きさんがいたんです。
通りを歩いている方の似顔絵を描いてくれるような方がいますよね。
すると、親父は「ちょっと筆を貸してくれ」と言って、「俺も描いていいか?」と絵描きさんに尋ねるんです。

呆気にとられて絵描きさんも
「1枚ならいいですよ。」とか言うので、その絵描きさんの似顔絵を描き始めたんです。

それが、また上手すぎて。笑
気づいたら、人集りが出来てしまっていたんですよ。

親父と一緒にいた付き人の方々が、
それだけは先生だめ!」「あんたプロでしょうが!」って言いながら、焦って止めさせたんですけどね。
親父は
俺酔っ払ったけんすまんなー」なんて言いながら、
なぜか絵描きさんに1000円渡してましたよ

 

編集部)
楽しいことや、人を喜ばせることが好きな方だったのでしょうか。

 

西島雅幸氏)
業務時間内は本当に厳しい人でした。
職人という言葉を使うと伝わるでしょうか。

整理整頓を始め、良いデザインを生み出すために大切なことには妥協をしないという感じでした。
ただ、業務時間以外は、本当に人を喜ばせることが大好きな人でしたね。

その代わり、常に近くにいた息子としては大変でした。親父と同じように、人を喜ばせる必要がありますからね。
だから、トーク力はもちろん、常に新しい情報などには敏感でしたね。

当時は「ザ・ドリフターズ」なんかが流行っていたから、「アイーン」なんかの真似もしていましたね。

また、親父は歌も好きだったので、前川清さんの「長崎は今日も雨だった」の替え歌を準備したりもしましたね。
そして、そのネタがウケると親父も喜ぶし、周りにいる人も笑顔になるんです。

そんな感じで、みんなが親父の周りに集まってきて、そこでデザインのコミュニティが生まれたりもしていましたね。

 

 

 

今回は、ここまで。
後編では、「うまかっちゃん誕生の裏話なども伺っています。

2022年9月8日(木)〜9月20日(日)の期間、
福岡アジア美術館で

『西島伊三雄生誕100年
昭和「あの頃」展』

も開催されます。

入場料は無料です。
また、会期中には西島伊三雄氏の作品展示に加え、今回お話しをしていただいた西島雅幸氏の特別講演会なども予定されております。

詳細は、公式ページからご覧ください。

それでは、後編もお楽しみに!

 

 

専門学校日本デザイナー学院九州校
PicoN!編集部

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