【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.6 “誰もいない東京”の衝撃 中野正貴『TOKYO NOBODY』(リトル・モア、2000年)鳥原学
大都会から人が消えた風景……。それはまるでSFやゲームの世界そのものがトリックでも合成でもなく、いたってストレートな写真である。中野正貴の信じられない挑戦は、東京の景観に潜む過去と未来を無人の風景に浮かび上がらせたのだった。
奇妙な予感とともに
ディティールまでしっかり写された都市の風景写真集には、豊かな「読み応え」がある。さまざまな建築の規模やスタイル、その集合体としての街区の景観などから、この街の成り立ちを推理してみたい。そんな欲求が鋭く刺激されるのである。
2000年に出版された中野正貴の『TOKYO NOBODY』も、そんな魅力の結晶体だ。本書は1990年代の東京の都心部を繊細に描写した写真集だが、どのページにもまったく人の姿がない。銀座の目抜き通り、渋谷のスクランブル交差点、乗客数日本一を誇る新宿駅の周辺などから、見慣れた群種の波が消えている。
そのため、よくできたジオラマか特撮映画のワンシーンのように見えるが、フォトショップで消したわけでもなければミニチュアのような作り物でもない。正月やゴールデンウィーク、あるいはお盆休みなど、東京の街角が空っぽになる早朝の一瞬を狙い、撮られたものである。
本書を眺めるたびに驚きを覚えるのは、剥き出しの風景が都市の対極的な側面を鮮明に描き出しているからだ。首都高など幹線道路沿いの高層ビルはきわめて整然と造られているが、ひとつ道を入ると、奇抜で派手な看板で埋まった通りが現れる。その自己主張の強さは、互いの広告効果を相殺しているように思える。ところが街区全体を俯瞰すると、不思議に美的なバランスが取れている。都市と計画的に構築しようとする公的な意思と、そこから逸脱しようとする個々の欲望との葛藤。それこそが、いわゆる東京らしさを作り上げてきた駆動力だと思えてくる。
成り立ちだけではなく、東京の未来像さえ、奇妙な予感をともなって頭に浮かぶ。この無人の光景は未知のウイルスのアウトブレイク(感染症集団発生)や大規模なテロ、あるいは高濃度の放射能によって訪れた東京の終末の姿ではないかと。じっさい新型コロナ禍で緊急事態宣言が発せられたときの風景はそのとき目の前の写真はすでにジオラマではなく、一種の遺跡として立ち上がってくる。
本書が出版されると、この不穏な予感は、さまざまな表現者へと伝染していった。たとえば作家の三崎亜記は、これにインスピレーションを得て町から自らの意思で消滅するというSF小説『失われた町』を2006年に発表した。また2012年に発表された、廃墟化した東京に潜む野生動物を撮るビデオゲーム『TOKYO JUNGLE』も本書の影響が強いと言われている。
写真は一般的な意味での記録や表現にとどまらない。時として呪術的な力を発揮する危険性をも持ち合わせている。画像のイメージが多くの人々に拡散して浸透すると、やがて現実そのものが、イメージを実体化する方向に動き出していくのである。
事実、本書が世に出た2000年以降、私たちはこれに近いことを間接的、あるいは直接的に何度も経験してきた。出版翌年に起きたアメリカ同時多発テロ、2000年代後半の鳥インフルエンザや口蹄疫の流行、2011年の3・11、そして2020年から続く新型コロナのパンデミック。これらの事象を記録した写真や映像を見るとき、心配性な筆者には、本書のイメージが重なるのである。
首都高が描いた未来
『TOKYO NOBODY』が出版される前年、中野正貴は写真集のプロトタイプを作っている。そのタイトルは完成作とすこし違って『NOBODY TOKYO ROAD SCENE』で、除かれた2つの単語「ROAD SCENE」に、実は作品のコンセプトが現れている。それは都心の幹線道路、なかでも首都高を軸に東京を俯瞰する視点である。
実際『TOKYO NOBODY』を読み解こうとすれば、高速道路の描写が大きなカギとなる。画面の左右や天地を貫き、うねりながら長大に伸びるアスファルトのラインは、都市の疾走感と拡張への意思を表している。さらに街並みを俯瞰する目線の高さも重要だ。素晴らしく見晴らしの良い超高層ビルの最上階ではなく、ほぼ高速の高架に準じている。このような視点の置き方はおよそ理屈ではなく、少年時代から持ち続けてきた、東京に対する身体的な感覚によるものだ。
中野は1955年に福岡で生まれ、翌年に父の転勤に伴い一家で東京に移ってから、ずっと山の手や新興の住宅地で暮らしてきた。以降、すでに半世紀以上になる生活経験のなかで今も忘れられないのは、代官山に転居した小学3年生のときに見た風景である。それは1964年、記念すべき東京オリンピックが開催される直前だった。
代官山は渋谷に近い。さらにサブ会場として、丹下健三が設計した国立代々木競技場や選手村にも遠くはない。中野の住まいの周辺は、オリンピック開催に向けて急速に改造されていったのである。闇市跡のマーケットや米軍住宅など、戦後の名義が姿を消し、東京は近代的な都市空間に変貌した。子どもの目にとっては、読んでいた本に描かれた未来都市が、いきなり出現したようなものだった。なかでも中野が衝撃を受けたのが、首都高の建設だった。低層の建物しかなかった当時、その上に巨大な構造物が現れ、自動車がそこを走り抜けていく光景は未来そのものだった。
中野少年が憧れたこの首都高の発展は、まずオリンピックの開催までに4路線、計32キロが計画されたところから始まる。以降、道路網は着実に拡張され、それに伴って担うべき役目も変わっていった。越澤明の『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫)には「東名高速などと接続することにより都市間高速道路の受け皿としての役割も持たされるようになり、都心への交通集中をいっそう加速させた」とある。2010年代には総延長距離が、当初計画の約10倍近くにまで伸びている。
また1963年に建築基準法による建築物の高さ制限が撤廃されると、数年後には高層・超高層ビルが立ち並びはじめた。結果として、現在の首都高の状態は、ビルの間に張り巡らされたコンクリート製の蜘蛛の巣にも喩えられる景観を呈している。
この光景もまたきわめて未来的、それもアジア的な混沌を抱えたSF空間そのものではないか。そう考える中野がもっとも東京を実感するのは、海外旅行の帰途、車を成田空港から都内へ走らせているとき。東京港連絡橋、通称レインボーブリッジを走りながら過密と混沌を一望して初めて「東京に帰ってきた」と感じるのだという。
撮り続ける理由
『TOKYO NOBODY』は中野にとって初の著作物になる。このとき彼は45歳、すでに写真家としてのキャリアは十分に積んでいた。仕事の範囲もきわめて広く、本書にあるような建築のほか、大掛かりなスティルライフの広告や雑誌の表紙なども手がけている。なかでも大半を占めていたのは、芸能人などのポートレート撮影だった。
このようなタイプの写真家には珍しく、中野は写真を専門に学んではいない。出身は武蔵野美術大学の視覚伝達デザイン学科で、2年次で受けた写真の授業で初めてカメラを手にしたくらいだ。ただ、この一コマが転機となった。じつに個性的な担当教師の村井典善が、その才能を最初に認めたのだ。それは授業が終わった後、午前2時ころまで村井が中野の写真を批判し続けたというエピソードからもわかる。そこまで追い込むには、学生の粘り強さを見抜いていなければならない。
中野が奮起するのも、教師の予想どおりだったろう。翌週の授業には人物のポートレートと、東京の風景をスナップしたモノクロ写真20枚を提出すると、村井は「現時点で完ぺきに近い写真群」との評価を与えた。中野はこのときの写真の中に『TOKYO NOBODY』から始まる『東京窓景』『TOKYO FLOAT』など一連の東京シリーズの原型があったと振り返る。
これを機に写真家を志した中野は、大学を卒業すると広告写真家の秋元茂のスタジオに入った。ここに勤めたのは9か月ほどでしかない。だが高度な技術と造形センスを持つ師匠から学んだことは多く、さまざまな仕事をこなすためのベースとなった。
さらに独立した後も、収入を機材や写真集の購入などに費やしたというから、表現への意欲の高さがわかる。なかでも強い関心を持ったのは現代美術であり、スーパーリアリズム絵画や写真におけるニューカラーという、アメリカの新しい潮流だった。前者は別名フォト・リアリズムともいい、写真をもとにして、それと区別できないほどの細密な絵を描く傾向である。一方のニューカラーは、ネガカラーを用いた外光のもとでの色彩表現で、1980年代以降の写真表現に大きな影響を与えた。
この両者の表現に共通するのは、日常的な都市生活の一端を描写の対象とした点である。たとえば街角のダイナー、駐車中の車、看板やショーウィンドウ、ハイウェイ、スーパーマーケットなどのある風景。このような見慣れた存在が、精細な描写と柔らかな色彩の中で異化されたとき、アメリカ社会特有の空気感が醸し出される。
自分の見続けてきた東京の空気を、このように描き出すことは可能だろうか。そう中野が考えるのは必然だった。それも、この都市が追い求めてきた「“高速度”や“高密度”を全く、逆手に取ったような表現」によって、概括的につかみ取りたい。そのために1990年から取り組み始めたのが。誰もいない東京を大型カメラで描写することだったのである。写真集の出版まで、この困難な撮影は11年間続き、ついに1990年代の東京の風景をもっとも見事に描き出した作品となった。
ただし本書でこの作業が終わったわけではなく、今も撮影は続けられている。この手法にここまでこだわるのは、変貌し続ける東京の、過去も未来も含んだ過去も未来も含んだ素顔のなかに、中野自身の変わらぬアイデンティティが見えてくるからかもしれない。
中野正貴(なかの・まさたか)
1955年福岡県生まれ。翌年より東京に暮らす。武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業後、秋元茂に師事。1980年よりフリーに。雑誌の表紙や広告の撮影などを多数手がける。2001年『TOKYO NOBODY』で日本写真協会賞新人賞を、2005年『東京窓景』で木村伊兵衛写真賞、2008年『MY LOST AMERICA』でさがみはら写真賞を受賞。そのほかの写真集に、『SHADOWS』『TOKYO FLOAT』などがある。
参考文献
中野正貴『東京窓景』(河出書房新社 2005年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)2005年4月号 「第30回 木村伊兵衛写真賞受賞者発表 中野正貴 写真集『東京窓景』」
『日本の新進作家 – 風景論』(東京都写真美術館 2002年)
『東京人』(都市出版)2000年10月号 中野正貴「TOKYO NOBODY 誰もいない東京」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。