Alec Soth(アレック・ソス)インタビュー 心の声を聞くために

アメリカを代表する写真家Alec Soth(アレック・ソス)の「Gathered Leaves」展が神奈川県立近代美術館 葉山で開催中だ。日本における美術館での大規模な個展は初めてでもあり、連日多くの観衆を集めている。

1969年生にミネソタ州ミネアポリスで生まれたソスは、2004年に出版した写真集『スリーピング・バイ・ザ・ミシシッピー』(シュタイデル)で注目され、以来精力的な活動を続けてきた。その中心は写真集で現在までに計25冊を出版している。もちろん展示活動も盛んで、2015年からはロンドンを皮切りに、大規模な回顧展「Gathered Leaves」が世界を巡回している。

葉山での展示も同じタイトルだが、内容は独自に構成されている。アメリカを題材とし、写真集に纏められた5つのシリーズから80点が並ぶ。つまり大河ミシシッピーに沿って印象的な人たちと風景を写した「スリーピング・バイ・ザ・ミシシッピー」、新婚旅行のメッカと呼ばれる景勝地で愛のかたちを探した「ナイアガラ」(2006)、世俗を捨て孤独へと逃避した人々の精神世界をテーマとした「ブロークン・マニュアル」(2010)、アメリカの土着的なコミュニティを訪ねた「ソングブック」(2015)に加え、写真についての写真となった最新作「ア・パウンド・オブ・ピクチャーズ」(2022)である。

大型のフィルムカメラを使ったポートレイトや風景写真で知られるソスは、アメリカのストレート・フォトや旅する写真家たちの系譜に連なる作家だ。代表作を集めたこの展示からは、そこをベースとして、さまざまな写真的な実験を重ねてきたことが見えてくる。

写真家自身はこの展示を通じて、その歩みをどのように振り返ろうとしているのだろうか。7月17日、私たちは展覧会の開催に合わせて来日したソスから話を聞くことができた。

先人たちからの影響について

まずソスに聞きたかったのは、彼が繰り返しアメリカ国内を旅して撮影するその動機についてだった。大判カメラのディテールの豊かな写真を見ていると、アメリカ社会の文化とそこで生きている人たちの精神的な傾向が浮かび上がって見えてくる。しかし、ソスはアメリカ社会をドキュメントしているつもりはないと語った。

「確かに展示されているシリーズは、全てアメリカ国内で撮影したものです。しかしアメリカ国内だけで写真を撮ってきたわけではありませんし、アメリカであることは二番目に重要なことに過ぎないんです。もちろん、そういう伝わり方をしていることは自分でも理解しています。
いつも私の念頭にあるのは、ウォーカー・エバンスの流れなんです。つまり彼が「ドキュメンタリー・スタイル」と呼んだ考え方、必ずしも社会的なテーマを追ったドキュメンタリーではないけれど、そのスタイルを借りて個人的な表現をすることです」

ウォーカー・エバンスは20世紀のアメリカを代表する写真家であり、1938年にニューヨーク近代美術館で写真家としては初の個展「アメリカン・フォトグラフス」を開いたことで知られている。それはありふれた建物や人々の姿を捉えた写真群で、社会的なスケッチであると同時に、それを越えて普遍的な美を見いだそうとする試みだった。ソスはその姿勢を意識的に引き継いでいるのだ。

また、2人の共通点はもうひとつある。ややこじつけになるかも知れないが、それはアメリカの“国民詩人”と呼ばれるウォルト・ホイットマンだ。エバンスが、1971年にニューヨーク近代美術館で回顧展を開催した際、展覧会図録の冒頭にホイットマンの詩集『草の葉』から「保証」が引用された。それは“世界の威厳と美しさとは、世界のどんな小さな部分にも存在している…”という一節だ。そしてソスもホイットマンを愛読し「Gathered Leaves」というタイトルもまた『草の葉(Leavesof Grass)』に由来する。

「ホイットマンの詩はアメリカ社会を捉えているのと同時に彼自身の内面を歌うものでもあり、つまり二面的になっています。なかでも一番有名な「ぼく自身の歌」はとても内向的な詩です。
同じことは写真という表現についても言えますよね。例えば私はロバート・フランクの写真集『アメリカ人』に影響を受けました。あの作品は1950年代のアメリカの現実を語っていると思われがちですが、私にとってはフランク自身の内面のように見えます。日本の深瀬昌久さんの写真集『鴉』にしてもそうです。暗闇の中で 北海道のカラスが撮影されていますが、私には深瀬さん自身のことが写されているように思えるのです。
私は写真で、外の世界と自分自身の内面の関係について、バランスをとろとしているのです。以前、私の内面だけを撮ろうとしたことがありましたが上手くいきませんでした。また私はマグナムに所属するフォトグラファーでもありますから、社会的なドキュメンタリーを撮ろうと試みることもあります。でも、こちらもあまり上出来だったとは言えないでしょう」

様々な先人の影響を受けて表現者としてのアイデンティティを確立してきたソスだが、そこから脱しようともがいた時代もあったという。だが、やがてそれを肯定的に受け入れるようになった。

「若いころは先人の影響から逃れようと懸命な時期もありました。新しい写真を作らなければと思っていたんです。ですが、しだいに写真は“言葉”だと気づいていきました。言葉の中にはいくつもの方言があるように、私の写真はアメリカの方言だと思うのです。それもインターネットが到来する以前に生まれたアメリカ人であって、そのような世代の言葉です。私と同様におそらく、ほとんどの人が生まれた時代の影響を受けているはずです」

人見知りだった少年時代

『スリーピング・バイ・ザ・ミシシッピー』から始まるソスの作品において、共通する核になっているのが無名の人々のポートレイトだ。彼らに対してカメラを目線の高さで水平に構え、写されている人々はそれを無表情に見返している。その無表情さゆえに、鑑賞者は彼らについてのさまざまな想像を掻き立ててしまう。ソスはどうして、こうした不思議な表情を引き出すことができるのだろうか。その撮影のプロセスを尋ねてみた。

「例えば車を運転していたり、ランチをとっているとき興味深い人を見かけたりすると、まずカメラを持たずに話しかけてみるんです。私自身のことや撮影の目的を説明し、合意ができればカメラを取り出して組み立てます。大型カメラですから三脚を出して、カメラを組み立ててと、時間をかけて準備をするわけです。その間に、その人がこちらを理解してくれる雰囲気が出来上がっていくんです。
写真を見た人からは「なんでこんな悲しそうな顔をしているの?」と聞かれることもありますが、その場の雰囲気を落ち着かせて撮っているからで、本当にちょっとした指示をするだけなんです。

写真を撮る人はそれぞれ様々な方法を使いますよね、同じ大型カメラを使っていても、リチャード・アヴェドンだと至近距離から撮影して相手を挑発したりもしますが、それは社会的な仮面を剥がすためですよね。彼の対象には著名人が多いからでしょうね。しかし、私の対象は弱いところを持った普通の人たちであり、できるだけ自然体でいて欲しい。
たいてい私はまったく知らない人物を撮っているわけで、撮影を通じてその人から何を学べるかを試みているんだと思います。その人に対する自分自身の反応からも、学ぶことは多いんです」

 

他者に対する興味をこう語る現在のソスだが、少年時代には、かなりの恥ずかしがり屋だったよう。そんな彼を変えたのは高校時代の出会いだった。

「ひとりの美術教師が私の内向的な性質に気づいて、アートと言うツールを与えてくれました。その頃は絵を描いたり、屋外彫刻もやったりしていました。写真はその彫刻を撮るところから始めたのです」

そんな彼が最初に惹かれた写真作品は、ロバート・アダムスの写真集『サマー・ナイツ』だった。自然の多いコロラド州の郊外住宅の夜景を端正に撮ったシリーズである。

「当時はまだ写真のことを全く知りませんでした。なぜ惹かれたかと言えば、人が写っていない夜の街を、写真家が一人で歩いて撮っているからです。当時は人が苦手でしたので、これなら自分でもできると言う発見が大きかったのです。この願望は今も続いていて、好きなだけ放浪し、風景だけを撮ってみたいと思う時もあるんですよ」

高校卒業後、ソスは故郷のミネソタ州のミネアポリスから離れ、ニューヨークのサラ・ローレンス大学で写真を学んでいる。当時、1990年前後は写真が新しいアートとして注目を集めていた時期であり、その中心地がニューヨークだった。しかし、卒業とともにソスは故郷に戻ることを決め、以来、ここで写真家としての実績を積んできた。ただ、当初は不安もあった。

「ニューヨークでの競争は厳しく、精神的な負担が強い場所でもありましたからね。もちろん20代の時は、時代に取り残されることをすごく心配していましたよ。ミネソタに戻って写真家としてのキャリアを重ねていけるとは思えませんでした。取り残されている感はもちろんありました。

当初は、妻とサンフランシスコに行こうという計画もあったんです。しかし、子どもができたり、家族が病にかかったりして生まれ育ったミネソタに留まることになりました。
幸いだったのはその頃、インターネットとインクジェットプリンターが普及したことです。私はブログで注目をされるようになりましたし、インクジェットプリンターで思い通りのダミーブックやプリントを作れるようになった。つまり自分ひとりで作品制作全体が完結できるようなりました。それがとても良かったんです」

こうした環境のもとで、ソスは1999年から取り組んでいたシリーズ『スリーピング・バイ・ザ・ミシシッピー』をダミーブックにまとめた。それが2004年にホイットニービエンナーレに選出され、写真家としてのキャリアをスタートさせたのだった。

写真を再発見した『ア・パウンド・オブ・ピクチャーズ』の経験

展覧会の構成について尋ねると、まず、最初に展示されている『スリーピング・バイ・ザ・ミシシッピー』について、あまりプリントサイズを巨大なものにせず、写真集を見るような感覚を与える大きさに抑えているのだと教えてくれた。それは「最初に持っていたスピリット」を見せたかったからだという。また『ブロークン・マニュアル』ではよりインスタレーション的な見せ方をして、展示に変化を付けたと言う。なかでもソスが「気に入っている」と語ったのが、最後に展示される『ア・パウンド・オブ・ピクチャーズ』だ。このパートだけ、額装ではなくプリントが壁に直接貼られている。

「企画の段階で、今回の展示には新作の『ア・パウンド・オブ・ピクチャーズ』を組み込めると気づいたんです。作家にとって新作を見せられるのは凄く嬉しいことなんです。“写真の重さ”がテーマの作品ですから、ピンナップで見せるのがとても適切だと思いました。
特に私がやりたかったのは、私の作品と他の誰かが撮ったスナップショットとを並べることです。これはコマーシャルギャラリーの展示ではできなかった手法でしたから、今回実現できたのが嬉しいんです。こうして見てもらうと、普通の人が撮った写真のなかにも力強いものがあることを理解してもらえるでしょう。写真は、それが扱われるコンテクスト(文脈)によって左右されるのだということも実感します」

彼の話にもある通り、同作はいわば“写真”についての写真である。それも偉大な写真家のそれに限らず、ごく普通のアメリカの人々が、日常的に撮ったり壁に貼ったりするような、あるいはフリーマーケットで箱単位で売られるような類の写真だ。そこにソスは写真についての原初的な喜びを発見していった。このことは、写真集の序文の一節からも分かる。

自分で撮るだけでなく、古着屋やフリーマーケットで他の人の写真も手に入れました。ロサンゼルスでは、写真をパウンド単位で量り売りしている女性に出会いました。こうした冒険とアナログの宝物は、私が初めて写真に夢中になったときのことを思い出させてくれました。カメラは、歩き回り、掘り起こすための口実だったのです。”

「私は最初の写真集でデビューしてから、作家としてどんどんプロフェッショナルになっていったと思います。ただ時にそれが問題を生んだり、危機として感じたりすることもありました。だから『ア・パウンド・オブ・ピクチャーズ』では意図的に初心に戻ろうと考えたんです。その結果、写真についてのプロジェクトとなり、写真を撮ることの喜びを再認識させてくれたのです」

順調に思われるソスのキャリアだが、ときには制作手法について悩んだり、倫理的な葛藤を覚えたりすることもあったわけだ。だが、最終的には自分自身のスタイル、あのウォーカー・エバンス流のスタイルを貫くことに回帰していった。

「大型のフィルムカメラを使うというスタイルは、正直に言えばオールド・ファッションだと思われるでしょう。『ソングブック』ではそれを乗り越えようと、デジタルカメラを使ってジャーナリスティックに撮ろうとしたんです。大型カメラだと動いている被写体など撮れないものが多いですし、これまでのスタイルにも飽きが来ていましたから。

でも正直に言えば、私はやはり大型カメラを使うのが好きなんです。といってアナログ写真の“チアリーダー”になろうなどとは思ってもいませんよ。ただ好きなことをやり続けているだけなんです。
そんな私のことをいろいろ言う人もいますが、気にしないようにしてます。大切なのは自分の心の声を聞いて、自分がやりたいことを続けることです。私がミネソタに住んでいるのは、そこが自分の一番落ち着ける場所だという理由からかもしれません。ここでは自分の心の声を聞くことができますから」

最後に、写真を学ぶことについて、どのように考えているかを聞いてみた。これまでソスは様々なところで教えてきた。時には巨大なキャンピングカーを借りて移動しながらのワークショップを試みたこともあった。『ア・パウンド・オブ・ピクチャーズ』の写真にはその過程で撮られたものも含まれているのだ。しかし、彼の答えは意外なものだった。

「教師と言うのはとても大事な仕事だと思っています。というのは、高校時代に私は自分の人生を変えてくれた先生に出会ったからです。

私自身、旅をしながら教えるということもやったことがあります。そこで学んだのは、残念ながら、私は私に影響を与えた先生みたいにはなれないという事実です。そもそも気質として先生に向いていないということに気づきました。大勢ではなく、一人となら上手くいくかもしれませんがその程度です。

ただ、生徒には、教えている私自身が何をやっているのか分かっていないということを知ってもらえたと思います。生徒たちはいつも答えがあると思っていますが、表現には正解なんかありません。自分で答えを探すことこそが大事なんです」

 

インタビューを通じて繰り返しアレック・ソスが語ったのは、時流や流行とは別に、自身の道を自分自身で決めることの大切さだった。どんなに成功しようと、作家はいつも暗闇の中にいるようなものだ。それだけに、自分が何すべきかことを知るには、まず心の声に耳を澄ませたり、自分に影響を与えてきたものについて深く考える時間と場所を持ったりすることも必要だろう。こうした内面の探索の中から、多くの人の心を動かす作品が生まれてくることもある。ソスが実践してきたのは、きっとそういうことなのだ。

 

文・インタビュー:鳥原学
訳:小川潤子
写真:植田真紗美

 


関連記事