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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.7 “積み重ねられた東京の日常的断面” 長野重一『遠い視点』(オリジン出版センター、1979年)鳥原学

日常の風景には、奇妙でおかしな瞬間がたくさん紛れ込んでいる。長野重一は、都市生活者として自らも街に溶け込み、そんな瞬間を丹念に撮り続けた。長く続けられた『遠い視線』で、時代に翻弄される東京の姿を克明に描き出したのだった。

 

不思議な日常

1986年3月、長野重一は個展「遠い視線」を銀座ニコンサロンで開催した。会場には東京の日常をけれん味なくスナップしたモノクロの作品と、これを撮り始めた動機も掲示されていた。

「幼いころから住みなれてきた東京の街が、いつの頃からか、しだいに私の視線の中で遠のくように思えてきた。そうした心の中の移ろいに気づいたとき、もう一度東京の街を写してみたくなった。遠のいてゆく街の姿を見つめようとするこの作業は、いまここにいる私自身を、逆に遠い視点で見つめることでもあったようだ」

この個展は好評を博し、3年後には42点の作品で構成された大判の写真集がIPCから出版されている。以降、長野はほぼ5年ごとに『東京好日』(1995年)、ワイズ出版写真集叢書版『遠い視線』(2001年)、『遠い視線 玄冬』(2008年)といった写真集を世に送った。

20年以上も続くシリーズゆえに、昭和の末から21世紀初頭にかけての東京を、生活者の目線で記録した「年代記」として読むこともできる。大きな事件や出来事は登場しないが、都市生活の奇妙さが、これ以上ないほどクリアに見えてくるのだ。長野自身、その点について写真集『この国の記憶』(日本写真企画)でこう述べている。

「特殊な状況の中に行くより、僕らの日常生活は不思議でおかしいことがつまっている。それに気が付かないのは、たまたま見過ごしているか、感覚がまひしているかのどちらか」だと。

「不思議でおかしいこと」を切りとるための撮影スタイルは、広角レンズで引き気味に都市のディテールを淡々のカメラに収めるという、じつにシンプルなものである。長野はこの手法こそが、日常の風景に対して「一番威力を発揮する」のだとも言う。

それゆえ、『遠い視線』の東京は、ジオラマのように見える。広くうつされた幾何学的な街の景観も、それを行き交う人たちも、小さくてミニチュアじみている。街と人の壊れやすさ、危うい関係が画面に漂う。無意識に予感する日常の落とし穴。あるいは猛スピードで走る都市に自分が取り残されているという疎外感が、写真に織り込まれているのだ。

1983年に渋谷区の桜丘の交差点でとられた一枚には、この意識がかなり明確に見出せる。ここで捉えられているのは、広い交差点の中央で起こった自動車とバイクの衝突事故。路上に投げ出された人物と、その横に立ちながら周囲を見渡す青年。その周りを何台もの自動車が等間隔に、いつものように秩序だって流れていく。

都会では毎日どこかで起こるアクシデントではあるが、長野はこの光景を、交差点に架けられた陸橋から冷静に観察している。その眼差しこそ、文字どおり『遠い視線』なのである。

 

焼け跡の出発点

個展での一文にあるように、長野は7歳から東京で暮らしてきた。それまでは大分の実家で育てられ、小学校に上がるのを機に上京し、父の叔父にあたる実業家夫婦の養子となった。それが1932(昭和7)年のことで、以降、東京での暮らしは2019(令和元)年に亡くなるまで、80年を超えている。

スマートな都会人に見える長野だが、生前は「自分は大分の田舎育ちで、いまも都会に対しては一種のアレルギーがある」と語っていた。この自己認識が、果ての無い近代化を続ける都市環境と人のライフスタイルの関係を取り続けてきた原点になったのだった。

その長野が写真を始めたのは慶応中学(旧制)のころで、大戦中の1942年に大学予科に進むと、精力的な活動でアマチュア写真界の注目を集めていたサークル「フォトフレンズ」に入会。ここでは芸術写真家の野島康三といった指導者や、後に『ライフ』のスタッフカメラマンとなる三木淳などの先輩にも恵まれたものの、時代が悪かった。戦争の激化により、活動は一年ほどで中断を余儀なくされている。

プロとしてのキャリアは、戦後の復興期に入った1949年、岩波映画製作所が創刊した『岩波写真文庫』に参加したときに始まる。同氏は百科事典の分冊刊行とでもいうべきB6版の小冊子で、さまざまなテーマを写真で図解して見せた。テレビ放送も始まる以前の、ヴィジュアルメディアが少なかった当時、『岩波写真文庫』は斬新に見え、幅広い層から支持を集めた。

これを企画したのは、1930年代の日本にドイツ発祥のフォトルポルタージュ、つまり報道写真をもたらした名取洋之助だった。1933(昭和8)年に、名取はフォトエージェンシーの日本工房を木村伊兵衛らと立ち上げ、『NIPPON』をはじめとする国策のための対外宣伝誌を多数刊行した。そこから、土門拳や藤本四八など多くの報道写真が世に出たことは、よく知られている。それゆえ日本工房は別名「名取学校」とも呼ばれた。

時期は違うが、長野もまた名取学校で鍛えられたひとりだ。戦後直後の1947年に、名取が創刊した『週刊サンニュース』に記者として参加し、アメリカの『ライフ』のような総合グラフ雑誌を作ることをともに目標にした。このときに長野は、同誌の写真部長だった木村伊兵衛の助手を務めていて、スナップの名人の撮影作法を知り、また名取からは写真編集のノウハウを学んだ。

『岩波写真文庫』は、『週刊サンニュース』が戦後不況のなかで2年に満たず廃刊した後に、創刊された。ここを1954年末で辞めるまで、長野は60ものタイトルで撮影を担当しているのだが、次第に説明的な写真を撮ることに物足りなさを覚えた。そして従来の客観的な報道写真とは違う、より主観的な見方で同時代の社会を表現する道を選んだのである。

 

写真への帰還

今から思えば、1950年代がドキュメンタリー写真の全盛期全盛期であり、写真家たちは多くの社会的な話題を提供した。アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集『決定的瞬間』が流行語になるほどの人気を呼び、1956年にはニューヨーク近代美術館が企画した世界最大の写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」が百万人もの観衆を集めた。また、被害者の現実を凝視した土門拳の『ヒロシマ』(研光社)が出版され、日本人に大きな衝撃を与えたのは1958年のことだ。

長野重一も1960年代前半になると写真雑誌で続けて連載を持ち、その合間には大きな特写をこなすようになった。

連載のタイトルを挙げてみると1960年『アサヒカメラ』〈話題のフォト・ルポ〉、翌年同誌の〈群像〉と『カメラ毎日』〈東京エッセイ〉、1962年『カメラ毎日』〈日本経済地図〉、1963年『カメラ芸術』〈現代のマッス〉と続く。なかには日本安全保障条約の改定に対する怒りを表明したものもあるが、最も比重を置いたのは行動経済成長下における都市生活者の感情を描写することだった。たとえばそれは、加速度的に進むモータリゼーションや高度に組織化されてゆくサラリーマンといった経済的な事象、レジャーブームや団地などの生活事情、東京オリンピック前の建設ラッシュや遊び場を失う子どもたちなどである。急速に変貌する東京に対する違和感を、長野は前面に打ち出して表現した。

そのため、この当時の作品には広角レンズをローアングルい構えて遠近を大胆に歪ませたり、ノーファインダーで画面を強くブラしたりする技法がよく使われている。こうした感覚的なアプローチは、それまでの日本の報道写真を解体する大胆な実験だった。新しいスタイルを持ち込んだ長野は、いつしか「フォト・エッセイスト」と呼ばれていた。

このフォト・エッセイという言葉は本来、ユージン・スミスが『ライフ』で発表した「カントリー・ドクター」や「スペインの村」などにみられる、新しいフォト・ジャーナリズムの手法を指す。これらの作品でスミスは日常的シーンを印象的に描写し、そこから背景にある大きなものを読者に想起させた。長野もこうした表現に刺激を受け、自分なりのフォト・エッセイを作ったのである。

だがその評価にもかかわらず、60年代後半になると写真雑誌での発表ペースは落ちた。それに代わって目立つのがムービーカメラマンとしての仕事である。羽仁進、市川崑、やや遅れて大林宣彦といった監督から信頼を受けて作品に参加し、その縁でテレビコマーシャルも多く手がけた。しかしこの仕事で成果を上げながらも、長野自身は体質的に「映画には向いていない」と語っている。

それでも生活の必要から主な足場を写したのだが、映画製作は拘束時間が長く、写真にかける時間がどんどん削られていくことになった。また、『ライフ』のような社会的な影響力を持つ本格的なグラフ誌が、ついに日本には誕生しなかったことなども写真から遠ざかった背景にあった。

長野が再び写真に重心を置くようになるのは1980年代。ただこしこのときからは革新的なフォト・エッセイストではなく、もの静かな都市の観察者となっていた。テーマを特に決めずによく見知った街を歩き、何かを発見してシャッターを押す。すると、今まで気づかなかった東京のさまざまな断面が見えてくる。

長野はこの『遠い視線』で、改めて写真の面白さと深さを認識したという。撮影スタイルは変わっても、自分自身は変わらない。「写真はあくまでも、その人の生理だと思う」からである。

確かに東京を撮影したすべての作品に一貫して流れているのは、子ども時代からの都市に対する愛着と違和感というアンビバレントな生理感覚だろう。この変わらぬ指針を持つからこそ、どのようなスタイルの時期であれ、長野の写真は時代を読むための手がかりとして信頼に値するのだ。

 

 

長野 重一(ながの・しげいち)

1925年大分県生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。『週刊サンニュース』の編集部員、『岩波写真文庫』の写真部員を経て、1955年よりフリーの写真家に。数多くの雑誌で作品を発表。1981年ごろから「遠い視線」を撮影。主な写真集に『ドリームエイジ』『時代の記憶1945 – 1955』『東京好日』などがある。伊奈信男賞、日本写真協会年度賞など受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。

 

参考文献

長野重一『現代カメラ新書ドキュメンタリー写真』(朝日ソノラマ 1977年)
長野重一『マガジン・ワーク60年代』(平凡社 2009年)
『カメラ毎日』(毎日新聞社)1966年9月号 長野重一「レンズワークからみた映像表現の可能性」
『タイムトンネルシリーズ Vol.5 研究・長野重一の写真学 焼け跡から「遠い視線」まで長野重一の原点を探る「発見して撮り、感じて写す。」』展 小冊子(ガーディアン・ガーデン 1997年)

 

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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