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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.7 “アーティストを通して時代を写す” 鋤田正義 デウィット・ボウイの一連の撮影 鳥原学

1970年代、ロックミュージックとビジュアル表現とが相乗的に先鋭化していった。LPレコードのジャケットアートやアーティスト写真に大胆な試みが取り入れられたのである。日本において、このビジュアルシーンをけん引したのが鋤田正義である。彼の実験的な表現が、幾つもの伝説的な名盤を生んだ。なかでも、デヴィット・ボウイの1977年の『Heroes(邦題:英雄夢語り)』のジャケット写真は良く知られている。ボウイと鋤田の40年に及ぶフォトセッションから生まれた名作写真である。

 

奇跡のコラボレーション

1970年代以降に青春期を過ごしたロックミュージックのファンで、鋤田正義の仕事を知らない者はいない。たとえばサディスティック・ミカ・バンド、YMO、忌野清志郎、布袋寅泰などのアルバムジャケットなどはよく知られている。

なかでも代表作といえば、やはりデヴィット・ボウイの1977年の『Heroes』になるだろう。革ジャン姿で左手を額にかざす、あのモノクロのポートレートはあまりに有名だ。ただ、これだけでは語れない歴史が2人にはある。何しろボウイとのフォトセッションは1972年から続くライフワークだったのだから。

その歩みを辿れるのが、2012年にイギリスで出版された、300ページに及ぶ写真集『David Bowie × Masayoshi Sukita Speed of Life(生命の速度)』(Genesis Publications)だ。限定2000部のすべてに鋤田とボウイの直筆サインが入れられ、ピクチャーCDも付録された本書は、360ポンド(約4万8000円)と高額だが予約だけで完売している。加えて、2013年からロンドンを皮切りに始まった世界巡回展が各地で絶賛を受けているという事実からは、2人のコラボがいかに世界中のファンから支持されていたかがわかる。

またいかに信頼し合っていたのか、それも本書に記されたボウイの言葉によく表れている。

「彼からセッションの依頼があると、やさしくて独創性があって、心の広い彼が目に浮かんでくる。セッションなんてつまらなくて飽き飽きするのに、彼のセッションはそうじゃないんだ。とてもリラックスできるし、退屈もしないんだよ」

鋤田はボウイを撮るとき、決め事をいっさい設けなかった。カメラの前で自由にふるまう圧倒的な存在感を率直に受け入れ、即興的なパフォーマンスに反応してシャッターを切るのだ。それはスタジオだけでなく、コンサート会場でも街中でも同じだった。そのため、どの写真にも一種のドキュメンタリーとしての要素がある。それがアルバムごとにコンセプトをしっかり練り上げたうえで構築されるボウイの音楽とビジュアルに、新鮮な生気を加えたといえよう。

一方、鋤田がボウイを通じて表現しようとしたものは何か。それは1974年『コマーシャル・フォト』別冊の「ファッションフォトグラファー」特集に寄せたコメントに表れている。

「私は人間に強く関心を持っています。男性・女性・大人・子供を問わず人間です。非常にむずかしいとは思いますが撮り続けたいテーマです。それと同時に自分が関わっていく、その時代性を考えながら撮り続けたい」

この極めてシンプルで普遍的な志向を、鋤田はおよそ40年にわたるセッションのなかで貫いてきたのだ。

 

母の写真

鋤田は1938年に、福岡県北部の直方市でカーバイド燃料などを扱う商家に生まれている。しかし大黒柱の父が戦死したため、戦後、母は家業を化粧品店に変え、4人の子どもを育てた。

福岡県は芸能が盛んな土地柄だが、鋤田も幼いころからその気風に感化されたようだ。役者をしていた叔父が踊りや芝居を教えてくれたこともあり、旅回りの人気一座に憧れた。

無論、音楽も好きだった。街角で耳にしたアメリカン・ポップスの日本語カバーを経て、中学時代に自作の真空管ラジオで好んで聞いていたのが、パティ・ペイジにペギー・リー、そして美空ひばりだった。

何より夢中になったのは映画である。全盛期の当時、商店街に数軒もあった映画館に足繫しげく通い、3本立てを楽しんだ。さらに高校時代には、日曜になると福岡市内の封切館まで片道5時間ほどもかけて自転車で通った。

当時、彼にとって銀幕のヒーローは、若き反抗者を演じたマーロン・ブランドにジェームズ・ディーンだった。またミュージカルも楽しんだが、一方で最も記憶に残ったのが被爆後の広島を舞台にした前衛的なアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』だという。エンターテインメントとアートの区別なしに、同時代性をもった、優れた映像表現を素直に吸収したというのがとても興味深い。

映像に対する素質は、ある1枚のみずみずしい写真に表れている。それは高校3年で初めて買ってもらったカメラ、二眼のリコーフレックスで撮った母の横顔である。盆踊りに参加したときのもので顔は編み笠でおおわれているのだが、それが全体の柔らかな空気感と相まって、切ない感情と想像を掻き立てる。鋤田自身、今もこの写真が生涯のベストだと語る。

写真家を志すきっかけは、長崎大学の受験に失敗し下宿で浪人生活を送ったときの体験にある。まず隣室の写真好きの住人が持っていた写真雑誌をむさぼるように読み、土門拳や映像派と呼ばれた奈良原一高や東松照明らの新しい写真家たちに惹かれた。さらにヒューマニズムを高らかに謳った史上最大の写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」の日本巡回展が、強い刺激を与えたのだった。

翌春、鋤田は大阪の日本写真専門学校(現・日本写真映像専門学校)に入学する。写真と映画にどっぷり浸かった2年間を送った後、関西を代表する著名な写真家、棚橋紫水(たなはししすい)の門を叩いた。ここでの仕事は昼夜を分かたず忙しく、1年後には過労のため暗室で昏倒し、そのまま退職したほどである。

だが辛さ以上に、ここでの経験はすべて財産となった。本来的な仕事の厳しさも、1枚の写真が人にどんな幸福を与えるのかも、身をもって知った。何より棚橋が、日本写真史上最大の天才ともいわれる安井仲治を師と仰ぐ人だったことが大きかった。先人たちの映像表現に対する実験精神を、鋤田もしっかり受け継ぎそれを自覚した。それは今も彼のプライドとなっている。

 

サウンド・アンド・ヴィジョン

棚橋の事務所を辞めた鋤田は、大阪で最大手の広告代理店、大広の写真部に移った。ここでも暗室で寝泊まりするなど猛烈に働き、最新の技術を独習している。そのため表現力は飛躍的に向上し、1963年に アイ・ジョージの「カーネギーホールへの道」でAPA(日本広告写真家協会)展の会長賞を受賞すると業界でも知られる存在となった。

その一方で、鋤田は仕事以上のことをつかみたかった。それは社会に対する自らの能動性、より端的にいえばドキュメンタリー写真の力である。東松照明の長崎シリーズに刺激を受けていたこともあり、まとまった休暇をとっては長崎の被爆者や、原子力空母入港への抗議活動などを撮りに出かけている。ものにはならなかったが、そのプロセスによって演出でイメージを「作り上げる写真」と、瞬間の反応でリアリティを「切り取る写真」との隔たりをとび超える力を見つけていった。

さらに可能性を求めた鋤田は1965年に上京し、写真学校時代の友人でアートディレクターの宮原鉄生が立ち上げた広告会社、デルタモンドに入社。メンズファッションの広告を手掛けて一躍注目された。後に「グレートフルデッドとか、ジェファーソン・エアプレインなどのサイケデリックなポスターをたくさん手に入れて、それを自分の写真にいかしてみたり」と語ったように、そのころには、海外のロックミュージックが彼の写真に多大な影響を与えるようになっていた。

そして1970年、フリーになると鋤田はすぐニューヨークに渡り、2か月以上を過ごした。前年のウッドストックでの歴史的な野外コンサートに刺激されたこともあり、現地の音楽シーンやアンダーグラウンドのカルチャーを体験したかったからだ。だが、いくら場所がニューヨークとはいえ、同じことを2年も続けていけば一種の飽和状態になるらしい。

ちょうど新しい風がロンドンから吹き始めていたことに、鋤田は気づいていた。それは音楽と視覚表現の要素がエネルギッシュに交わり、ある種の演劇性さえ連想させるムーブメントだった。ド派手で中世的なファッションで演奏するグラムロックの旗手であるT・REXや、より前衛的なピンク・フロイドなどのアルバムジャケットを手掛けていたデザイン集団「ヒプノシス」のアートワークに強く惹かれた。

そんなムーブメントの担い手たちを撮ろうと、鋤田がスタイリストの高橋靖子を誘ってロンドンに飛んだのは1972年の初夏である。ツテもコネも全くなかったが、ポートフォリオを見せて交渉すると撮影依頼はすぐに認められ、まず希望していたT・REXとのフォトセッションに成功。その後、街角のポスターで初めてデヴィット・ボウイの存在を知ることになった。

ボウイはこの年の6月に発表したアルバム『ジギー・スターダスト』でSF的な異星人のキャラクターを演じ、より大胆な音楽と視覚表現の融合を試みていた。そのライブを見た鋤田は、「ロックの表現力の広さというものをこのコンサートで初めて知った」と語っている。

記念碑的な写真集『David Bowie × Masayoshi Sukita Speed of Life』は、この直後に行われた初めてのフォトセッションの写真から始まっている。そして撮影は年を追って進み、最後のセッションとなった2009年のニューヨークで撮られたポートレートまでが収められた。読者はその時間を辿りながら、ボウイのイメージの変容ぶりに驚くとともに、写真から何か温かな感触を覚えるだろう。それは鋤田が、人間としてのボウイを正面からしっかり受け止めていたという証なのだ。

残念ながら世界のミュージックシーンを席巻したデヴィット・ボウイは、2016年の1月10日に世を去ってしまった。その訃報を聞いた鋤田は、3日間も茫然と過ごしたという。だがその後。ボウイの音楽とビジョンがいかに世界を変えたのか、改めて新しい世代に伝えようと決意したと語る。もう新しい写真は生まれない。しかし、2人のセッションは次のレベルに入ったと言えるのではないたろうか。

 

鋤田正義(すきた・まさよし)

1938年福岡県生まれ。日本写真専門学校卒業後、棚橋紫水氏に師事。広告代理店を経て1970年よりフリーに。主にファッション、音楽、映画などの写真を撮影。国内外で作品展を多数開催。主な写真集にデヴィット・ボウイ写真集『氣』『YELLOW MAGIC ORCHESTRA × SUKITA』『SOUL 忌野清志郎』『鋤田正義サウンドアンドヴィジョン』などがある。APA賞、ADC賞などを受賞多数。

 

参考文献

『美術手帖』(美術出版社)1970年10月号 磯崎新・木村英輝・鋤田正義・杉浦康平「ロック=肌で聞く共同幻想」
『カメラ毎日』(毎日新聞社)1972年11月号 西井一夫「人物干渉 鋤田正義 ジョン・レノンはなぜ死なないか?」
『ブレーン』(宣伝会議)1977年1月号 鋤田正義「わが道楽 ロックとポピュラーと」
『ブレーン』(宣伝会議)1978年9月号 佐野寛「フォトグラファー論16章 第13章 鋤田正義と=その、映画とビデオレコードの日々」
『ブレーン』(宣伝会議)1980年4月号 鋤田正義「わが友を語る スクリーンの彼方にピカピカのわが友がいた」
『ブレーン』(宣伝会議)1980年6月号 鋤田正義「わが友を語る アー、姿なき、わが友インベーダー……」
『タイムトンネルシリーズVol.22 鋤田正義写真展「シャッターの向こう側」』展 小冊子(ガーディアン・ガーデン 2006年)

 

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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