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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.9 女性を肯定した新しい眼差し 石内都『1・9・4・7』 鳥原学

石内都は、自分と同じ1947年生まれの女性50人の手足を撮り、皮膚のひび割れや皺の一つ一つからその人の物語を見つめた。それは同じ時代を生きてきたことへの肯定であり、女性が女性を見ることの意味を新たに定義し直す表現の誕生だった。

 

手足への眼差し

写真とは本当に残酷なものだ。否応なく加齢の現実を突きつけてくる。白くなるにつれて総量も減っていく頭髪、張りを失った皮膚に刻まれた皺とたるみ。若さの喪失の証拠をこうも率直に示されると、どうにもやり切れない。

そんなとき石内都の写真を見ると、この切実な現実も違ったように見えてくる。1990年の写真集『1・9・4・7』から始まる『scars』『INNOCENCE』などの身体をテーマにした一連のシリーズは、表皮に堆積した時間の痕跡を、人の生きてきた証として肯定的に描出しているからだ。ことに、その端緒となった『1・9・4・7』は手と足に注目したとてもユニークな作品である。

本書には石内と同じ1947年生まれの女性たちの手足、50人で98カットのイメージが収められている。いずれも柔らかな光のもと、浅いピントによって、黒い背景からそれぞれの形が浮かび上がる。特に足裏や爪先など、普段見られることの少ない部位が面白い。全体の太さや長さ、指の曲がり方、節の皺、かかとの角質、爪の形状までなんと多様なのだろう。

この事実を発見した歓びを、石内は巻末で綴っている。

「それはそれは想像以上に素晴らしく健気で、慎ましく、愛すべき形態の豊かな表情にすっかり興奮してしまったのである」

手と足は人体のうちで最も意図的に酷使され、社会との接点として機能する。長年一つのライフスタイルを続けると、順応して変形することさえある。だから添えられた短いキャプション、たとえば「Housewife」(主婦)、「Parttime Worker」(パートタイマー)、「Company Employee」(会社員)などとともにイメージを読むとき、その人の社会的な履歴へと思いが及ぶ。それでいて、これらの手足は写真のなかでそんな社会的役割から解放され、官能的なまでの軽やかな魅力を放っている。石内自身はまた、こうも書いている。

「肌から匂いたつ固有の名詞を身体の末端に集合させて、ポロポロと剥げ落ちる肌の断片を拾いながら、今、身体が愛おしい」

この愛しさの根底には同じ年生まれの同性への思いがあった。あるインタビューでは彼女たちに「もしかしたら私だったかもしれない可能性」を見たとも述べている。写真家の作品はすべてセルフポートレートだとも言われるが、他者の中に自分自身のあり方を見出す石内作品には、その形容がより相応しいようだ。それはより広い表現の射程を持ったセルフポートレートなのである。

 

暗室作業に魅せられて

石内の事歴を辿っていくと「女性初」という形容がよく冠されている。2014年、写真界のノーベル賞とも称されるハッセルブラッド国際写真賞を受賞した際も、日本人の女性写真家としては初であり、受賞理由にも「男性が支配的な日本の写真界において、特に女性として、パイオニアであり、かつ若い芸術家達の模範であり続けた」点が高く評価されている。

だが石内自身は写真を始めて最初の数年間は、これを長く続ける気すらなかった。1979年に写真集『APARTMENT』で木村伊兵衛写真賞を受賞した際も、自分は写真家ではないし、そうなりたいとも思っていない、と朝日新聞の取材に応じている。今の私にとって、写真という表現が適っていたに過ぎないのだ、と。

石内は自分の身体感覚に適った表現を探していた。1966年に多摩美術大学に入ったときはデザイン科だったが、なんとなく合わず、染織を選び直している。今度は自分に合ったが、次第に学校の授業は「お嬢さん芸」の域を出ていないと思うようになった。

そんな折、別の角度から表現について考える機会を与えたのが、大学紛争だった。バリケードの中で学生同士が自主講座を持ち、「自己否定」や「女性の権利」といった思想に触れ、自身も「美共闘」というグループに参加する中で、社会と自分との関係について深く考えるようになった。やがて紛争は沈静化したが、思うところあって卒業を待たず学校をやめた。

それからの数年、石内は何をすべきか改めて悩んだ。やがて学生時代からの友人で、先鋭的な写真家の矢田卓が主宰する若く先鋭的な写真たちのグループ「写真効果」の展示を見て、写真に興味を持った。

さらに知人から引き伸ばし機を預かったことを機に写真を始めてみると、撮影より暗室作業が面白かった。現実とは別の世界が、印画紙上に粒子として二重三重に立ち上がってくることに新鮮さを覚え、「自分が抱えている色んな問題や、形にならないものを写真に焼きつけることができる」と思えた。それに暗闇で現像に使う氷酢酸のツンとする匂いを嗅いだとき、同じ薬品を使っていた染織の作業の感覚が蘇ってきた。写真は一種の染物かもしれない、そう思うと暗室はいっそう楽しくなった。

それからの展開は速い。写真を始めて2か月ほどで、矢田に誘われ「写真効果・3」展に作品「無効の暗」を出品している。自宅の周囲の風景を撮った、黒々とした粗い粒子のプリントだった。そのトーンは、フィルムの濃度を上げれば失敗しないと教えられ、やたらと硬いネガを作ったために生まれたものだが、それは当時の石内の心理をよく表していたのである。

この展示を見に来た東松照明と荒木経惟が石内を絶賛したことも嬉しく、大きな励みになった。それでも写真を長く続けるつもりにはならなかった。ただ、けじめとして30歳までに一度個展を開催したいとは思った。そこでテーマとして選んだのは少女時代を過ごした横須賀だった。この街を撮らなければ前に進めないとさえ、思いつめていたのだった。

思春期の痛みからの展開

個展の順に並べると「絶唱・横須賀ストーリー」(1977年)、「アパートメント」(1978年)、「連夜の街」(1980年)が石内の初期三部作といわれる。いずれも自身の生い立ちに関連する負の記憶が刻まれた作品だ。「絶唱・横須賀ストーリー」では嫌悪した横須賀の街を、「アパートメント」は貧相な生活空間での体験を、そして「連夜の街」では旧赤線街の建物に女性としての哀しみが投影されている。

石内はもともと群馬県桐生市に生まれ、6歳で横須賀に移っている。引越し先の吹き溜まりのような木造アパートの6畳一間での暮らしは、多感な少女にはつらいものだったという。

それに1950年代の横須賀は、米兵相手に春を売る女性があまりに多かった。社会問題として、報道されることもしばしばあった。石内は大人たちから入ってはいけない通りの名を教えられたが、それでも耳に入る「アカセン」や「バイシュン」という言葉に生理的な恐怖を覚えた。日本における公娼制度は石内が11歳のときに消えたが、自らの性的成長に対する嫌悪は残り、それは初潮を迎えたときに決定的になった。後年、そのときの心情をこう振り返っている。

「この肉体的苦痛が女のしるしであることの生理現象が、侮辱に近い仕打ちとしか感じられない」

戦後、米海軍第7艦隊の母港となった横須賀は、占領がもたらした日本のアメリカ化の象徴的な場所として捉えられた。ことに沖縄の本土復帰以前には、多くの写真家がこの街を訪れている。ただ、彼らの写真は石内の知る街の顔とはかなり違っていた。幼い頃から見てきたのは、その裏側の世界であり男の写真家の眼には映らないものだった。だから、こうした記憶に基づく初期三部作のプリントは黒く粗いのだ。それは思春期の心の痛みとともに記憶された、風景の色だった。

ただ、最後の「連夜の街」には異質さがある。そこに溢れる感情は自身の体験によるものではなく、「私だったかもしれない可能性」から生まれているからだろう。少女時代に感じたる「アカセン」や「バイシュン」と言いう言葉に抱いた恐怖は、その先に将来の自分が重なって見えたからでだった。それだけに、石内がカメラを向けた建物は、自分がいたかもしれない場所として想起することができた。そこから生まれた、対象が持つ来歴と共感する眼差しは『1・9・4・7』に引き継がれるべき新しい方向性だったと思える。ただし、その新しい形が見えるまでには、一つのステップを要した。

それは1984年にポラロイド社の企画に参加したことだった。このとき石内は高校時代の同級生の女性に声をかけ、その全身像を超大判のインスタントフィルムで撮り、セルフポートレートと並べた作品「同級生」を発表した。この手法を選んだのは、同世代の女性には主婦が多いと考えたからだ。同じ地域で思春期を過ごしながら自分とは違った人生を歩んできた彼女たちの存在は、石内自身の現在を照らし返した。

この体験をさらに昇華させたのが『1・9・4・7』である。石内は自分の生地の群馬、育った横須賀そして今暮らしている東京の街で、同じ年生まれの女性50人を撮った。実はこのとき被写体の顔も写していたが、編集段階で外している。完成した写真集は大胆な構成と、それまでとは一転した柔らかな写真のトーンで人の想像に強く訴えるものとなった。

本書の評価は極めて高かった。たとえばフェミニストの上野千鶴子は「揺れる視線の政治学」というエッセイで、それまでの女性の身体についての写真表現とは、全く違うと指摘した。

「(美しくも醜くもない)女を、女の視線の中で、そこにあるがままのものとして見ることが、それ自体がひとつの達成だった知って私たちは驚く」

この語、石内は身体のシリーズを経て、2000年代に遺品を撮った「Mother‘s」、原爆遺物に向き合った『ひろしま』などを発表、国際的な評価を高めていく。

それらの作品を発表順に従って見ていくと、本書から始まる肯定的なスタンスが成熟していく軌跡が見えてくる。身近な接点を持つ人たちだけでなく、遠く隔たった対象とも個人的な体験との接点を見出すことで、その個別性と普遍性をともに語っているからだ。それこそが石内都という写真家の大きな達成であるはずなのだ。

石内都(いしうち・みやこ)

1947年群馬県生まれ。多摩美術大学中退。1977年の「絶唱・横須賀ストーリー」展以来、個展・グループ展多数。2005年、日本代表作家として第51回ヴェネツィア・ビエンナーレに作品「Mother’s」で参加。2015年、ロサンゼルスのゲティ・ミュージアムにて「石内都:Postwar Shadows」開催。主な著書写真集に『連夜の街』、『Mother’s』、『ひろしま』など。エッセイ集に『モノクローム』、『写真関係』がある。木村伊兵衛写真賞、写真の会賞、ハッセルブラッド国際写真賞など受賞多数。2013年、紫★綬褒賞受賞。

 

参考文献

石内都『連夜の街』(朝日ソノラマ 1981年)
石内都『モノクローム』(筑摩書房 1993年)
『ひろしま/ヨコスカ:石内都展』図録(目黒区美術館 2008年)
「毎日新聞」1991年6月21日 東京夕刊「写真は作家が作るもの―写真集「1・9・4・7」で新境地を開いた石内都さん」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1996年7月号 飯沢耕太郎「写真集の快楽 第19回 石内都「1・9・4・7」」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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