【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.15 戦後を代表する作家と写真家による、壮麗な生と死のコラボレーション 細江英公『薔薇刑』 鳥原学
作家・三島由紀夫をイメージするとき、1964年の写真集『薔薇刑』のイメージを思い浮かべる人は多いのではないだろうか。それほど鮮やかに、細江英公の写真は戦後という時代を体現した「寵児(ちょうじ)」を表現したのだった。写真家が他ジャンルの作家とセッションして作品を生み出す、その先駆的名作である。
コラボレーション
「コラボ」という単語をよく耳にする。新しい可能性を模索するために、ジャンルや組織の枠を超えて連携する「コラボレーション」の略だが、もとより写真家にはこの精神が欠かせない。被写体との間で、強い緊張をはらんだ共闘関係が成立するとき、それまでの常識を超えていくような作品が誕生することがある。
細江英公が1960年代を通じて発表した一連の代表作が、それを証明している。細江は『おとこと女』(カメラアート社、1961年)、『鎌鼬』(現代思潮社、1969年)、『抱擁』(写真評論社、1971年)で暗黒舞踏の創始者である土方巽と、この『薔薇刑』(1964年)では作家の三島由紀夫と、火花を散らすようなコラボを重ねている。それは官能的な肉体と精神を持った被写体との即興的なセッションであり、当時の前衛芸術のムーブメントにならって言えば、〝ハプニング″そのものだった。
細江がコラボによって追い求めたのは“性”と“生”との繋がり、つまりセックスを軸として、生きることの苦悩と歓喜の根源を表現することだが、このテーマ自体が一種の革命でもあった。ヌード作品の発表が盛り上がりを見せた時期ではあったものの、ここまでエロスを正面から見据え、作品に昇華した日本の写真家は、それ以前にもほとんど見当たらない。
そんな細江作品のなかでも、ことに高い人気を保ち続けてきたのが『薔薇刑』だろう。発表からおよそ半世紀の間に、写真集が何度もリメイクされてきたことがそれを証明している。最初の版は杉浦康平の装丁によって 1963年に発表され、8年後の1971年には横尾忠則のデザインと挿画を加えた巨大な「新輯版」が作られている。1984年には粟津潔による「新版」が出て、さらに2008年には初版は復刻された。
そこまで本作が求められ続けられてきたのは、まず三島由紀夫という被写体の魅力に負うところが大きい。言うまでもなく三島は戦後を代表する作家ではあるが、文壇の枠にとどまらず、日本文化全体を象徴する大スターだった。何度もノーベル文学賞候補に挙げられたとされる一方、高度経済成長にともなって発達を続けるマスコミに、スキャンダラスな話題を提供し続けた。もともとひ弱だった肉体をボディビルで徹底的に改造し、ボクシングや剣道に励む姿を公開、俳優として映画に主演して主題歌も吹きこんでいる。
評論家の加藤周一が『日本文学史序説』で述べているように、三島は「大衆社会の商業主義を利用することでも、利用されることでも、おそらくもっとも徹底していた作家」なのである。同時に戦後日本における見せかけの文化主義を批判する「文化防衛論」(1968年)を唱え、日本の真の独立のために改憲を主張し、ついに私設の軍隊「楯の会」を結成して政治活動にものめりこんでいった。
三島はメディアの寵児として、常に人から見られること、自分を見せることを強く意識し続けた人であった。その彼にとって『薔薇刑』は自身の作家像を再構築するうえで、重要なステップだった。そのためにこそ、性をめぐる身体表現に過剰なほど強い執着を持った写真家、細江英公を指名したのである。
写真家と被写体
細江英公が、この撮影に取りかかったのは1961年9月半ばである。
指定された日に、アシスタントの森山大道を伴い、東京の馬込にあった華麗なスパニッシュ・コロニアル様式の邸宅を訪ねると、三島は鍛え上げた上半身を晒して日光を浴びていた。それは自分が見込んだ写真家への、三島らしい挑発的なサービス精神だったのかもしれない。当時、三島は36歳。作家として脂が乗り、まさにメディアへの露出が始まる時期だった。
一方の細江は28歳。斬新な映像感覚を発揮する新世代の写真家として登場したばかりだった。1956年の初個展「東京のアメリカ娘」の斬新なフォトストーリーで注目を集め、翌年には、写真評論家の福島辰夫の呼びかけで、“映像派”と呼ばれていた新進写真家によるグループ展「10人の眼」展に参加。翌1959年には同展に参加していた川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高とセルフエージェンシー「VIVO」を結成し、写真家のより自由で自立的な活躍を目指していた。
同年、細江にとって決定的といえる大きな出会いもあった。舞踏家の土方巽の舞台「禁色」を見て強く打たれ、土方こそ「自分の写真に欠かすことのできない存在」になると直感したのである。この舞台は、西洋のモダンダンスから離れ、 日本人にとっての土着的でプリミティブな身体表現を掴みなおそうとする土方の暗黒舞踏の起点だと言われている。その衝撃が、細江の中にあった欲望にはっきりした輪郭を与えたのである。
そして細江は、土方をはじめダンサーやファッションモデルという、思想を宿した人々の肉体とのコラボに取り組み始めた。その成果が、1960年の第二回個展で発表された「おとこと女」である。この作品は、細江自身が「女性が処女を捨てて女になるように、 私はあそこで童貞を捨てた」と述べるほどの大きな転機となった。
以降、細江と土方は同志としてコラボを重ねるのだが、興味深いのは、三島と土方の縁もまた「禁色」から始まったことだ。そもそもこのタイトル自体、三島の同名の小説から無断で借用したものだった。だが、後にこの舞踏を見た三島は憤慨するどころか、土方という表現者を大いに認めた。さらに、公演パンフレットに掲載された細江の写真を目にすることになったのである。
その三島が初めて細江の名前を口にしたのは1960年の初頭だった。翌年に出版された評論集『美の襲撃』(講談社)を出版するにあたり、表紙写真を細江に依頼するよう編集担当に告げたのである。その際、三島自身が被写体となり「写真家と編集者に絶対服従すること」を決めたという。
三島は細江の写真をどのように理解していたのか。1971年に出版された写真集『抱擁』に寄せた三島の文章の、次の部分から一部が窺えるように思われる。
「(細江)氏にとっては、肉の存在そのものが持つ本来的な光輝は、かけがへのないもので、言ひ換えのきくものではない。非個性的な肉は、部分化されることによって、ますます、或る場所、或る時におけるかけがへのない光を放つのだ」
三島は細江の写真によって、肉体から自意識を剥ぎとり「光輝」ある肉へと変身することを意図し、実際、撮影はそのように進んでいくのである。
偶像は破壊されたか?
「君の思うままに撮ってくれ」。そう頼む三島の言葉に、細江は即応した。まず散水用のホースを借りると裸体に巻き付けて、一端を口に咥えさせる。さらに手には木槌をもたせて直立させた。そして脚立の上で構えたカメラを凝視するように求めた。そのポーズの意図を聞かれると、細江は「偶像破壊」だと答えた。
この撮影の後、今度は細江から撮影を申し入れ、半年にわたるフォトセッションが始まっている。三島は縄で縛られ、無理なポーズをとらされ「モデルの苦難の限りを尽くし」たというが、同時に撮られることにつての喜びを得た。『薔薇刑』に寄せた「細江英公序説」でこう述べている。
「細江氏のカメラの前では、私は自分の精神や心理が少しも必要とされてゐないことを知った。それは心の躍るような体験であり、私がいつも待ちこがれてゐた状況であった」
細江は三島の肉体だけでなく、彼の愛用品も積極的に作品に取り入れている。ことに愛蔵書のルネッサンス絵画の画集からヴィーナスの絵を複写し、そこに裸体を重ねて焼き付けた一枚は、三島の美意識のあり方を完璧に視覚化したものと言えよう。こうして撮影が進むにつれ、細江の中で「生と死」というコンセフトが固まっていくのだが、ただ「死」についてはだけは三島に語れなかったという。
完成した写真はまず1962年にグループ展で一部が発表され、翌年に写真集としてまとめられた。タイトルの『薔薇刑』は、グループ展の際に三島が提案したいくつかのタイトルから選ばれたもので、「序曲」「市民的日常生活」「嗤(わら)う時計あるいは怠惰な証人」「さまざまな瀆聖」「薔薇刑」という各章も三島が命名している。撮影では寡黙な被写体に徹した作家が、写真集では饒舌な言葉で読者を誘導する役割を担っている。
それから8年後に新輯版が企画された。これは日英二か国語による国際版として構想され、デザインもまったく一から見直されている。章立ても「海の目」「目の罪」「罪の夢」「夢の死」「死」に再編され、写真も追加された。最後の「死」は三島によって提案されたものだった。
本来、新輯版は前年夏の出版を予定していたが、事情が重なって遅れるうちに、あの事件が起きたのである。11月25日、三島は楯の会の同志と自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、その場で自衛隊にクーデターの決起を呼びかけたのち、総官室で切腹して果てた。この悲報を細江は旅先の香港で聞くと、2日後に帰国、すぐに新輯版の出版延期を決めた。細江には自決の直前、池袋のデパートで開かれた「三島由紀夫展」のことが強く印象に残っていた。『薔薇刑』の写真とともに掲示された文章の中にあった、「わたしは肉体の衰えを容認しない……」という一文にずっと強い違和感を覚えていたのだった。
三島の死について推測した言説は多すぎるほどだが、細江が直感した死への憬れと、肉体が滅びることへの恐れは、確かに『薔薇刑』以降に顕著だった。亡くなるまでの一年間をかけて新進気鋭の写真家篠山紀信と「男の死」をテーマに繰り返し撮影を重ねてもいた。それは『男の死』と出され、新輯『薔薇刑』に続く写真集として出版される予定だったのである。しかし、三島が細かにテーマ設定や演出をする撮影は、篠山にとって「さっぱり面白くない」ものだったと語っている。それは『薔薇刑』のときの「自分の精神や心理が少しも必要とされてゐない」状況とは真逆の態度だった。
それゆえ『薔薇刑』は、 今も三島の最高のヴィジュアルイメージであり続けている。それは三島自身が「細江英公序説」で述べているように、自分の見たものを真実として主張する写真家、つまり細江英公の主観的な「証言性の極地」にある芸術だからだ。写真家は徹底して肉として被写体を扱い、被写体はその証言性にすべてを委ねた。そのように作られた『薔薇刑』は、写真の可能性を開くコラボレーションの理想型を、今もわれわれの眼に示している。
細江英公 (ほそえ・えいこう)
1933年山形県に生まれ、生後3か月で東京へ。1952年、東京写真短期大学(現・東京工芸大学)に入学。同大学を卒業後、フリーに。1959年写真家集団「VIVO」に、1974年「WORKSHOP写真学校」に参加。主な写真集に『おとこと女』『鎌鼬』『細江英公の写真絵本[妖精物語]ルナ・ロッサ』『死の灰』など。日本写真批評家協会作家賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞。旭日小綬章を受章。
参考文献
細江英公『なんでもやってみよう 私の写真史』 (窓社年2005年)
加藤周一『日本文学史序説(下)』 (ちくま学芸文庫) 1999年
福島辰夫『福島辰夫写真評論集〈第2巻〉「10人の眼」・VIVOの時代』 (窓社 2011年)
『芸術新潮』 (新潮社) 1995年 12月号 篠山紀信「三島由紀夫の「美的生活」年後の三島邸」
『芸術新潮』 (新潮社) 細江英公「いま、『薔薇刑』を語る」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より