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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.14 日常を撮ることに賭した情熱 牛腸茂雄『SELFAND OTHERS』 鳥原学

牛腸茂雄がレンズを向けたのは、なんの変哲もない日常の光景であり、彼の親しい人たちや出会った子どもたちだ。
少年期から自分の命の長さと向き合った彼にとって、ごく“ふつう”の日常ほどかけがえのないものはなかった。今なお支持される牛腸の、一見穏やかな写真に秘められた情熱を振り返ってみたい。

 

コンポラ写真とは

1960年代後半から70年代前半、「コンポラ」あるいは「コンポラ写真」と呼ばれる作品群が登場し、写真関係者の注目を集めていた。

この名称は、1966年にアメリカのジョージ・イーストマン・ハウスで開催された展覧会「コンテンポラリー・フォトグラファーズ 社会的風景に向かって」から取られたものだ。これに参加したのはブルース・デイヴィッドソン、リー・フリードランダー、ゲイリー・ウィノグランド、ダニー・ライアン、デュアン・マイケルズといった若い写真家たちで、彼らは個人的なまなざしで社会や人々を見つめていた。写真家で教育者でもあった大辻清司は、日本でもそれと似た傾向を持つスナップ写真が見られるようになったことに気づき、そう名付けたのである。

コンポラ写真にスポットライトを当てたのは1968年の『カメラ毎日』6月号の特集「シンポジウム 現代の写真」だった。ここで大辻は、日米の写真家たちに共通する傾向を指摘している。

ひとつは、リアリズムとか前衛性とかそういった美学的な主義を主張していないこと。構図は横位置が多く、人物を撮ると顔が画面の中心にくる。いわば記念写真的な「素人っぽい撮り方」に見える。対象は「日常ありふれた何げない事象」が多く、画面にその日常性を〝呼び込む″ため、引き気味の距離感を持つ。大辻は、こうした写真は平和な時代に生まれた者たちの極めて個人的な関心で撮られたものだと考えていた。

この特集ではコンポラの例として石元泰博や高梨豊を先駆的な写真家として挙げ、さらにひとりの新人作家が紹介されている。それが牛腸茂雄だった。彼は七五三詣での子どもたちを撮った「こども」と題する4枚の組み写真を発表し、あわせて次のコメントを寄せた。

「ものを見るという行為は、たいへん醒めた行為のように思われます。しかし醒めるという状態には、とても熱い熱い過程があると思うのです」

牛腸の写真は、個人的な日常をさわやかに、さらりと写しているように見えるのだが、かなりの覚悟が秘められている。彼はこのデビューから15年後、36歳の若さでこの世を去るのだが、最期までこの言葉のとおり、熱く熱く生きた。それは平凡な日常のかけがえのなさを、誰よりも知っていたからにほかならない。

1946年11月、牛腸は新潟の金物屋の三人兄姉の末子として生まれている。3歳のとき大病の胸椎カリエスにかかって死線をさまよい、幸い一命はとりとめたが、体つきにも障害が残った。しかも「20歳まで生きられるかどうか」と医師から告げられていた。彼の身長はついにこの当時のままであったし、胸部は大きく歪んでいった。

そんな牛腸だが高校卒業にあたって、心配する家族の反対を押し切って東京の美術大学へ進学することを強く望んだ。小さいころから絵が得意だった彼は、中学・高校時代にデザインコンクールで優秀な成績を修めていて、これを武器に親の保護から離れ自立したいと思って。その固い意思に、ついに家族もおれた。

 

同級生と師

1965年春、牛腸は多摩美術大学を受験するも不合格となった。だが、縁があって桑沢デザイン研究所のリビングデザイン科に進むことにした。戦前から服飾デザイナーとして活躍していた桑沢洋子が設立したこの学校は、バウハウス流の造形教育を推進していることで知られ、石元泰博や大辻清司が教鞭を執っていた。

新学期の初日、教室で牛腸の隣に座った三浦和人は、障害を持った牛腸の姿に一瞬驚いたという。だがすぐにその人柄に惹かれ、秀でたデザイン感覚から刺激を受けるようになった。そして彼らは互いを親友として、またライバルとして付き合い始めた。いや、いつしかクラスには牛腸を囲む静かな輪が広がっていた、と三浦は振り返る。

2年生に進むと、授業に写真の過程が加わる。ここで最初に出される課題は、カメラを上に向け「空」と周囲の環境とを指定された割合で撮ることだった。生徒は6×6判のカメラを使い、露光したモノクロフィルムは通常のプロセスではなく、“印画紙用”の現像液で現像するように指示された。つまりコントラストを強くし、被写体のディテールを飛ばして仕上げるのである。造形的なデザインセンスを養わせるためのトレーニングである。

こうした課題に対する牛腸の提出作品は、やはり秀でていた。同校の講師であった大辻清司も、牛腸の写真に対する理解とセンスに驚いた。やがて驚く以上に、この才能を育てなければ「教師の犯罪行為である」とさえ思ったと語っている。そこで卒業後は、一年制の写真研究科に進むよう牛腸に強く勧めた。

だが牛腸は戸惑った。もともとデザイナーの道を選んだのは、室内で仕事ができ、身体にかかる負担が少ないからだった。そこで三浦に相談をすると、彼も研究科に進むことに決めていたから「重い機材ならおれが持ってやるから一緒にやろう」と牛腸を促した。

しかし、それでも牛腸は逡巡した。結局、彼の進路は、息子から相談を受けた新潟の父が大辻と話し合ったうえで決まっている。

結果として、研究科の一年間が牛腸に与えたものはあまりに大きかった。ことに大辻との関係が、写真への思いを強めさせた。大辻は週に一度のゼミナールで、学生の写真を講評する。ただし、それは優劣をつけるためではなく、写真を理解するキーになる心理学や現象学の考えを学生に触れさせ、自らの個性を見出させてゆくというものだった。当時の大辻の教え子たちに聞くと、それは静かだが、とても充実した時間だったと口を揃える。

やがて牛腸をはじめとするゼミ生たちは、作品を持って大辻の自宅を訪ねるようにもなった。作品を間に、師弟の長い沈黙が続くこともあったが、それさえも楽しかった。

そして1968年、写真研究科を終えた牛腸は、同級生との寄せ書きに「優れた写真家になるために、ただ撮るだけです」と記している。医者から宣告された命の限界を超えて、彼の決心はいっそう強まっていたのだろう。

 

写真集にかける思い

大辻はいつも卒業生に対して「これからは「先生」と呼ばないでほしい、同じ写真をする「友人」の付き合いをしましょう」と告げる。

1923年生まれの大辻はシュルレアリスムからの影響を受けた、すぐれた造形感覚とリベラルな感性を持った教師だった。写真家としてのキャリアでは、1950年代に詩人の瀧口修造や音楽家の武満徹らが結成した総合芸術グループ「実験工房」に参加したことが知られている。その後、1960年代から桑沢デザイン研究所や東京造形大学などで教鞭を執るようになりこの時点でも、高梨豊、山田脩二、新倉孝雄、島尾伸三、潮田登久子、児玉房子などの写真家を送り出している。

この教え子たちに共通するのは、多くが都市生活者の日常に目を向けている点である。大辻が、コンポラ写真の特性を的確に分析できたのも、彼らの写真をよく読み取っていたからだった。もちろん『カメラ毎日』の特集に、まだ無名の牛腸を推薦したのも大辻だった。

その牛腸は断片的な雑誌への掲載よりも、写真集の出版を目標にしていた。このころ牛腸は、自分にとっては写真集こそ「〝生きている″ということの証」だと記した手紙を姉に送っている。

1971年、牛腸は研究科で一緒だった関口正夫と、念願の写真集『日々』を自費で出版した。それぞれが撮りためたストリート・スナップから、24点ずつを選んだもので、序文は大辻が寄せた。一見すると二人の写真はよく似ているが、関口が対象をさっと切り取ってみせるのに対し、牛腸の写真には被写体を通して、何か物語を語るようなニュアンスがある。

当時この写真集は酷評を受けた。評論家の多木浩二が「牙のない若者」と評し、写真家の森山大道と中平卓馬も対談でこきおろしたのだ。1968年に創刊した同人誌『プロヴォーク』の主要メンバーだった彼らは、体制の価値観を代弁するような既成の写真表現に疑問を投げかけ、写真の原点に立ち戻れと主張している。そんな彼らに牛腸らの写真は、平和な日常をただ無自覚に謳歌したものとして見えた。

だがこれは、彼らを苛立たせるだけのポテンシャルが『日々』にあった、ということでもあろう。牛腸と関口にとっては手厳しくやられたにせよ、自分たちの写真集が、最も先鋭的な写真家や評論家たちに採り上げられただけで驚くべきことだった。

だが写真への意思がさらに強まるなか、病魔が牛腸を襲った。『日々』を出版した翌年、結核性リンパ節炎で入院しているのである。幸い20日ほどで退院できたが、この間、自己の存在する意味について問い直したに違いない。この世界に生きているとはどういうことか、他者と関わり、それを写真にする意味とは何か。牛腸は、彼にとっての根本的な問題に近づいていた。

 

「自己」と「他者」

牛腸が二冊目の写真集『SELF AND OTHERS』を出版したのは1977年4月、30歳のときだ。「自己と他者」のタイトルは影響を受けた心理学の本からとったもので、彼の30年間の人生を凝縮させたようなポートレート集となっている。

収められた60枚の写真は、彼が親しくしてきた知人、三浦や関口らの同窓生、新潟の家族、勤務先の周辺で遊ぶ子どもたち、そして彼自身のセルフポートレートや家族の記念写真である。ほとんどのカットが、画面の中央にいる被写体がカメラをじっと見つめ返している。そのように写された人々の表情にはまた、それぞれが感じた牛腸という人間像が読み取れる。

たとえば人は他者を見るとき、日常での経験をもってその姿を見る。対象が子どもなら、自分の幼年期と重ねることもある。本書中の子どもたちがとても無垢に見えるのも、牛腸が憧れた健康な子どもというイメージを現実の子どもに投影していたからではないか。

不思議なことに写真は、実際の姿を正確に写しつつも見る者の願望のようなものを被写体から導き出してしまうのだ。牛腸は自身のそれを写真集に結晶させ、他者の視点で見ようとした。彼がこの世界で経験したことの意味を知るために。同書は〝自己と他者″が相互に抱きあうイメージと多様性を、人間の多義性を雄弁に語るドキュメントであり、スタイルとしても思想としても、大辻が定義したコンポラの到達点といえるだろう。

牛腸はこの写真集で日本写真協会新人賞を受賞し、木村伊兵衛写真賞の候補ともなっている。私生活では、桑沢時代からの友人とデザイン事務所をかまえ、独立することで創作に関わる時間をできるだけ持とうとした。

それから亡くなるまでの5年間、牛腸は本書を超える新たな展開を模索している。水面に垂らしたインクの模様を紙に転写するインクブロットの手法で作品集『扉をあけると』をつくり、1981年には3冊目の写真集『見慣れた街の中で』をまとめている。

ここで牛腸は再びストリート・スナップに返るのだが、至近距離からノーファインダーで撮ったり、ポジフィルムを使ったりと、彼にとって冒険ともいえる新しい試みをしている。

だが彼の意欲に対する反響は、想像以上に少なかった。

だがこの頃から体調の悪化が目立ち始め、1983年初頭になるとアパートの階段さえ上がれなくなり、4月にはついに帰郷を決めた。このとき駅まで見送った三浦和人は、「今度はダメかもしれない」という牛腸の呟きを聞いている。

じっさい5月末に発売された『日本カメラ』に掲載された「幼年の『時間(とき)』」が、牛腸の最後の作品となり、6月2日にこの世を去ったのだった。

それから、誰もが彼を忘れたように時間は流れたが、1990年代になるとその評価が突然高まった。1992年に写真評論家の飯沢耕太郎が、自ら編集長を務める写真誌『デジャ=ヴュ』で牛腸の特集を組んだのをきっかけに注目が集まったのだ。やがて『SELF AND OTHERS』が復刻され、佐藤真監督による同名のドキュメンタリー映画も制作された。いまや各地の美術館では回顧展も何度か開かれている。

なぜ今、失意のなかで逝ってしまった牛腸が広く支持されるのだろうか。それは、確かなものがみな壊れたように感じられる時代だからだと思える。生命の短さに抗い、自己と他者が同じ世界で関係を持つことの意味を探し続けた牛腸作品が、何か励ましを与えてくれるように思えるからではないだろうか。

 

牛腸茂雄 (ごちょう・しげお)

1946年新潟県生まれ。3歳で胸椎カリエスに。1965年高校を卒業後、桑沢デザイン研究所リビングデザイン科に入学。大辻清司の勧めで同校研究科に進む。日本写真協会新人賞を受賞。写真集に『日々』『SELF AND OTHERS』『見慣れた街の中で』がある。1983年死去。

参考文献

『SD』(鹿島出版会)1971年6月号 多木浩二「牙のない若ものたち:写真集〔牛腸茂男•関口正夫〕〈日々〉」
『日本カメラ』(日本カメラ社)1983年8月号 大辻清司「牛腸茂雄くんの死」
『デジャ11ヴュNo.8』(フォトプラネット1992年)「特集:千腸茂雄」
『牛腸茂雄 作品集成』(山形美術館ほか編 共同通信社 2004年)

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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