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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.13 理想の“楽園”を求め続けて 三好和義『RAKUEN』 鳥原学

「楽園」と聞いて何を思い浮かべるだろう。
南の島の青い海と白い砂浜か、星降る夜の果てしない砂漠の風景か。三好和義はそんな甘美な理想郷、または彼岸のイメージをずっと求めてきた写真家だ。その仕事の原点となったのは1985年に刊行された『RAKUEN』で、写真集としては異例のロングセラーを記録している。同書は愛され続ける理由を探った。

 

“軽さ”の思想

写真を見ているとき「大切なものは、目に見えない」という言葉をよく思い出す。サン=テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる有名なフレーズは、やはり端的に真実を突いている。つまり写真家の力とは、それぞれの方法論で、この見えない「大切なもの」を表現できているかどうかで測られるものなのではないだろう。

三好和義が追ってきた「楽園」も目に見える場所ではない。しかし、この現実世界の苦痛や社会の重力から切り離された理想郷、いわば彼岸の風景を、細心の注意を払って写真に結晶させている。

その力をはっきりと示したのが1985年に刊行した初の写真集、インド洋のセイシェルとモルディブの写真をまとめた1985年の『RAKUEN』だった。 版元の小学館がつけた「この地球で一番美しい光と色の写真集」というキャッチフレーズは、今も色褪せることがなく版を重ね続けている。

表紙は、青い空をバックに風を受けてそよぐ1本のヤシの木。そこから五感をとろけさせるようなイメージが展開されてゆく。時間ごとに変化するサンゴ礁の海と空、その狭間を自由に滑空する白い海鳥の鮮烈さ。そして、疲れた心身を癒してくれるリゾートホテルの柔らかな空間の描写もある。

本書が出版されたとき、これまでの写真集には見られなかったスタイリッシュな感覚で、若い世代からの圧倒的な支持を集めた。その結果、三好は1985年度の木村伊兵衛写真賞を受賞することになる。このとき三好は27歳であり、同賞受賞者のうちで最年少記録だった。審査員を務めていた大辻清司は、同誌の選評において、 この若き才能を評価した理由として「軽さの美」を挙げている。

「写真の場合は、単に手軽に撮った写真の軽さと、思想として求める軽さの表現と、区別しがたい所がある。しかし三好さんの『RAKUEN』には、全部を通してそうした意識が貫いていると、私には見えたのである」

さらに大辻は、思想としての軽さの美を時代が求め、いち早く三好が応えたと見ている。また写真家の須田一政は、やはり『アサヒカメラ』での対談のなかで、一見すると無国籍的にも見える三好の楽園像の中にも、土着的な感性が読み取れると語っている。

「鮮やかな色が浮かび上がってきて目に飛び込んでくるんですが、じっと見ていると、沈んだ色のなかに思いがあって、日本的なところに帰って行くおもしろさがあります」

南洋の甘美な風景写真に 「軽さの美」 と 「日本的なところ」 を見たという2つの意見、2人の“目利き”の意見はさすがというべきだろう。三好の写真家としての基盤と、これからの展開を予見し、的中させているからだ。

つまり南の島に始まる「楽園」は、遠くサハラ砂漠やヒマラヤの山々にまで至った後、やがて日本へと回帰していくのである。屋久島や富士山、あるいは彼の故郷徳島の吉野川へと帰っていく。そしてさらに日本的な理想を求めて、奈良の東大寺や京都の御所を訪ね、また「式年遷宮」の行なわれる伊勢神宮の撮影にも取り組んだ。楽園を求める長い旅の必然が、『RAKUEN』に内包されていたのだ。

 

楽園の原型

三好の故郷、四国の徳島は温暖であり、かなり古くから南国のイメージを持たれてきた。とくにJR徳島駅前の背の高いヤシ並木は、来訪者にその雰囲気を味わわせてくれる。

資料によると、この並木が設けられたのは同県で初の国民体育大会が開催された1953年となっている。それは三好が生まれる5年前のことだ。彼の生家は駅前にあったから、もの心ついた頃からこの風景に親しんできた。楽園への旅は、ヤシの並木と家業にまつわる記憶から始まっているのである。

三好の実家は青果市場を営んでいた。市場には高級品だった台湾バナナの倉庫があり、輸入した青い実をそこで黄色く熟させてから四国の各地に出荷していた。三好が作業場で遊んでいると、ときおりバナナの荷から珍しい昆虫を見つけることがあり、それを食い入るように眺めた。バナナの鮮烈な色彩と甘い香り、そして南国の美しい生き物は、ヤシの茂る南の島のイメージにリアルな肉付けを与えてくれた。

そんな三好がカメラを手にしたのは1969年、小学5年生のときである。初めは記念写真やスナップを撮る程度だったが、翌年、大阪で開催された万国博覧会がおおきなきっかけとなっている。夏休み入ると、大阪の親戚に世話になって20日以上も会場に通い、フィルムにして30本以上、1,000カットものシャッターを切ったのだ。好奇心旺盛な少年にとって、どれほど刺激的なイベントだったかがよくわかる数字だ。

大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。会場全体も世界各国のパビリオンも先端的なテクノロジーをアピールしていたが、なかでも気鋭のクリエイターたちが手がけた大規模な映像展示が人気を集めていた。よく言われることだが、大阪万博は日本におけるメディアアートの先駆けであったのだ。

三好も日本館で上映された、市川崑の『日本と日本人』を観て驚嘆した。8面の巨大なマルチスクリーンを駆使して、富士山と日本人の生活を印象的に描き出した実験的作品である。とりわけ三好は、画面いっぱいに広がる富士山には圧倒されたという。三好が万博を通じて知ったのは、自分で写真を撮る楽しみと、テクノロジーを駆使した映像作品がもつ表現の可能性だったと思われる。

さらに万博での体験は、自立心の扉を開いたとも言えよう。翌年、中学1年生になると富士山までの一人旅を計画し、実行した。しかも、その旅程は、奈良の東大寺を皮切りに、京都と東京を見て回り、締めくくりに富士山に登るというものだった。この年頃にしては壮大な冒険行だ。奈良を起点にしたのは、土門拳の名作『古寺巡礼』に惹かれていたからで、写真的感性もまた驚くほど早熟だったのだ。

このエピソードでとくに筆者が興味を覚えるのは、徳島に戻ったとき、三好がキレイに旅費を使いきっていたという点にある。ただ感性のままに遊ぶのではなく、たった一人でもことを進め、計画通りに完結させる。つまり感性と合理性をコントロールして、期待通りの成果を収めるという三好の流儀はこの頃すでに発揮されていたのである。

やがて中学から高校へと進む中で、三好は写真にのめり込んでいった。その中で、はっきりと写真家という職業を意識するのは1972年、中学2年のときだったという。初めて訪れた沖縄の石垣島で蝶の採集と写真撮影に夢中になっていたときプロのカメラマンと知り合った。世界を旅して回れる職業という点に強く惹かれたのである。

以降、三好は写真の道を真っすぐに進んでいく。学校の写真部で活動するのはもちろん、ベテランのアマチュアが在籍する地元の写真クラブに入部して指導を受け、各種のコンテストに応募しては受賞を重ねている。さらに獲得した賞金や実家の手伝いで資金を貯め、フィルムを買い、次の撮影ではより高度な表現に挑んでいった。

 

思い通りに撮るということ

三好は高校受験後にダイビングの免許をとり、夏休みに2度目の沖縄旅行に出かけている。その1か月間は、漁師の家に世話になりながら写真を撮り、さらに発表についても具体的に考えていた。

実際、三好の写真家としてのキャリアはこの沖縄の作品から始まっている。同年には全国高等学校写真コンクールの特選に入り、初個展「南島・先島」を地元の郷土文化会館で開いた。さらに翌年にはやはり沖縄で撮った「牛」で二科展に入選、翌々年には銀座ニコンサロンでモノクロの「沖縄・先島」展を開催した。いずれも当時の最年少記録として、大きな話題になっている。

三好の経歴には、木村伊兵衛写真賞の27歳での受賞を含め、最年少という言葉が頻出する。それが天才と評される由縁なのだが、写真をつくり込んでいく知的な努力と計画性、そしてプロモーションに対する合理的な積極性はもっと知られていいだろう。

たとえば、最初の個展会場に郷土文化会館を選び、会期を決めたのは、そこでその期間に徳島県美術展覧会(県展)の審査が行なわれていたからだった。三好は自作が、審査に来た大阪の著名な写真家の岩宮武二の目にとまると踏んでいた。しかも県展には三好の作品も応募されていて、それらは入選を果たすはずだ。考えぬいたこの作戦には、写真家を目指す少年の真剣さが読み取れる。

このようにして、岩宮をはじめ杵島隆や三木淳という錚々たる写真家の知遇を得たことは、何ものにも代えがたい財産になった。たとえば大学進学にあたり、三木や杵島からは、技術はすでにあるのだから、写真以外を学んで見聞を広めるべきというアドバイスも受けている。

実際、三好は当時写真家を輩出していた日本大学の写真学科を選ばず、東海大学で広報や広告を学んだことで視野と活躍の場を広げていくのである。ことに1979年、大学2年のときにハワイで撮ったサーフィンの写真でAPA賞(日本広告写真家協会による写真賞)の特選を受賞したことは大きく、これを機に雑誌や広告の仕事が多数舞い込むようになった。翌年、平凡出版(現・マガジンハウス)から雑誌『BRUTUS』が創刊されると、ここを舞台に海外取材などでも活躍を始めている。

当時はカタログ的な要素の強い、若者向けヴィジュアル誌が多数創刊され始めた時代であり、グラビアや広告には新しい感覚が求められた。それは戦後という時代の重たさと一線を画した、軽快さと明るさに満ちた、いわばスポーツのような爽快さと遊びの感覚をもったイメージである。

すでに大学卒業前に「株式会社楽園」を立ち上げていた三好は、そんな新しい世代の要求に的確に応えていく。仕事は順風満帆、だが多忙になるにつれて、独自の作品を追求したいという思いも募ってきた。人から勧められてセイシェル諸島に行ったのは、ちょうどそんな時期だった。そこでの体験、小さなバードアイランドで、たった一人で聞いた波の音、鳥の声は新鮮な感動だった。後に「誰にも指図されず、南の島を思い通りに撮ることの楽しさをかみしめた」と回想しているほどである。

三好は写真家として自らの理想のあり方を、ふたつの異なった写真家の例で説明する。ひとつは戦前に活躍した中山岩太のような、関西の芸術写真家たちにある自由なアマチュア精神。もうひとつは、芸術写真家の“旦那芸”を批判しつつ奈良の古仏に日本人の精神的原型を求めたリアリズムの巨匠土門拳である。

写真家として全く異質なこのふたつのあり方に、至上の美を求め続ける精神という共通点を、見出しているのだと三好は語った。それはじつにこの人らしい、ユニークで合理的な解釈だと思える。どのように方法論が違うとしても、理想を追求した者だけが目に見えない「大切なもの」を写し取り、人に見せることができる。その真っすぐな美意識が、三好の代名詞である「楽園」の二文字に結晶しているのである。

 

三好和義(みよし・かずよし)

1958年徳島県生まれ。1985年『RAKUEN』で木村伊兵衛写真賞を受賞。以降“楽園”をテーマにタヒチ、モルディブ、ハワイなど世界各地で撮影。その後も南国だけでなくサハラ、ヒマラヤ、チベットなども撮影。その多くを写真集として発表。近年は伊勢神宮、屋久島、仏像など日本での撮影も多い。近著に『富士山極上の撮影術』『死ぬまでに絶対行きたい世界の楽園リゾート』がある。

 

参考文献

三好和義『三好和義楽園全集―RAKUEN THE COLLECTED WORKS』(小学館 2005年)
『日本カメラ』(日本カメラ社)1979年4月号「先島の少年たち」
『朝日ジャーナル』 (朝日新聞社)1985年3月20日号「新人類の旗手たち ―筑紫哲也の若者探検―16三好和義」
『文藝春秋』(文藝春秋)1996年3月号 三好和義「優雅なる“旦那芸”としての写真」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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