【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.27 時間と身体が生む光の風景 佐藤時啓『光―呼吸』(美術出版社、1997年) 鳥原学
佐藤時啓の作品は写真のなかにしか生まれない“光の彫刻”である。
都市や廃坑、海や森など、さまざまな場所で、ペンライトや手鏡をもって歩いた彼自身の軌跡によってそれは作られている。それはまたmひとりの人間と風景との奥深い対話でもあるのだ。
「光の画」
「写真」という言葉は「光画」とも言い換えられることがある。いや、英語の「Photography」を素直に訳すなら、そのほうが意味も実感も近いだろう。肉眼では知覚されない世界の諸相を光の作用によって描き出す、その原理とあり方を想起させてくれる。
佐藤時啓の作品ほど、「光画」と呼ぶにふさわしいものはない。それは1980年代後半から手掛ける、ペンライトや鏡の光跡を大型カメラの長時間露光で捉えた代表作「光―呼吸」から始まり、複数の採光口を持ったピンホールカメラによる「Gleaning Light」、車載のカメラオブスキュラでさまざまな地域を走る「Wandering Camera」、あるいは現地制作として行われるさまざまなプロジェクトまで一貫している。いずれも日ごろ見慣れた風景を、カメラによって超えようとする試みであり、たしかに写された場所は先入観から解放されて新鮮な表情を見せている。重要なのは、この解放が佐藤自身の身体によってなされるということである。
ことに初期の代表作となった「光―呼吸」 は、 作家自身がペンライトや鏡を持って風景の中を移動することで成立している。無機質なコンクリートの建築、再開発が進む都市のフロント、北海道の廃坑の街、そして海や森といった自然の中で、作家は全身で風景と対話をしているのである。それは彼の場所に対する解釈であると同時に、自己の存在を、写真を通して見るための行為でもある。
佐藤は「自分を見ることから、生きる現在の社会を考えようとしている」のだと、写真集『光―呼吸』に書いている。人はその身体を通して社会と関わるほかはなく、また身体的な振る舞いが社会化されてこそ、私たちは人として生きることができる。それは忘れがちだが根本的ことがらなのである。
さらに「呼吸すること、つまり、生きること」とも述べている。ペンライトや手鏡を持ち風景を歩くとき、佐藤は自身の弾む息づかいや汗ばむ肉体を、つまり自らの生をきっと強く自覚しているのである。いや、その自覚のためにこそ、作品に取り組んでいるのではないかとさえ思える。
そんな佐藤は、しかし最初から写真を選択したわけではなかったという。美術家として鉄の立体作品を発表するなかで、あるとき二次元の写真に可能性を見出し、それに賭けたのだ。
そして、その作品が写真関係者に驚きをもたらしたのは、その構造がきわめて光学原理に忠実でありながら、展示形態にも強いインパクトがあったからだ。バネで四隅を留められ、展示空間のなかでピンと張った巨大なプリントは仕上げも美しかった。立体の経験が、印画紙の物質的な属性を際立たせていたのである。
本書に寄稿した柳本尚規の言葉を借りれば「優れて写真的な写真」との印象を与えずにはおかなかったのだ。言い換えれば、それはきわめて純粋な写真表現である、すなわち「光画」の誕生だったのである。
美術への没頭
佐藤は1957年に、山形県酒田市の住職の家に生まれた。日本海に面したこの地の冬空は、いつも暗く重い雲に閉ざされている。ただ、ときどき雲のわずかな切れ間から、ピアノ線のような陽が差し込み、真っすぐに海まで伸びていく。幼いころ、高台の家から見たその光の階梯が彼の原風景となった。
光に対する鋭敏な感受性を持った少年は、手を動かしてモノを作ることも好きだった。兄の影響もあってプラモデル、ラジオ、ステレオなどを組み立て、アマチュア無線にも関心を持ち、また木材を加工することを楽しんでいる。ところが写真に関しては、父の趣味ではあったものの、さほど関心を持っことはなかった。ただなんとなく、将来は工学系に進みたいという希望を抱いていたという。
中学に進むとバレー部で活躍しつつ、美術の面白さにも目覚めた。きっかけは木材から削り出して作った人の頭部像を美術教師が褒めたことだった。もちろんそれだけで美術家を志したわけではなく、その道をはっきり自覚したのは高校時代である。
県内有数の進学校に進んだものの、数学や物理など理系の成績が急に落ち、身長の伸びも止まってバレーボールにも限界を感じるようになっていた。
また数年前まで彼の高校にも吹いていた、学生運動の風がすっかり収まったころでもあった。かつての熱気が通り過ぎ、学校の管理も強まり始めた時代で、生徒たちには無気力・無関心・無責任を意味する「三無主義」と呼ばれる一種の白けた気分さえ漂っていた。何より大学受験だけを目標にする彼らとは話が合わなかった。そんな疎外感のなかで、自分はいったい何者なのか、何者になれるのかを自問するなかで、美術にその可能性を見出したのだった。
佐藤は2年になると美術部に入り、美術雑誌『アトリエ』から出ている“技法シリーズ”などを参考にして油画を独学。さらに夏休みになると東京の美術予備校の講習に通った。ここで同じ美術という目的を持った仲間と出会ったことで、精神的な風通しもずいぶん改善した。石膏のデッサンでは自分の技術の低さを思い知らされたが、描くことはやはり楽しく、のめり込むように取り組んでいった。さらに、19世紀末から20世紀初頭に活躍したアリステイド・マイヨールやアントワーヌ・ブールデルらの作品を通じて近代彫刻の面白さを知ると、将来の目標がより明確になっていった。
こうした努力が実り、佐藤は一浪したものの、1977年に東京藝術大学の彫刻科に入学する。この学科ではまず木や石、あるいは土などの素材の扱いを学ぶのだが、佐藤は授業にあまり出ていない。 入学と同時に山岳部に入ると、すっかり登山に魅せられ、毎シーズン、1~2か月は山で過ごすようになっていたのである。
熱心な登山者は登攀技術を獲得しながら、自身のうちに哲学的な問いを育てていくものだという。佐藤もその例にもれず、「なぜ山に登るのか」を、その身体を通して考えていたと語っている。そして写真を撮り始めたきっかけもこの登山であり、最初はその記録のためだったのである。
生きている証
自分が行くべきは「美術」か「登山」かを真剣に悩み抜いた佐藤だが、3年になると進路を決めた。鉄を素材に選んで立体作品を作るようになると、学内での評価が上がり自信を得たのである。加工時間が短く、その自由度も広い鉄の特性が、彼の性分に合っていたようだ。
さらに現代美術のコンセプチュアルな造形作品、とくに作品の校正要素を最小限にとどめた、抽象的なミニマル・アートや日本の〝もの派″と呼ばれる潮流に出合ったことが大きかった。なかでも衝撃を受けたのは、巨大な鉄板を使ったシンプル作品を、屋外に設置するリチャード・セラの作品だった。それは置かれた空間の様相を一変させ、その環境についての認識を変えてしまうような、強い作用を与えていた。
とはいえ、当時の東京藝術大学で教えられていたのはもっぱら具象彫刻だったから、こうしたコンセプチュアルな作品について理解することは難しかった。そこで佐藤は、自ら美術史を学び直したり他大学の出身者と勉強会を開いたりしつつ、試行錯誤を重ねている。
この当時、佐藤は、鉄板を叩き潰した細い鉄の棒をユニット状に溶接した作品などをてがけている。そのンセプトは「自分が生きているあかし」で、後に制作の動機についてこう語っている。
「生きるってことは、結局は毎日毎日単調にご飯を食べて排泄して寝てと、単調なことの繰り返し。それを象徴的な作業の繰り返しで作品にしたいと思った」
やがて1983年に大学院を卒業した佐藤は、埼玉に共同のアトリエを持った。そして彫刻に火や水あるいは植物や土など、時間によって変化する生命の要素を組み合わせ、動的なインスタレーションへと作品を展開させていった。
だが世間の反応は薄かった。パートタイムの仕事で資金をつくり、年に一度ほどのペースで個展を重ねるのだが将来の見通しが立たなかった。その状況を親族もひどく心配したが、一番辛いのはもちろん自分自身にほかならない。
美術の潮流も変わり始めていた。1980年代には抽象的なアートへの反動から、具象的で過去の様式を引用したりするニューペインティングなどが話題になるほか、写真を使った作品も注目されるようになっていた。ちょうど大学院を卒業した年には、東京と京都の国立美術館で「現代美術における写真」展が開催され話題を呼んでいる。ここで欧米の作家のほか、野村仁や山中信夫ら写真作品を手掛けていた日本の若手作家も紹介され、佐藤も刺激を受けている。
何より、自作の記録を撮るうちに、写真はストレートに光や時間を表現でき具象性も取り込めることに気付いていた。決定的だったのは、友人が持っていた8×10のカメラを見せられたことだ。大きなピントグラスに映る逆さの風景、そのクリアさが強く琴線に触れ、友人に頼み込んでそれを譲ってもらった。
1986年、佐藤は母校の写真制作をサポートする‶写真センター″の助手になり、ある程度の安定を得られるようになった。また「予兆」と題した写真作品などを発表していた榎倉康二とも、ここでより親しくなり、刺激を受けることができたのも大きかった。
初めてペンライトによる撮影に取り組んだのもこの年である。最初は自分の彫刻の形を光でなぞってみた。そこから夜間に、地下室や階段など無機質な建築物の中に新しい空間を創出させるものへと進んでいった。リチャード・セラが鉄板でひとつの場所の性質を変えるのに対し、佐藤は写真でそこに時間という要素をも加えたといえるだろう。
さらに研究を重ねた佐藤は、屋外での撮影へと表現の幅を広げていく。手鏡を使い、その光芒によって場所に対する見方を変えてしまったのだ。
その取り組みは、ちょうどバブル景気の時代と重なっていた。東京の再開発や廃墟化するタ張の炭鉱が作品のモチーフになったのは必然であり、自分と社会との関係を考えるというコンセプトは、より明確になっていったのである。
カメラとは、目に見えるものしか写せないが、見えないものを視覚化できる不思議な装置だ。 一見すると矛盾する表現の可能性は、原理に対して忠実な者でなければ追いかけられないのではないか。佐藤の作品はそのような原理を物語っているようだ。
佐藤 時啓(さとう・ときひろ)
1957年山形県生まれ。1983年、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。1982年より個展・グループ展を多数開催。海外での評価も高く、作品は東京都写真美術館、シカゴ美術館、ヒューストン美術館など、国内外で広くコレクションされている。東川賞新人作家賞、国内作家賞など受賞。現在、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授。
参考文献
『WAVE 25 151年目の写真』(ペヨトル工房 1990年)
土岐小百合編『写真家になる!』(メタローグ 1998年)
「光―呼吸 そこにいる、そこにいない」展図録(東京都写真美術館 2014年)
「現代美術における写真―1970年代の美術を中心として―」展図録(東京国立近代美術館 1983年)
「毎日新聞」1997年4月7日東京夕刊
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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