【写真学校教師のひとりごと】vol.15 久保木英紀について

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。

これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。

▼前回【写真学校教師のひとりごと】


 

久保木英紀はまだ写真展をやったことがない。
わたしのクラスに所属していたのだから、写真展を目指すのは当然、の雰囲気はあったはずだ。
力量から言って、過去に何回かやっていてもおかしくない男である。
しかもわたしのナバホ・インディアン保留地行にも2回同行している。
つまりわたしとの人間関係においても、なんら問題のない男である。

肝心な写真のフレーミング能力にも優れていて、どうして今まで写真展をしなかったのだろう、
というわたしの問いかけに、かれはこう答えた。
「最後のツメの段階になると、なぜか、もうひと踏ん張り頑張ろうという気持ちになれなかった。」

ところが3人の子供を育て、その過程でいろいろな問題を親子としてその都度話し合い、考えてきた。
そこで、自分の生き方が中途半端だということに気づき、生き方をただそうと思うようになった。
中途半端だと思ってもそれを認め、正しい方向へ直そうと決断することはなかなかしんどいことだ。
普通は気がついても、眼をつむってやりすごすというのが、多くのやり方だと思う。
子供の存在が自分を正しい方向に向かうよう、仕向けてくれたのだ。
素晴らしい!
それで今度は途中で諦めたり放棄したりしないで、最後までやり遂げることを決心し、わたしに連絡してきたのだという。
このように自分の負の面にクールに真っ当に対処するとは。
年齢がちょうど50才だというが、年齢以上の柔軟さをそこに感じた。
この久保木の考えを聞いて、これからの顛末を、ここに報告していこうとわたしは決めた。
つまりかれのこれからの努力、写真展応募の結果、そして、展示が決まるまでを、追いかけてレポートするということだ。
かれはなんの躊躇をすることもなく、即決でわたしの提案を受け入れてくれた。
自分の考え方、決断に間違いはないと自信を持っているのだろう。
そして、そこそこの覚悟もあるようだ。

「ベッドタウン」
これが久保木の今度の写真の仮タイトルである。
つまり自分の生まれ育った町、かれの親たちがつくりあげた町を撮っている。
かれはこの集落をベッドタウンというクールな言葉で表現しているが、視点はマイタウンという見方が強く感じられる。
でもそれがいいのだ。自分が生まれ育った土地なのだから。
もっともっとマイタウンという感情を大切にして撮ってもよいのではないか。
なにも久保木のベッドタウン論を展開する必要はないのだから。
そういった地点にある集落だからこその問題点や特徴を見せていったら、いいのではないか。
クスッと笑いたくなることや人間の哀しさなど、いろいろ見えてくるはずだから、それらを見つけて映像化して欲しい。

 

菊池東太

1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

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