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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.39 生活者の視点でつづる東京 大西みつぐ『WONDERLAND 1980-1989』(十文字隼人映像探偵局) 鳥原学

映画やドラマに描かれる昭和の下町は、映画「三丁目の夕日」のように快活な明るさに満ちている。もちろん、あのイメージも間違いではないが、その奥にはもっと雑多である種の息苦しさや不自由さも内包していた。つまり現実の生活があったのである。その猥雑なエネルギーと表情とを、大西はそこで暮らした経験から見つめ活写したのである。

 

下町と写真家

よくメディアで描かれる東京の下町といえば、戦後復興期から東京オリンピックを挟み、高度経済成長の終わりまでの情景だろうか。

その描写と言えば、ことにタ暮れ時が多い。西日に照らされた路地を駆ける小僧たち。男この子は坊主頭で、女の子はオカッパだ。作り過ぎたおかずを持って訪ねてきた、隣家のおかみさん。爺さんたちは早めの銭湯につかり、親父は仕事帰りに酒屋で一杯ひっかけている。やがて日が落ち、小さなちゃぶ台を囲んでの質素な夕食が始まる。こういう「つつましい幸福」も悪くはない、そう思わせてくれる。

ただ、実際の下町暮らしには悩ましさは少なくなかった。そもそも東京の下町と呼ばれた一帯は、主に23区の東側、大小の河川や運河に挟まれた低地であった。そのため台風などの水害に弱い、「セロメートル地帯」が多い。衛生的とは言いがたい環境は、行政上の課題だった。また、戦争で負った傷跡を心身に刻んだり、他人に言えない事情を抱えていたりするなど、流れついた人も少なくなかった。その中で培われた親密な人間関係は、噂話の種になり、何かの拍子で「人情」から過度な干渉に変わることもあった。プライバシーというものが極端に薄かったのだ。

下町出身の写真家、たとえば木村伊兵衛や桑原甲子雄、あるいは荒木経惟らが撮ったスナップを見ると、こうした故郷についての複雑な感情が見え隠れしているものだ。ただのノスタルジアではない。

もちろん大西みつぐもまた、その系譜に連なる写真家の一人なのである。大西は1952年に隅田川沿いの町、江東区森下に生まれ、その近辺から離れることなく町のスナップを続けてきた。下町情緒豊かな写真も少なくないが、その暮らしをただ礼賛するものではなく、その複雑さがこの写真家の真骨頂と言える。

大西のライフワークといえる、モノクロの「ワンダーランド」シリーズには、それがよく表れている。1989年の『WONDER LAND 1980-1989』では、普段の町を流したり、地元の祭りなどのイベントに分け入ったりしながら、人々のさまざまな振る舞いに目を向けている。濃厚な人間の匂いのする町の営みを、少し引いたところから、ユーモアを交えて観察している。

「それらの写真は、人に対して、容易には馴れ親しもうとしない写し手のものである」

本書の序文にこう寄せたのは、同じ下町出身の作家の枝川公一である。枝川は大西の写真に見えるもどかしさが魅力だと述べている。ならばそれは、好奇心旺盛な少年のものだと思えるからだ。

大西は、幼いころから優れた観察者だった。なにしろ話を聞いてみると、育ってきた町や住人たちについての記憶が、細部までとても鮮明なのだ。たとえば自分のアパートから向かいのアパートの窓をよく眺め、住人の素性についてさまざまな想像をふくらませていたこと。ふと町に現れた手品を見せてくれる不思議なおじさんに招かれ、その部屋に遊びに行った話の顛末などは、まことにドラマチックなのだ。見えているものの向こうにある暗闇が、が大西の記憶を劇場的な物語へと変えているようでもある。

とはいえ町の猥雑なエネルギーが、すべて楽しいわけでもなかった。川向こうの新しい町への漠然とした憧れや、一種の脱出願望が湧いてくることもあった。そこで思い切って橋を渡ってみるのだが、いつも早々に帰りたくなってしまうのだった。“行きつ戻りつ”を繰り返しながら、この少年は次第に視界を広げ、自分の町を客観視できるようになったのである。

 

写真への萌芽

大西は中学生のころからわが町のスナップを撮り始めている。修学旅行のとき、アパートの大家が譲ってくれたフジペット35が彼の愛機だった。

本格的に写真家を目指すきっかけは、一冊の写真集が与えてくれたという。高校生のときに古書店で手にしたのは、1961年に出版された清宮由美子の『日本のどこかに』(鏡浦書房)で、日雇い労働者が借りる簡易宿泊所、いわゆるドヤに1年間住み込んで撮影したという社会派ルポである。清宮は女性週刊誌のカメラマンとして皇太子の結婚スクープを取材した、いわば女性カメラマンの草分けである。

大西が貧困問題の告発を意図したこの本に興味を持ったのは、撮影地が彼の暮らす町だったからだ。大西は、この本にただ感銘を受けたわけではなかった。労作だとは思いながらも、それ以上に貧しさを強調した表現の、暗さと硬さに疑問を覚えたのだった。そして自分ならもっと違うやり方でこの町の営みを表せるだろうと思った。撮られる側の痛みを知る写真家になろうという目標が、 この写真集を機に芽吹いたのである。

大西は高校を卒業すると、横浜市にある東京綜合写真専門学校に進むことを決めた。以降この学校で、生徒、研究室の助手、教務室の職員、さらに講師として長く留まり、写真家として多くのものを得ていく。写真の技術や思想はもちろん、経験という財産を与えてくれたのは同年代の仲間たちとの実践や、兄事すべき人々との交流だった。

日本の写真史における1970年代は、自立を目指す若い写真家たちによる実験の季節であった。彼らは自主ギャラリーや同人誌といった自分たちのメディアを立ち上げ、そこを拠点に映像的な実験を繰り返し、また写真を語る新しい言葉を模索した。

写真雑誌もまた、若く意欲的な写真家に場を与えていた。その象徴的なコンテンツが、大西が入学した翌年に始まる『カメラ毎日』誌の「アルバム」であった。最初は著名な写真家の未発表作などを公開するグラビアベージだったが、すぐに若い世代の登竜門となり、人気写真家を輩出することとなる。しかも、そこには須田一政や鈴木清といった、この学校出身者の名前も少なくないのである。

例えば須田は「アルバム」 での発表をステップに、同誌で 「残菊プルース」や「風姿花伝」を発表、『日本カメラ』誌では「民謡山河」といった連載を持った。そこで展開された、日常と非日常の裂け目から異界を覗き込み、印画紙の上に定着させた、妖しげな世界観は高く評価されている。

大西も「アルバム」 に1973年から計4回採用され、 結婚式の写真や新聞写真を複写した、 ンセプチュアルな作品を発表したが、さほど大きな反響は得られなかったようだ。

現在に通じる下町の写真を初めて発表したのは1976年である。ミニコミ的感覚の新しい雑誌として人気があった『話の特集』8月号に、「僕の下町雑・記帳」と題された町のスナップが掲載された。「怖いもの知らず」で編集部に持ち込んだところ運良く採用されたと言うが、これが写真家としてのメディア・デビューとなった。

この年はほかに、自主ギャラリーで「ワンダーランド『写真趣味』」 展なども開催し、いよいよ本格的な活動期に入った。そして4年後の1980年3月には、本格的な個展「横丁曲がればワンダーランド下町1969年〜1979年」を新宿ニコンサロンで開催し、手応えをつかんだのである。

 

生活者のリアリティ

こうして走り出した大西に強い影響を与えた人物が2人いる。やはり下町育ちで、同じ学校のOBでもある須田と春日昌昭である。

須田に会ったのは新宿ニコンサロンでの個展を前にした時期で、名目は校務だったが、実は作品への意見を聞くためだった。このとき大西は、ハッセルプラッドで精力的に街をスナップする須田の姿を見て、強い感銘を受けている。そして、撮り始めていた35ミリ判カメラを6×6判に持ち替え、「ワンダーランド」シリーズに取り組むことを決めたのだった。

もう一人の春日は、学校での上司にあたる。口数少なく飄々(ひょうひょう)とした人柄を「同じ下町のよき兄貴分」を、大西は慕った。その春日の経歴は、22歳で平凡社の太陽賞に応募して準太陽賞を受賞した以外に目立つところはない。しかし、オリンピック前後の東京を写したシリーズなどを見ると、写された街自身が何かを語り出すような渋い魅力を放っているのである。だから、その春日が『WONDERLAND 1980-1989』を準備している最中の1989年10月に急逝したとき、大西はきわめて強いショックを受けた。バブル景気のなかで受け取った訃報は、彼の知る下町的な良き人間臭さや気風が失われてゆく、象徴的な出来事ともなったことだろう。

こうした出会いと別れに挟まれて下町の写真を撮っていた10年間、つまり1980年代は、東京の風景が急速に変化した時代である。運河沿いの町もインフラが整備されて再開発が進み、整備されたマンション群や大きな公園のあるニュータウンとして再生されていった。なかでも変貌の象徴となったのは、1983年にオープンした東京ディズニーランドである。山本周五郎の小説『青べか物語』の舞台にもなった、河口の小さな漁師町がその痕跡も留めず「夢の国」になり、全国から人が押し寄せるようになった。

大西もそんなニュータウンにカメラを向け、「河口の町 江東ゼロメートル地帯制」で1985年に太陽賞を受賞した。こちらはカラーによる作品で、乾いたその景観描写が、冷静な観察眼が冴えた都市論と評価された。大西がそのニュータウンの一角に引っ越したのはその翌年のことで、新しい住まいの周辺の暮らしを、今度は「ニューコースト」シリーズとして発表し始めた。もちろん、その一方では、かつてとは逆方向から橋を渡り、心に刻まれた古い面影が残る町にカメラを持って出かけてゆくのである。

こうした時代の変化の中で撮り進められた『WONDERLAND 1980-1989』には、記憶にある町と、それが失われてゆく現在との段差が意識化されている。ただ、その意識化は「河口の町」のようにスパッと割り切ったものにはならず、どこかもどかしげな態度が残る。その逡巡こそ、ある特定の地域に根差して写真を撮っている者のリアリティなのだ。

それから19年後の2008年、大西は続編といえる『Wonderland』(日本カメラ社)を出版した。ここではフォーマットが6×7判に変わり、前作よりも人物との距離が遠のき、逆に町の景観がぐっと前に出てきている。すっかり姿を変えてしまった町並みのなか、時代に取り残された往時の建物がやや横長の画面で俯瞰されて、ことさらでない喪失感が醸し出されている。見ていると、爽やかな感傷が心の中に湧き上がってくる。

2冊を通じて理解されたのは、大西は日々の暮らしの描写を積み重ねながら、より大きな時間の流れを描いてきたということだった。いくつかの時代の曲がり角を経てきた普通の人々の証言として、このシリーズは長く読み継がれる仕事である。

 

大西みつぐ(おおにし・みつぐ)

1952年東京都生まれ。東京綜合写真専門学校卒業。東京の下町を主なテーマとする。雑誌等で発表する傍ら、アマチュアの指導や専門学校、美術大学での教育にも携わる。『河口の町』で太陽賞、『遠い夏』ほかにより木村伊兵衛写真賞を受賞。著書に『WONDER LAND 1980-1989』『遠い夏』『Wonderland』『東京手帖』『下町純情カメラ』『川の流れる町で』などがある。2017年に日本写真協会賞作家賞を受賞。

参考文献

大西みつぐ『デジカメ時代のスナップショット写真術』(平凡社新書)2002年
大西みつぐ『遠い夏』(ワイズ出版) 2001年
大西みつぐ『下町純情カメラ』(エイ文庫)2004年
『太陽』(平凡社)1985年7月号「第22回太陽賞受賞作品 大西みつぐ「河口の町」」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1993年4月号「第18回木村伊兵衛写真賞 小林のりお・大西みつぐ」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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