Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー vol.24

学校法人呉学園 日本写真芸術専門学校には、180日間でアジアを巡る海外フィールドワークを実施する、世界で唯一のカリキュラムを持つ「フォトフィールドワークゼミ」があります。

「少数民族」「貧困」「近代都市」「ポートレート」「アジアの子供たち」「壮大な自然」、、

《Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー》では、多様な文化があふれるアジアの国々で、それぞれのテーマを持って旅をしてきた卒業生に、思い出に残るエピソードを伺い、紹介していきます。

ふたつの出会いに学んだこと

2025年6月。フィールドワークの旅からちょうど11年が経った今、日本の東京で分厚い日記帳を開いている。

10年以上も前の、とある1日の出来事なんて到底正確に思い出せるはずもなく、この記事を書くためにどうしたものかと当時の撮影データを見返していた。

しばらくして、ふと日記帳を持って旅に出ていたことを思い出した。幸い家の片隅に置かれていた段ボールの中から日記はすぐに見つかった。

淡いピンク色の分厚い3年日記。バックパックで旅をしていたにも関わらず無駄に重い3年日記を持ち歩いていたのが馬鹿みたいだし、開いてみればフィールドワークの後の2年分はほんとんど空欄になっていて、飽きっぽい自分に心底うんざりしながら当時を振り返っている。

「ーー2014年6月22日。
コルカタ、インド。
ニーハの家でお昼ご飯に招待してもらった。チキン&ポテトカレー、魚の揚げ物、サラダ、ご飯、あとナスみたいな野菜。水、サムアップ。味は最高に美味しかったけれど、お腹を下した。たぶん水だろう。痛かったな。」

コルカタに滞在中、夫婦で洗濯屋を営むチョードリさんを取材していた。

インドといえば1950年の法改正でカースト制度は廃止されたものの、実際その風習は色濃く残ったままだった(恐らく今でもそうなのだと思う)。特にコルカタのような都市部では、IT企業で働くエリートから物乞いをする人まで同じ通りを歩いているので、人々の貧富の差を感じるのは容易なことだった。

カーストには4つの階級があると言われているが、さらにその下には不可触民といって目にしたり触れることすら厭われる人々が存在している。清掃や畜など不浄とされる仕事を担っていて、洗濯もその中のひとつだった。当然そういった仕事場がインターネットやガイドブックに載っているわけもなく、ガラス張りの高いビルやイギリス統治時代の美しい建築が立ち並ぶ街の雑多の中を歩いて探し回った。

大通りから街の内側に入っていくと、アスファルトで舗装された道からタイルや石が敷き詰められている道、そして土だけの道へと細く細く変化していった。道が狭くなるにつれ、オフィスビルから小さな商店、町工場や生活の空間へと建物の用途も変わり、ピシッとしたスーツやハイヒールで決めている人はすっかり見当たらなくなった。

路地裏からさらに奥まったところに納屋のような家があって、チョードリさんは庭先で服を洗って干し、四畳半ほどの屋内でアイロンがけをしていた。旦那のほうは仕上がった洗濯物を自転車に乗ってお客の元に届けに行き、帰ってくるとアイロン台なのかベッドなのか分からないスペースに横になって、ポータブルテレビをつけ、いつまでも帰らない私に金をよこせと不機嫌そうな顔をした。一人の人間として関係を築きたかった私は、撮影者と被写体、日本の若い写真学生とインドの低カーストの洗濯屋という構図を自分が作り出していることに大きな虚無感を感じながらホテルへと歩みを進めた。

足取りは重かったけれどまた路地を進めば何か発見があるかもしれないと思い、なるべく細い道を選んでホテルに帰っていた。

そんな時ある裏路地の一角で細身の女の子と出会った。ニーハと名乗るピンクのクルタを着たその子は、当時15歳で学校には通っていなかった。彼女が住む一角はゴミ回収と分別をしている場所で、十数世帯が暮らしていたように記憶している。

インドでは男性が家の外で仕事をし、女性は家の中で家事や育児をする場合が多いと当時旅をする中で感じていた。それを男尊女卑だと言う人もいるけれど、「女性は守られるべき大切な存在だから」という考えを主張する男性も少なくなかった。その言葉を初めは素直に受け取れなかったけれど、家の中で過ごす彼女たちの顔を見ていると、一理あるのかもしれないと思えた。

ニーハに出会った場所でゴミ回収の仕事をしているのは例に漏れず男性だけで、「働く女性」を取材しようとしていた私はテーマからずれてしまうので彼らの撮影はほどほどにして帰ろうと思っていた。遠くからその様子を見ていたニーハが話しかけてくれるまでは。

夕暮れの街角、街灯に照らされた好奇心いっぱいで芯の強そうな目に、私はすっかり惹かれてしまった。その日から洗濯屋の撮影を終えてホテルに帰る前にニーハの家に寄るのが日課になった。

遊びに行く回数が増えるにつれニーハはもてなしのためのお茶を入れることがなくなったし、わたしも手土産のビスケットを持っていくことはほとんどしなくなった。ただ会っておしゃべりをして、彼女は近くの親戚の家に連れていってくれたり、私はその日撮ったカメラの中の写真を見せたりした。

恥ずかしいから見せたくないと言っていた、水汲みや洗濯の場面を見せてくれた時があった。英語を学ぶのが好きだったというニーハとの拙い英語の会話の中で、私はその恥ずかしいという真意をちゃんと理解することができなかった気がする。それでもそこにいることを許してくれた気持ちに応えたくて、夢中でシャッターを切った。

撮影者と被写体ではなくただの友人として会える時間が嬉しくて、限られた時間を私たちは楽しんだ。

そろそろ次の国に移動するタイミングが来て、コルカタを離れることを彼女に伝えると、お昼ご飯に招待してくれた。11年前の6月22日のことだった。いつも家の外で話していたので、靴を脱いで家にあがらせてもらうのは初めてだったかもしれない。

体感では2畳ほどの、家と呼ぶには狭すぎるピンクの空間に、チキンとポテトのカレー、魚の揚げ物、サラダ、ご飯、ナスみたいな野菜のおかずが並んでいた。コルカタに来て初めて家庭料理をいただける嬉しさを通り越して、私は先に「えっ?」という顔をしてしまった。なぜならそこには私一人分のお昼ご飯しか無かったからだ。

当然一緒に食べるものだと思って行ったので、寂しいような申し訳ないような気持ちになってしまった。私たちはもう食べたから、と嬉しそうなニーハと控えめな笑顔の母親に見られながら急いでカレーを口に運んだ。

取材中の昼ごはんは旅費の節約のためにじゃがいも一個が皿に浮かんでいるようなカレーばかり食べていたので、このご飯は本当に嬉しかった。精一杯の美味しい!というリアクションでふたりに感謝を伝えた。日記によればその後私はしっかりお腹を壊したみたいだけれど、心身ともに満たされた時間にかき消されて全く記憶にない。

卒業してから数年経ったある日、見慣れない電話番号から着信があった。ニーハだった。結婚することになったという内容だった。

コルカタでの結婚式に誘われたのか、あの時のおしゃべりの延長みたいな報告だったのか、どんなふうに話したかほとんど覚えていないけれど私は迷いながらおめでとうと言ったんじゃないかと思う。

「働く女性」という雲をつかむようなテーマを設けて旅をした半年間。速度を増して変化していく社会のなか、国境や文化を超えた先に生きる彼女たちの姿は、綺麗事ではなく、未熟な私の人生にたくさんの贈り物をもたらしてくれた。

でもそれと同時に自分に刻まれたのは「働く女性」という小さなカテゴリーを作ってしまったがために、視点が狭くなり、相手を何かに当てはめて物事を判断し、自分の心さえも見失ってしまうことがあると気がついたことだった。

コルカタで出会ったふたりは、決して裕福な生活とは言えない毎日を送っていた。でもそれを特定の単語や集団に振り分けて、一種の被写体として特徴づけようとしたのは誰でもない自分だった。それと同時に、そんな垣根は関係なくひとりの友人としてレンズを向けることができることもこの旅が教えてくれた。カメラを持つ者としてその経験を同時進行で受け取ることができたのは、もしかしたらとても幸せなことだったのかもしれない。

また明日から旅に出る。どんな人、どんな風景、どんな自分と出会えるだろうか。

 

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