
【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.43 叛乱の季節に見た新しい世界 渡辺眸『東大全共闘1968―1969』 鳥原学
1960年代末は怒れる学生たちの時代だった。不条理な体反抗する闘争は、全国に広がったが、その中心にあったのが国家の権威を背負う東京大学だった。
その東大全共闘の実像に、渡辺眸は肉薄し、新しい価値観を主張するエリート学生たちの葛藤を捉えた。本書は、世界中の若者たちが異議を申し立てた時代のモニュメントとなった。
写された解放区
歴史の中で、ひとつの時代の変わり目としてシンボリックに語られる年がある。日本にとっては敗戦の1945年、講和条約の発効で再独立を果たした1952年、東京オリンピック開催の1964年、バブル経済が崩壊した1991年、そしてこの1968年もそうである。
この年、日本大学の授業料値上げに端を発した大学紛争は、戦後という時代に生まれた新しい価値観に試練を与えた。評論家の小熊英二はこの紛争について、不登校、自傷行為、摂食障害、あるいは閉塞感といった「『現代的な生きづらさ』の端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり反応した現象」と位置付けている。
重要なのは、若者の叛乱が日本だけの現象ではなかったことだ。アメリカではベトナム反戦と公民権運動が結びつき、パリでは労働者と学生による五月革命が起こった。中国では共産党主席の毛沢東を崇拝した若者による文化大革命が始まっている。その同時性ゆえに、この年が時代の転換点と呼ばれるのである。
これらを記録した膨大な写真や動画のうち、ことに日本の全共闘を捉えた作品は世界的にも高い評価を得ている。客観的な報道写真家のそれとは別に、若者たちの内側からの視点で撮られ、しかも高い表現性をもつものが多いからだ。なかでも、渡辺眸の「東大全共闘」の持つ意義は大きい。渡辺は1968年の初秋から全学ストライキで封鎖された大学構内に日参して、学生たちの実像を写したのである。
「解放空間としてのバリケード空間の日常を写し取っていることによって、事件性の高い図像のみを追いかけるマスコミの報道カメラマンがとったものと決定的に異なり、より以上に貴重なものになっている」
当時、東大全共闘の代表だった山本義隆が、2007年に新編として出版された『東大全共闘1968-1969』の解説でこう書いたとおりである。
本書を開くとすぐに、渦巻く緊張感とエネルギーが押し寄せてくる。ヘルメットを被り、角材を持った学生たちは、シュプレヒコールをあげながら激しく機動隊とぶつかっている。立て籠もった構内には独特の角ばった文字で書かれたスローガン-たとえば渡辺の写真で有名になったというー「連帯を求めて孤立を恐れず……」が大書されている。一方では疲れた顔で議論し、わずかな時間に簡素な食事や仮眠をとる学生たちの表情が、けして文字では語り得ぬ雰囲気を伝えているのである。
これを撮った渡辺もまた同じ世代の若者であり、東大全共闘を撮ることは、自分自身が感じていた「生きづらさ」を乗り越える闘いでもあった。撮影しながら「内在していた反骨精神やユートピア志向が外へと引き出されていく気がした」と本書で振り返っているように、この体験は、彼女にとっても重要な転機をもたらしたのである。
香具師(やし)の世界
渡辺のいう「反骨精神やユートピア志向」は、「みんな同じ人間」とよく話していた母から譲り受けたもののようだ。エピソードを聞くと、そう思わずにはいられなかった。
例えば渡辺が小学生だったある日のこと。警察官に追われていた近くにある朝鮮学校の生徒たちを、母がとっさに家の扉を開けてかくまったことがあった。生徒らは交番に何かいたずらをしたらしいのだが、立場の弱さを見過ごしにはできなかった。また1968年には、住まいから近い北区王子の米軍キャンプ内に建設されるベトナム線の負傷兵を収容するための、野戦病院建設に反対し、割烹着のままデモに参加したこともある。
渡辺は、そんな母と国鉄に勤めていた父がもうけた、5人兄弟の4番目として1939年に生まれた。ひとり遊びが好きな、おとなしい子どもだったという。はじめてカメラに触れたのは小学生のころで、大学生だった兄から借りて家族写真を撮っている。だが、当時はそれ以上の関心を示すことはなく、好きになったのは写真ではなく映画だった。中学生のころ、仕事の関係で招待券をもらった父がよく映画館に連れていってくれたのだ。そこで時代劇や大映の「性典もの」に惹かれ、次第に任侠映画や、ゴダールやトリュフォーなどフランスのヌーベルヴァーグなどの映像的な作品にも触れている。
そんな渡辺は高校を卒業するといったん就職した後、明治大学の文学部に入り、卒業すると人の紹介で雑誌『児童文学』の編集者となっている。だが、編集という仕事にあまり関心は湧かなかったようで、後に当時の心境を「しらけていた」と話している。そんな気分を変えたくれたのが写真で、対談やインタビュー取材にあたって自らカメラを持つうちに、興味を引かれるようになっていった。とはいえ、フィルムの詰め方さえよく知らず、近くのカメラ店にそれを頼んでいた初心者ではあった。そこでもう少し詳しくなろうと、東京綜合写真専門学校の門を叩くことにした。
教室では寡黙な生徒だったが、やはり実存的な手応えのようなものを求めていたようだ。当時について「(写真のことよりも)なぜ生きているのか、とかそういうことを考えていて、存在の悩みが大きかった」と振り返っている。そんな渡辺が撮っていたふたつの作品が教師たちを驚かせた。ひとつは、1966年から撮り始めた、祭りの屋台を取り仕切る香具師(やし)の世界をテーマにした作品で、きっかけは、地元の十条冨士神社大祭の夏祭りだった。
撮影前日に散歩に出たところ、縁日の場所割をしている彼らの「熱気と殺気と侠気と惰気」に触れ「第六感」というものよりもっと鋭敏な神経が作用した。急いでカメラを家から持ってくると夢中でシャッターを切ったが、すぐに香具師たちに囲まれて厳しく詰問された。そのとき、親分格のひとりが発した「俺を撮ってくれ」との一言が救いとなった。これを機に彼らに気に入られた渡辺は、都内だけでひと月に20日もある縁日をまわり、あるいは親分衆の襲名式なども撮っている。
それらの写真は『アサヒグラフ』1970年7月3日号の巻頭「特集・テキヤの世界」で発表され話題にもなった。渡辺はそこに、自身の内部に潜む「幻影とでもいう『男の美学』を求めてのことかもしれない」と述べているが、言い換えれば、持ち前の「反骨精神やユートピア志向」が、任侠的な気風を色濃く持つ、男たちの世界に投影されていたということだろう。
覚醒への歩み
もうひとつの作品は、闇市からの気配が残る一方、サイケやアングラと形容されたカウンターカルチャーの発信地だった新宿のスナップである。「自分自身のライフスタイルを探すように、新宿を彷徨っていたように思う」と渡辺は当時を語っている。
その写真をもとに、1968年9月には処女写真集『新宿コンテンポラリー』を自費出版した。同書には、この街ゆかりの文化人たちが「ひとこと」を寄せているが、渡辺が好きなのは赤瀬川原平の「代々木から一駅はなれて」だ。既成の権力や党派から距離を置く、アナーキーさを宿した街の魅力を端的に表す一文である。また「バカと白痴と阿呆がふらつく帰り道のない街」と書いたのは、 同書の装丁を手掛けた美術家の山本美智代であった。渡辺とは飲み友達で、山本の家に何度か遊びに行くほど仲が良かった。そこで顔を合わせた彼女の夫、東大の大学院で素粒子論を研究していた山本義隆には、物静かな学者肌という印象を持った。
ある日、いつものように美智代を訪ねると、これから籠城中の夫に着替えを届けに行くという。渡辺も「来てみないか」と誘われると、好奇心からそれに応じた。
東大構内に入ると、山本義隆へのイメージは一変したと。学生たちの先頭に立って「大学解体」を叫んでいたのだ。その優秀さから将来が約束されていたであろう彼が、エリートコースを拒否する「自己否定」を実践している。つまり、義隆は自分自身を変えることによって、日本社会を変えようとしていたのだ。
その衝動が、渡辺を東大全共闘の撮影へと駆り立てるのだが、まず学生たちから信頼を得るのが難しかった。写真家を装った内偵ではないかと疑われ、そうでなくても彼女の写真が警察に犯罪の証拠とされるかもしれないと懸念された。それを説得したくれたのもまた義隆だった。以降、彼が渡してくれた白い布に赤い字で「全共闘」と書いた腕章を巻き、渡辺は東大の闘争に日参した。やがて東大闘争は翌年1月の安田講堂をめぐる攻防でピークを迎えたが、撮影は義隆が逮捕されたあとも続けられた。それらの写真は『カメラ毎日』5月号で発表されたほか、『東大全共闘』(東大全学助手共闘会議/編) に収録されている。
この一連の撮影は渡辺にとって成果となったが、心に深い傷を残すことになった。遠くにヘリコプターの音を聞けば安田講堂での催涙弾の記憶が蘇り、逃げ出したい衝動に駆られた。何よりこの闘争で「気が狂った人も死んだ人もいる」のに、なぜ自分は生きているのかという罪の意識に深く悩んだのだ。
その葛藤は、渡辺を精神世界へと近づけた。1972年にインドへ旅立ち、現地を周遊しながらヨガのコミューンなどで過ごしたのだ。現地では「裸の心で暮らす」ということを学び、ネパールではかつてヒマラヤのふもとで自分が生まれたということを実感した。
渡辺の写真も変わり、光がこぼれてくるような不思議な雰囲気に包まれている。写された人も動物も風景も、等価なものとして見えてくるのだ。それらの写真は『天竺』『猿年紀』『西方神話』にまとめられ、彼女の求めてきた「ユートピア」とは、かくのごとき場所だと示している。
評論家で画家の宮迫千鶴は、そんな渡辺の写真について「(この世界を)既成の観念の枠組みのないゼロ地点から見つめようとする意思」があり、ひとつの覚醒だと評した。彼女の覚醒への第一歩とその軌跡こそが、あの東大全共闘の写真に刻まれているはずである。
渡辺眸(わたなべ・ひとみ)
1939年、東京都生まれ。明治大学文学部卒業。東京綜合写真専門学校卒業。学生運動や香具師を撮影し、注目を集める。1972年にインドやネパールを旅し、以降、生命を主なテーマとする作品を発表している。
主な写真集に『新宿コンテンポラリー』『東大全共闘1968―1969』『天竺』『猿年紀』『西方神話』など。
参考文献
渡辺眸『新宿コンテンポラリー 渡辺眸写真集』 (渡辺眸写真集刊行会 1968年)
宮迫千鶴『《女性原理》と「写真」来るべき‶水瓶座の時代″のために』(国文社 1984年)「渡辺眸 ゼロ地点での覚醒 ヒトは昔猿だった」
鈴木志郎康『写真有心』(フロッグ 1991年) 「渡辺 眸 本来的な生き方を求めて」
小熊英二『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』(新曜社 2009年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1977年4月号「渡辺 勉VS渡辺 眸 やっぱり写真好きなのかしら」
『カメラ毎日』(毎日新聞社)1984年10月号 渡辺眸「安田砦落城2日前まで」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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