【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.34 生活の記憶が息づく建築写真 和田久士『アメリカン・ハウス その風土と伝統』(年金住宅福祉協 1986年、講談社 1987年) 鳥原学
つまるところ、「住まい」とは人の歴史である――。和田久士が写した建築たちはそう語りかけてくるようである。建物を作品として撮った「竣工写真」とは違い、人間に住まわれてこそ、建物は「家」なるのだ。そんな写真家の確信がそこにあるからである。
ドキュメンタリーで培った手腕と木村伊兵衛の写真から学んだ粘り強さを携えて、和田が建築に向き合ったとき、新しい建築写真の表現が立ち上がったのだった。
人間の住まい
旅のなかで撮られた、いわゆる「紀行もの」の写真集には、何層もの面白さが重なっている。まず見知らぬ地域の風土には新鮮な感動がありつつ、そこに暮らす人々の生活感情には親しみを覚えてしまう。ときに読者たる私の暮らす地域との、密接な繋がりを発見するのも嬉しい。優れた写真家による作品であれば、繰り返し見るほどにそんな発見が広がっていく。それを実感させるのが、和田久士のライフワークと呼べる、民家をテーマにした一連のシリーズである。
つまり『アメリカン・ハウス その風土と伝統』(年金住宅福祉協会/1986年)、『ヨーロピアン・ハウス その風土と伝統』(全2巻/朝日新聞社/1997年)、『日本の家』(全4巻/講談社/2005年)である。
この3部作に共通するのは、米・欧・日それぞれ地域の文化遺産というべき家々が、大型カメラでディテールまで明瞭に力強く描写されている点である。このような美しい写真を印刷の良い大判写真集で眺めるのはなんとも楽しく、知的な好奇心も満たしてくれる。
ことに『アメリカン・ハウス』や『ヨーロピアン・ハウス』は、日曜日の朝に、お茶を飲みながら眺めたりするのにとても適している。『週刊朝日』誌のブックレビューでこう評したのは日本近代建築について詳しく「建築探偵」との異名さえ持つ、建築史家の藤森照信だった。その藤森がここで注目したのは、インテリアの撮影に力点が置かれていること。日本の建築書で「外観や町並みだけなら前例もあるが、台所や寝室までこれだけ入り込んだのは初めて」だと驚いている。まさに、それが和田の意図だった。人物を画面から排して写す建築写真で価値をもつのは「室内のなにげない食器や家族の記念写真」などを写し込むことことにある。そうすることで、それぞれの家に生きた家族たちの長い暮らしの歴史を想起させるとの確信があったのである。
なかでも『アメリカン・ハウス』にはアメリカという巨大な国家をつくった、ヨーロッパからの開拓民の小さな丸太小屋から、成功者の豪壮な邸宅までさまざまな建築が登場する。その外観の造形的な美しさが、生活のディテールを想起させる室内の写真によってより生きているのだ。アメリカ合衆国が、多様な伝統文化を背景とする移民によって築かれたことが見えてくるのである。
この作品で和田は1986年度の木村伊兵衛写真賞を受賞している。興味深いのは、そのさい賞を主催する『アサヒカメラ』 誌に掲載された「受賞者のことば」が、木村伊兵衛への畏敬で溢れていることだ。木村の写真集『パリ』の出版から、実に多くを学んだと語られているのである。こうして自分が建築に関心を持ち、なかでも室内に目を向けたのは「木村さんの“こだわり方”にこだわってみよう」と思ったからだと。
大型カメラによる精密でユニークなこの建築写真集が、あのスナップショットの名手と、どう結びつくというのだろうか。私はこれを読んで不思議に思ったのだった。
写真は社会を語りだす
『アメリカン・ハウス』の誕生は、やや奇妙な素性をもつ写真集だ。本書は住宅融資を行なう財団法人年金住宅福祉協会の川周年記念事業として制作され、一般への販売というのは限定的だった。それが木村伊兵衛写真賞の受賞で注目され、大手の講談社から再出版されている。
企画もなかなか壮大だ。最初は世界各国の民家の歴史を写真でたどることが構想され、その後「明治以降の近代化の中で我が国の住宅が受けてきた多大な影響を鑑み」て、 アメリカの民家にテーマが絞られていった。実際の撮影は1985年秋と翌春の2回、計90日間で全米の300件の歴史的民家を巡るというから、かなりの強行軍である。
奇妙というのは、そもそもこの壮大な企画が、同協会の専務理事と「和田久士という若い写真家」が偶然に出会ったことから始まったことだ。「若い」といっても、撮影の時点で和田はすでに38歳、十分なキャリアをもつベテラン写真家だったのだ。ただ、そのべテランには、仕事で大型カメラを使った経験がなかったというから乱暴な話ではある。
そもそも和田は建築写真家ではないし、建物をテーマとしたこともない。もっぱら35ミリカメラを機動的に使うドキュメンタリーを中心に活躍してきたのだ。そんなキャリアの人物が技術的課題を短期間で克服したとき、培ってきた人間と社会に対する眼差しによって、日本にはなかった斬新な建築写真を提示したのである。
そんな和田の写真家としての出発点を探ると、高校時代に行きつく。捕鯨の町として知られる和歌山県太地町で生まれ育ち、中学までは地元でかなり知られた野球少年だったという。だが新宮高校に入学する前に肩を痛めてしまい野球を諦め、多少興味があった写真部に入部したのである。さほど熱心な部員ではなかったというが、人を写したスナップに光るものがあったらしい。また、公害問題が浮上してきた当時、テレビで水俣病のドキュメント番組を見たことを機に、社会的な問題に関心を持つようになっていた。
写真と社会的関心が寄り強く結びついたのは1965年である。大学受験に失敗し、上京して浪人生活を送っていたこの時期に、和歌山と東京を行き来する際、紀勢線の車窓から見えるある街の風景が気になったのである。それは大気汚染で知られるようになった三重県四日市だった。比較的郷里に近く、同じ海沿いの街に、水俣と同じ問題が起きたことは少なからぬ衝撃だったのである。
さらに本や雑誌などを通じて社会問題について関心を深めていくなかで、岡村昭彦の著書『南ヴェトナム戦争従軍記』に出会ったことも大きかった。アメリカの『ライフ』誌でいち早くベトナム戦争をレポートし、一躍世界的注目を集めた日本人フォトジャーナリストのルポは、ドキュメンタリー写真家を目指す直接的なきっかけだった。
翌年、和田は日本大学芸術学部の写真学科に合格すると、報道写真研究会に籍を置いた。そして2年に上がると四日市の公害ルポをものにしようと、本格的に取り組み始める。だがすぐに、周囲の状況からそれに専心できなくなってしまった。若者たちの反乱と呼ばれる、大学紛争の時代が始まったのである。
ことに日大はその発端であった。夏に学生の自治をめぐって紛争が始まり、1968年には使途不明金の発覚から大規模な「日大闘争」へと発展していくのである。社会への問題意識を持った和田もその渦の中にいたが、闘争の中で強い違和感を覚え、学校を去ってそのままフリーとなったのである。
もちろんドキュメンタリーを志す若い写真家が多くいた時代ではあったが、発表の場も生活の糧もそう簡単には得られるものではない。1972年に公害訴訟の判決が出たのを機に、四日市の作品を『アサヒグラフ』や『アサヒカメラ』などで発表して一定の注目を集めたものの、苦しい日々に変わりはなかった。それは文字通り 「修業だけ」の数年間だったと、和田自身が語っている。
名人から学んだこと
和田にとって、最も良き修業の場となったのはグループ「のら社」である。朝日新聞社で『アサヒグラフ』や『アサヒカメラ』の有能な編集者として知られた大崎紀夫と写真家の北井一夫を中心に、橋本照嵩、平地勲、岡田明彦らが1970年に立ち上げた、自分たちの写真集を出版するための同人的な出版社である。彼らは、この年の成田空港反対運動をテーマにした『壊死する風景―三里塚農民の生とことば』を皮切りに、北井の『三里塚』、橋本の『瞽女(ごぜ)』、平地の『温泉芸者』などを世に送り、先端的な写真集として高い評価を受け始めた。
最も若い同人だった和田は、こうした写真集の制作などを手伝いつつ、自らの表現を模索していった。なかでも大崎からは「北井の写真をよく見ろ」と言われ、じっさい得たものは多かった。やや引いた構図には主張の押し付けではない静かな迫力があり、 モノクロプリントの階調も抜群に美しかったのである。もちろんそれを真似ても北井には届かないことも分かった。彼我の違いを見出しながら、少しずつ自分の個性をつかんでいったのである。
だが、最大の収穫といえば、やはり1974年9月に出版された木村伊兵衛の『パリ』になる。もともとは1954年から3度にわたりパリで撮影したもので、失ったと思っていた原板を発見した木村が、北井や大崎に編集を託して生れた傑作である。北井によれば、木村はのら社の写真集を支持し、「作家がほんとうに好きなことをやっている」と評価していたという。30代の頃、戦争の中でプロパガンダに協力するしかなく、戦後は「スナップの神様」と神格化されてしまった木村は、のら社の活動に何を見ていたのだろうか。
話を戻すと、このとき、彼らが預かった原板は約2000カットに及ぶ。直接の管理を任された和田は「まる2か月、 それだけを見て過ごした」と振り返った。それほど、どのカットもどのイメージも素晴らしかったのである。なにより、瞬間的なスナップの名人と謳われた木村の印象もすっかり変わったのだ。原板は、写真家が一つの被写体にじっくりと取り組んでいたことを語っていたからである。例えば、たった1枚のポスターや壁を執劫に撮っていたり、ある女性の撮影にはフィルム2本を費やしていたりするのである。その粘りに触れ、和田は目の覚める思いがしたのである。
仕上がった、のら社による『パリ』は320ページの大著になった。単写真には目を見張るものがあっても、それを組んでフォトストーリーにするのが難しかったからだ。それが自分の弱点だと分かっていたようで、木村はその構成に何一つ文句をつけなかった。だが、完成を見ることはなく、出版の4か月前にこの世を去った。名人の遺作は、 彼にとって唯一のカラー写真集となったのである。
和田が『アサヒグラフ』や『旅』などで紀行ものを手掛け、好評を得るようになったのはそれからすぐ後のことだった。ことに初の中国ロケとなった1981年の単行本『大黄河を釣る』(小学館) では、民家の壁にある「なにげない食器や家族の記念写真」を強く意識して撮っている。このころすでに彼独自の視点が誕生していたことがわかる。
またこの年には、木村の凄さを再発見する仕事も依頼されている。それは『アサヒグラフ』誌の別冊で企画されたパリ特集だった。和田が巻頭のページを担当し、大トリが木村の「パリ」を採録するという誌面構成も決まっていた。だが初秋のパリは天候に恵まれないうえ、カメラを向けると人々の反応は極めて冷淡だった。木村のように巧みに人物を風景に配した、あの軽やかさは醸し出せない。和田は初めてページを半分にするよう、編集者に依頼したほどのプレッシャーを得た。
だが、この体験こそが彼を発奮させた。以降5度にわたってパリの撮影を重ね、1985年に写真集『巴里』(メディアファクトリー)にまとめたのである。ここでは、人の表情が近い距離で大きく写し込まれ、人も街も、いきいきと動いている。この人間の匂いの濃厚なスナップ写真集で、和田は初めて木村伊兵衛写真賞の最終選考にもノミネートされ、翌年の建築写真集『アメリカン・ハウス』での受賞の足掛かりを得たのだだ。それは実にこの写真家らしい、粘り強さによって得た成果だと言わねばならない。
本書は少部数の非売品だったが、受賞の効果もあって要望が高まり、翌年には講談社から市販された。これを機に、和田に建築写真の依頼が増えていったのは当然であった。
また自身も民家を撮ることをひとつのライフワークに据え、ヨーロッパを経て、日本の民家へと向かって行った。ただ、だからといって建築写真は和田にとってのすべてというわけではなく、2023年に亡くなるまで幅広く仕事をこなした。だが、それらの仕事に共通するものから見える本質は、さまざまな語り口で人間を捉える優れたドキュメンタリストなのである。
和田久士(わだ・ひさし)
1947年和歌山県生まれ。日本大学芸術学部写真学科中退。大学在学中からドキュメンタリーカメラマンとして活動を開始。『アメリカン・ウス その風土と伝統』で木村伊兵衛写真賞を受賞。主な著書に『大黄河を釣る―幻の怪魚を求めて中国大陸釣行記』『巴里』『ヨーロピアン・ハウス』『日本の家』『皇室の邸宅』などがある。2024年没。
参考文献
和田久士『巴里』(リクルート 1985年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1984年6月号「木村伊兵衛と今 和田久士 「パリで知らされた偉大さ」」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1987年5月号「第12回木村伊兵衛写真賞受賞者発表」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 2002年8月号「プロが語る初めてのカメラ8 和田久士 ミノルタAL」
『週刊朝日』(朝日新聞社) 1997年6月20日号「書評 藤森照信『ヨーロピアン・ハウス』」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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