Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー vol.5
学校法人呉学園 日本写真芸術専門学校には、180日間でアジアを巡る海外フィールドワークを実施する、世界で唯一のカリキュラムを持つ「フォトフィールドワークゼミ」があります。
「少数民族」「貧困」「近代都市」「ポートレート」「アジアの子供たち」「壮大な自然」、、
《Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー》では、多様な文化があふれるアジアの国々で、それぞれのテーマを持って旅をしてきた卒業生に、思い出に残るエピソードをお伺いし紹介していきます。
2007年8月24日
PFWゼミ2期生 齊藤 小弥太
格子状の窓から差し込む朝の光が、暗く湿った室内を微かに照らしていた。
室内にはパイプベッドが並び、老夫たちが静かに横たわっていた。
「こやた、これを持っていてくれ」修道士から手渡されたのは消毒液だった。
修道士は老夫の右足にたかる蝿を慣れた手つきで払いながら、ガーゼを患部に処置していた。ガーゼには壊死した老夫の右足から滲み出した体液が、薄らと黄色い染みを残している。「写真を撮ってもいいよ」ただ呆然と老夫の足を見つめていた私は、修道士からの突然の提案に戸惑いながらも、首にぶら下げていたカメラを構えた。そして露出や絞りを設定することも忘れて、ただ夢中でシャッターを押した。
2007年8月24日、私は北インドのバナーラスを再訪していた。
海外フィールドワークでは「生と死」というテーマで各国のホスピスを撮影する予定でいたが、事前準備の拙さから思うように撮影が進まずにいた。
「直接ホスピスに行ってみて、撮影させて欲しいと熱意を伝えれば撮影できるだろう!」今となれば余りに稚拙な考えだが、当時の私はその考えに身を任せた結果、インド以外の国ではほぼ門前払いされてしまっていた。
当時の海外フィールドワークのカリキュラムでは学校が定めた東南アジア10カ国に滞在後、テーマを深めるための再撮影期間を1ヶ月ほど設けていた。今まで滞在した国の中でどこに再訪するかは学生自身で決めることになっており、私は迷わずインドを選んだ。前回、バナーラスにあるホスピスを訪れた際に撮影許可は貰えなかったものの、ボランティアとしては受け入れてくれたからだ。
バナーラスの歴史は古く、紀元前6世紀のインドの叙情詩「マハーバーラタ」にも登場する。市中には大小1500ものヒンドゥー寺院があり、インド各地から年間100万人もの巡礼者が訪れている。昔は街路上にあった寺院が長い年月をかけて住居区に取り込まれたことにより、現在ではまるで迷路のように小路が入り組んでいる。
小路を歩くと、インドの伝統な楽器であるシタールやタブラの音が聞こえてくる。
そして、どこからか漂ってくるスパイスの香りと寺院のお香の香りが、道端に落ちている牛糞の匂いと混ざり合い、まさに混沌としたインドを感じることができる。
また、バナーラスはヒンドゥー教の聖地の一つに数えられており、ヒマラヤ山脈から流れ出す、聖なるガンジス川で沐浴をすると全ての罪を洗い流してくれると信じられている。
そんなバナーラスの中心部から、南西に向けてガンジス川沿いに少し歩くと施設が見えてくる。
「Missionaries of Charity Mother Teresa House」通称、死を待つ人の家だ。
マザーテレサの家といえばコルカタが有名だが、今ではその活動が認められ、インド各地に施設が点在している。
私が前回のフィルドワークから訪れているこの施設では、男女合わせて76名ほどが貧困から逃れて暮らしていた。
施設のボランティアは日の出とともに始まる。ボランティア内容は朝食の用意や掃除、洗濯といった雑用が多く、あっという間に時間が過ぎていく。ボランティアの 合間に記念撮影程度の写真を数枚撮ることはあったが、他の場所と同様 にMother Teresa Houseでも正式な撮影許可は下りずにいた。しかし、今までの人生の中でボランティアの経験がない私にとって、他の誰かのために働くことは新鮮であり、やりがいを感じていた。
だが日本では体験できない貴重な経験を積んだとしても、思うように写真が撮れていないという事実は消えず、頭を悩ませてい
た。そんな矢先、修道士から声がかかった。普段は立ち入ることのない、重い身体障害を持った方々の部屋の手伝いを頼まれたの
だった。少しでも写真を撮りたかった私は首からカメラをぶら下げて修道士の待つ部屋へと向かった。
部屋の中には粗末なパイプベットが並び、70~80代の老夫たちが横たわっていた。
「このひとたちは路上生活中に保護されたんだよ」
バナーラスは高温多湿の亜熱帯性気候に属している。酷暑期では気温が40度を超える日も多く、冬には最低気温が10度程度まで低下する。その環境の中で彼らは飢えをしのぎ、長年路上生活をしていたという。老夫たちの顔には一様に深い皺が刻まれており、彼らの人生を物語っているかのようだった。
修道士はひとりの老夫の処置をしていた。彼は路上生活中に感染症を患い、右足が壊死していた。呼吸は荒く、宙空を見つめる瞳
からは精気が感じられなかった。私は目の前の現実の厳しさにカメラを向けることもできず、ただ立ちすくんでいた。修道士はそ
んな私のことを真っ直ぐに見つめて、初めて撮影許可を出した。
壊死した足、老夫と修道士の後ろ姿、そして老夫の顔を撮ろうとカメラを構えた。
しかし、私を真っ直ぐに見つめ返す老夫の瞳を見た時、急に写真を撮ることが怖くなり、シャッターを押すことができなかった。今思えば、彼の人生や苦悩に真正面から向き合う覚悟がなかったのだろう。それ以降、老夫の写真を撮る機会はなく、私の海外フィールドワークは終わりを告げた。
写真が撮れなかったこと、そしてひとりの人間として向き合うことを恐れてしまったという後悔の念は卒業してからも、ずっと胸に残っている。あの瞳の先には何があったのか、それを知るために今も写真を撮り続けている。
今回の記事を執筆するために学生時代の日記や写真を見返した。
当時撮影した写真は設定ミスから、ブレているものばかりだったが見返すことで得るものがあったように思う。中々気恥ずかしかったが、このような機会をもらえたことに感謝します。