写真家 鈴木邦弘エッセイ「戦いの後に・・・」vol.1

私は1993年から95年にかけてソマリア難民、エチオピア難民、ブータン難民、ルワンダ難民などが暮らす難民キャンプを訪れ、難民たちの撮影をした。撮影を通して彼ら彼女たちから様々な話を聞いた。戦争は、結局その国で暮らす普通の人々が戦禍の最大の被害者になり、取り返しのつかない禍根を残す。そして、人間だけではなくその土地にも大きな傷を残す。


1996年の春、旧ユーゴスラビアの内戦の跡を撮影するために、私は和平合意まもないクロアチアにいた。スペイン人作家ファン・ゴディソーロは「サラエボ・ノート」の中でこの内戦を“記憶殺し”と呼んだ。この内戦では、人間とモスク、教会、図書館などが標的となった。人々の精神的拠りどころと記憶の貯蔵庫が破壊し尽されたのだ。

破壊された教会の中はひんやりとした空気と薄暗い光、首を切られたマリア像が横倒しになり、その上の壁には大きな穴があいていた。破壊されたモスクの前にはまっぷたつに折れたミナレットが横たわっていた。破壊つくされた正教会の跡はまるで広大な瓦礫の捨て場所のようだった。そして、図書館の中はむき出しになった鉄骨が蜘蛛の巣状になって天井を這い、ステンドグラスがあったであろう窓からは外の様子が見えた。クロアチア人、モスレム人、セルビア人、それぞれの人々がそれぞれの場所で築いた記憶の場所は記憶の荒野と化していた。
“記憶殺し”とは“歴史の抹殺”である。

 

私はサラエボ近郊の村ミソーチャに向かっていた。この村はセルビア軍によって全滅したモスレム人の村だ。春の暖かい風が開けた窓から入りこみ心地よい気分が私を満たしていた。

しばらくすると車は小道に入っていった。そして、その左側からコンクリートや石の破片の塊が突然視覚に入ってきた。それらの瓦礫の山は緑の野原の中に点在し、小道の両側は瓦礫の山へと変わっていった。車から降りた私はその風景を前にして、何かの違和感を覚えながら、ただ茫然と立ちすくむだけだった。ここでいったい何が起きたのか、思考は停止し、頭の中が真っ白になった。この風景は私の理解を超えていた。

その時突然、頭上から鳥のさえずりが聞こえてきた。「ピピピピー、ピピピピー・・・・・」と甲高いひばりの鳴き声が心地よく私の耳に響いてきた。見上げるとその黒い点は羽をせわしく上下に動かしながら晴れ渡った青空の中をどんどん私から遠ざかっていった。

そして私は静寂に包まれた。音が無い、何という静かさなのだろう。違和感の謎が解けた。瓦礫の山の中の静寂、これが私に違和感を感じさせていたのだ。激しい戦闘の果てに、暮らす人々が全くいなくなったその村には、静寂だけが残されていた。

しばらくして、うしろに気配を感じ、振り返ると馬にひかれた荷車が見えた。その荷車は私たちの方に向かってゆっくりと進んで来た。

「ドバルダン(こんにちは)」と私は気軽に声をかけた。「ドバルダン」と彼は笑顔で答えた。畑でじゃがいもを作っているという。しばし私たちと話し、彼は荷車に乗って去っていった。私はそれまでの緊張感が解け、何かゆったりとした気分になっていた。

帰路の車中から畑に二人の男女の姿が見えた。車を停めカメラを担いでその人たちに近づいていった。「ドバルダン」と声をかけると「ドバルダン」と返ってきた。二人は親子で、息子が戦場から戻り、毎日畑を耕しているという。撮影を依頼するとこころよく応じてくれた。そこで私はクワを持つ親子の写真を撮った。

静寂とひばり、畑を耕す人々、そして太陽。荒涼とした風景の中で、確実に生の営みは行われていた。

つづく

文・写真/鈴木邦弘

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