菊池東太のXXXX日記 vol.5

わたしはナバホ・インディアンの写真でデビューした。

ところが今になってその写真に納得がいかなくなってきた。インディアンと呼ばれている珍しい人たちという視点で彼らを見、シャッターを押していた。同じ人間という視点ではないのだ。

撮り直しに行こう。最終作として。この考えに至った経緯も含めて、これから写真家を目指す若者たちに語ってみたい。

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足尾の山は、砂防ダムがいやでも目につく。ほかの山からみたら、異常なほどの数だ。崩れやすい土質なのだろう。この山で鉱山労働をしてきた人たちは、土砂災害に相当悩まされたに違いない。

ところで、わたしは今まで何度か写真展をやってきたが、初めての個展というのはかなり遅いほうだ。30代も後半になってからのことだから。それは、Kというメーカー系ギャラリー(1981年)でだった。
だが、これがはじめての写真展への挑戦というわけではない。その1年ぐらい前にNというメーカー系ギャラリーに、ナバホ・インディアンの写真で応募をした。これが初めての写真展への応募だった。
見事に落ちた。ちょっとはヘコんだけど、落ちこんだりすることはまったくなかった。落ちたことで、逆に絶対個展をやるんだ、という思いがより強くなった。

ナバホ保留地を再び訪れ、1ヶ月ぐらい彼らと共に生活し、そして写真を撮った。
以前よりほんの少し賢くなったわたしは、構成を少し考えたうえで写真を選び、再び応募した。これが生涯2度目の写真展への応募だ。
Nは1年前のことがあるので気乗りがせず、応募先はKにした。
通った。結果的にこれが人生初の個展になった。

この後しばらくは、写真展というとKにお世話になり続けた。しかし1986年から写真学校の教員をやるようになり、そこでは学生たちに、写真展をやるなら「Nに応募しろ」と常日頃言っていた。

学生たちの手前、この足尾の写真をNに対して自身2度目の応募をした。しかも学生たちにはその直前に告知をしてしまった。
落ちるということは考えなかった。かといって通るという確信があったわけでもない。なにも考えていなかった。だがたまたま通ってしまった。
もちろんN社との出来レースではないし、写真作家としての信頼関係がN社とあったわけでもない。
だがなぜか通って、結果的に学生の前でメンツを保つことができた。

とにかく初めての8×10で足尾を撮り、なんとか形にすることができた。だがこれが8×10でなければいけなかったか、と問われれば、この程度ならば4×5でも問題はなかったと思う。
ただそのような質問をされなかっただけだ。
大きなカメラも最初に思ったほど自分自身を鼓舞することはできず、なにか半端になってしまったように思う。
しかもこの足尾の写真は今一つ納得がいっていない。審査を通してくれたNには大変申し訳ないが。

その後、35ミリタイプのデジカメに移行していく。カメラを向ける対象も、国内からアメリカに戻る。

このころですでに訪米回数は30回をゆうに超えていた。
行き先はアリゾナ、ニューメキシコなどの南西部に限らず、アラスカからワシントン、メイン、ルイジアナなどそれなりに広範囲にわたっていた。
さまざまな景観、日本では想像もできないような奇景とも数多く出くわした。
そんな驚きとともに、自分が写真をやっていたからこそ知り得た、アメリカのさまざまな自然が創りだした絶景を見てみよう。
次回からは、アメリカ合衆国内のさまざまな地域を訪れた時の話をしようと思う。

vol.6へつづく

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