写真家 鈴木邦弘エッセイ 荒野に立つ[ジブチ、難民キャンプにて]vol.2
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このような撮影を何日か続けていると、自分を撮ってと言ってくる人々が必ず現われる。プレゼントのインスタント写真が目当てだ。特に子供たちは撮ってくれとせがむ。当然その総てには応えられない。
ある日、そんな声を無視して歩いていたら突然石が飛んできた。その石はアシスタントをしていた私の妻に当った。妻は血相を変えて、石を投げた少女に向って大声でどなりながら走り寄っていった。少女も必死の形相で逃げる。周囲にいた人たちもこの二人を追いかける。キャンプの中は大騒ぎになった。妻はその少女に追いつくと彼女の腕をきつく握り締め、大声で怒っている。少女は今にも泣きだしそうだ。
その時、一人のおばさんが彼女たちの間に入り、二人を引き離した。そして少女を叱りつけ、振り返って妻にも何か言い出した。それにつられて、周りの人々も二人の間に入り、それぞれ勝手に言い出し始めた。その時を境に妻の怒りは一気にトーン・ダウンしていった。そこにいたおばさんやおじさんたちは、私たちに向って手を差し出し、ニコニコしながら握手を求めてきた。私たちも笑顔でそれに応じた。
翌日私は35ミリのカメラで、キャンプ内をスナップして回った。赤い布を頭からかぶり、地面にしゃがみ込む老婆たちが目に入った。カメラをかまえ彼女たちの正面に立った。2、3回シャッターをきると、老婆たちは一斉に私に向けて小石を投げつけてきた。私はファインダーをのぞいたまま、かまわず前に進んだ。小石は投げ続けられた。それでも前進した。一人の老婆が画面いっぱいの距離になった時、顔からカメラをはずして彼女たちの前に立ち止まった。彼女たちは急に笑いだした。私も緊張感が一瞬でとけ、一緒に笑った。そして、おじぎをして「ありがとう」と言った。
このキャンプの端には丘があった。その丘の頂上からキャンプの全景を俯瞰で撮影することにした。丘の頂上まで登ると反対側が見えた。広大な砂漠が果てしなく続いていた。しかし、その風景の中には丸い形に積まれた石のかたまりが無数に並べられていた。それはお墓だった。人々が暮らすテントの群れの反対側には、無数の墓が拡がっていた。難民キャンプは生と死がまさしく隣合せになっていた。
私は、ジプチ(ソマリア難民)以外に、旧ザイール(ルワンダ難民)、ネパール(ブータン難民)、旧ユーゴスラビア諸国の難民キャンプを訪れたことがあるが、難民キャンプだからといって、どこも同じなのではない。
たとえば、セルビアのストイェニッツェ難民キャンプでは、体育館にベッドが並べられ、人々は生気のない顔で座っていた。元気なのは子供たちだけだった。クロアチアのガッシンチ難民キャンプでは、それぞれの家族が仮設住宅を与えられ、食べて寝て過ごすだけの人々で溢れていた。4~5歳の子供を連れた元教師の男性は「ユーゴとは本当に国家だったのか。私はこんな国にはもう住みたくない。ドイツかアメリカに移住するつもりだ」と吐き捨てるように言った。
ここで出会った人々は、生命の安全性は確保されているものの、ジブチの難民キャンプの人々のような強烈な生命力を発していなかった。彼らは、いわば“文明圏”の人間達で、その生活の基盤となるインフラや、宗教施設を徹底的に破壊されていた。人間が作りあげた価値観やシステムに忠実に従って生きる文明圏の人々は、それらの悉くが崩壊した時、生きる拠り所を失ったかのように見えた。
ジブチにおいては、生と死が背中合せになっているような荒野の中で、人々は逞しく生きていた。ここに生きる人々は内戦の恐怖の中、住み慣れた土地を離れ、生き続けるために国境を越えて来た。キャンプでの生活が、半年、一年と長引くにつれ、結婚をする人もいれば、子供が生まれる家族もいる。キャンプの中ではごく普通の生の営みがおこなわれていた。私が撮影を通して見ていた人々の姿は、アフリカのどこにでもあるような日常の風景だった。難民キャンプに暮らす人々は、他のアフリカの人々と同じように、自分たちの小さな物語を懐に抱えながら、荒野の中で淡々と暮らしていた。
生きていくうえで、人間が作り出した価値観やシステムを拠り所にする者にとって、荒野は恐ろしく不安な世界だ。しかし、自分を拠り所にして生きる者にすれば、荒野は生きていく上で当たり前の世界なのかもしれない。
文・写真/鈴木邦弘