【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.17 ベトナム戦後の新しいフォトジャーナリズムを求めた写真家 長倉洋海『マスード愛しの大地アフガン』(JICC出版局 1992年) 鳥原学
泥沼のベトナム戦争が終わってまもない1979年、こんどはソ連がアフガニスタンに軍事介入をして世界中を驚かせた。この遠い国の困難に、いち早く目を向けさせたのが長倉洋海の写真報道だった。ひとりの英雄の人間味あふれる表情が、多くの日本人の共感を呼んだのだった。
英雄の素顔が伝えたこと
「9・11」アメリカ同時多発テロから、すでに20年以上が経つ。この歳月は長かったのかそれとも短かったのか。たまにそんなことを考えてしまう。テレビの衛星中継で目にした、崩れ落ちるツインタワーの映像をが、まるで昨日のことのようだ。その光景を目にして、凍り付いた体の感覚が蘇ってくる。
当時のことでもうひとつ思い起こされるのは、テロの前日に、多くの新聞が速報した「マスード暗殺」を知らせた短い記事だ。この一報は、何か不吉な予感を抱かせずにはおかなかった。そしてじっさい、イスラム原理主義武装組織のアルカイーダによる同時多発テロが起こり、その後すぐに2つの事件の関連性が明らかにされたのだった。
マスードの訃報に接し、言い知れぬ不安を持った日本人は、筆者だけではなかったと思う。平和と独立を求め続けて戦うアフガニスタン人の象徴として、その存在はすでに多くの日本人に共有されていた。それは長倉洋海の写真を通じて、広く浸透していたイメージである。
1953年生まれのアフマド・シャー・マスードは、‶パンジシールの獅子″とも20世紀最後の英雄とも称えられた人物。アフガニスタン北東部の緑豊かな土地に生まれ、青年時代は大学で建築を学んでいる。将来はその方面で国づくりに参加することを望んでいた。
だが、その名が知られたのは1979年に始まるソ連軍のアフガニスタン侵攻に抗う戦士としてだった。彼は故郷パンジシールを守る司令官として手腕を発揮したのだ。
その戦歴でも特に知られるのは1982年4月の戦いである。渓谷の制圧に投入された物量と装備で圧倒するソ連軍に対し、マスード率いる5千人ほどのムジャヒディン (イスラム聖戦士)部隊の挙げた勝利が、大きく報じられた。
マスードは軍事的な才能を発揮する一方で、地域の行政や教育にも心を砕き、民衆からカリスマ的な支持を受けていた。そこで欧米のメディアは、民衆の支持を得てキューバ革命を成功させたチェ・ゲバラや、中華人民共和国を建国した毛沢東に彼をなぞらえることも少なくなかった。
長倉が、そんなマスードに強い関心を持ち、取材を始めたのは1983年のこと。そこから100日間にわたった密着取材を行い、翌年にはルポルタージュ『峡谷の獅子司令官 マスードとアフガンの戦士たち』(朝日新聞社)を出版。それから2002年の『獅子よ瞑れ』(河出書房新社)に至るまで、多数の書籍や写真展で作品を発表していくことになる。
なかでも、政府軍に勝利したムジャヒディンが、首都カプールに入城した1992年に出版された、この『マスード 愛しの大地アフガン』は大きな共感を呼んだ。その反響の大きさは、同じ年に新宿コニカプラザで開催された写真展では、3万人近くもの来場者が記録されたていることからもわかる。
本書では、戦闘を指揮する司令官としての厳しい表情は何度も登場するが、血なまぐさい戦場シーンはほぼない。焦点が合わされているのはマスードの、ごく人間らしい生活である。ときに村人と木陰で語りあったり部下たちと笑顔でサッカーに興じたり、あるいは草原に寝ころんで本を開く、その哲学者のような表情も印象に残る。
そのため読後感は、戦争をテーマとした写真集としては異例なほど明るい。しかし、この明るさのなかに、マスードの抱えた苦悩と哀しみの痛切さも見えてくる。つまり、戦場の英雄という絶対的な存在としてではなく、私たちと同じ感情を持った人間であることが伝わってくる。このような表現は、長倉以前のドキュメンタリー写真にはあまりないものだった。だとすると、長倉がなぜこうした視点を獲得できたのだろうか。
遅れてきたカメラマン
戦争は、いつも世界的な報道写真家を誕生させる舞台となってきた。第二次世界大戦ではキャパやユージン・スミス、朝鮮戦争ではデヴィッド・ダンカン、そして1960年代後半のベトナム戦争ではラリー バロウズやエディ・アダムスといったスター戦場カメラマンが誕生している。
とくにベトナムでは、多くの日本人の戦場カメラマンも活躍している。たとえば1964年の『LIFE』誌でこの戦争を最初に報じて「ロバート・キャパの後を追う者」と紹介された岡村昭彦、ピュリッツァー賞を受賞した沢田教一と酒井淑夫。ほかにも一ノ瀬泰造や石川文洋といった才能も登場した。
彼ら若いフォトジャーナリストの写真と文章は、世界中の若い世代からの熱い支持を集めたが、ときに代償は大きかった。さきのバロウズ、沢田、一ノ瀬らは取材中に亡くなっている。命と引き換えに生み出された彼らの表現に、平和で安定した社会では得られない生命の充実感を見た若者もいた。
1952年に北海道で生まれた長倉洋海もそのひとりだった。探検部に所属していた大学時代に写真家を志し、卒業すると時事通信社にカメラマンとして採用されている。だが通信社という組織に入ってみると、ひたすらルーティンワークの取材に追われた。そんな状況に焦りを覚えてフリーを志望するようになった長倉に対し、社の先輩は 「やってくるのがちょっと遅かったなあ」と応じたという。自由な戦場取材が保証されていたベトナム戦争の時代は、すでに過去のものとなっていたのだ。
この指摘が身にしみてわかったのは1980年に会社を辞めてフリーになり、ローデシア(現在のジンバブエ)を起点におよそ1年をかけて世界の紛争地を回ったときだった。その成果は翌年出版された最初の写真集『ゲリラ・七つの戦線』にまとめられたものの、後書きに書かれているのは失望だ。
自分は「本当に感動しないなら、シャッターを押さない自由」を求めてフリーとなり、世界を周ってみたものの「自分が思っていたような戦闘場面を撮れませんでした」と率直に認め、こう自問する。
「ベトナムでは希望すれば米軍のヘリで、最も戦闘の激しい地に行けたけれど、現在ではそんな地域は存在しません。その当事者たちも米国のように親切でもないし、ジャーナリズムを理解してもいません。これからの報道カメラマンとは、ベトナム時代のカメラマンとは違った何かを持って行動していかなければ駄目のような気がします」
この「違った何か」 を掴んだのは1982年のことだった。この年、長倉は1月から約半年間をかけ中米エル・サルバドルの内戦を取材。その後イスラエルの占領下にあったレバノンに渡っている。この2つの取材で目の当たりにしたのは、凄惨な虐殺現場であった。無数の死体は、長倉が求めてきたインパクトのある被写体には違いなかった。
しかし、カメラを向け続けているうちに「心がパサパサと乾燥していく」自分に気がつく。そんな彼の心を動かしたのは無数の死体ではなく、死者を悼む人たちだったという。長倉はそのときの心境を次のように振り返った
「死体に駆け寄って涙する人を見て、初めて涙が出た。生きている人間こそ写すべきだと思うようになった」
また現場では、世界的なネットワークをより充実させていた国際通信社のスタッフや、独自の情報網を持つローカル新聞のカメラマンに先を越されることも多かった。このころそのなかでフリーの自分にできることは、スクープを狙うことではなく、時間をかけてひとつの現場や人物を見続けることだという確信が生まれた。
マスードの存在を知ったのもこのころである。アフガニスタンでムジャヒディンをまとめ上げ超大国ソ連の部隊をうち破った英雄が、自分と同じ29歳と知って興味を持った。それまで2度アフガニスタンに入った経験から、年長者を重んじる、独立の気風の強い土地に若い英雄が誕生したことに驚いたのだった。
その驚きはすぐ、マスードの眼を通じて「アフガニスタンの戦争を描き、報告してみたい」という報道写真家の願望へと変わった。そして1983年4月、押しかけるようにマスードのもとを訪れ、そこから17年間におよぶ長期取材が始まった。
遠い国を繋ぐ
長倉の写真集を時系列でたどっていくと、マスードに対する視点の変化がよく見えてくる。初期には人間味のある有能でアクティブな司令官として見つめ、その周辺の状況もよく描写している。だが、あるときからしだいに表情のクローズアップが多くなり、写真の雰囲気がとても静かになっていく。マスード個人の内面性を表現することに重心を移していることがわかるのだ。
それは撮るものと撮られるものとの、相互的な理解の深まりを示している。取材を重ねるなかで、長倉にとってのマスードは、立場は違えども彼自身を照らし出してくれる、尊敬すべき同時代人となっていったのではないかと思える。
だが長倉にはそうであっても、マスードに対する社会的な評価は必ずしも肯定的なものばかりではなかった。ソ連が撤退した後も混迷し続けるアフガニスタン情勢を反映して、その見方は紆余曲折している。1992年にようやく樹立された新政権でマスードは国防相に就任、国内外からの期待を集めた。しかし、内部の権力闘争によって政権が分裂して内戦状態に落ちいると、マスードもまた混乱を引き起こした軍閥のひとりと見なされた。
そして、この混乱の中から強硬なイスラム主義を掲げる「タリバン」が台頭する。タリバンとはイスラム教を学ぶ「学生」を意味し、ソ連との戦争で隣国パキスタンに避難したアフガニスタン人難民の子弟で構成された集団である。パキスタンの軍事的支援を受けたタリバンは、アフガニスタンほぼ全土を勢力圏におき、1996年には暫定政権を樹立する。
マスードはタリバンの部隊が首都カブールに迫ると、市民を戦闘に巻き込むことを嫌って撤退。以降はパンジシール渓谷に立てこもり孤独な戦いを続けた。やがてマスードを軸として、反タリバン連合が結成されたものの、こうした動きも民族対立の図式で語られたり、周辺国の代理戦争とも見られたりした。
もちろん長倉はそれを信じなかった。マスードから 「アフガニスタンのことは、アフガニスタン人で決めたい」と、よく聞かされていたからだ。
タリバン政権に対しても国際世論は厳しく、女性の教育や就労を禁止し、さらに残酷な体罰刑を実施していることなどからしだいに拒否感が強まっていった。さらに反米を掲げる国際テロ組織アルカイーダとの結びつきが強まるにつれ、 マスードへの期待が再び高まっていく。マスードの暗殺が企てられたのは、まさにそんな時期であったという。
こうしたマスードに対する評価の変遷について、長倉は積極的に意見を言わない。ただ、その苦悩を見続けたものとしてこう語った。
「マスードの人生が正当に評価されるのは、ずっと後のことだと思う。それよりも間近で見続けた個性や人柄を信じている。何より写真の中のマスードを見てほしい。ぼくの写真もある一面に過ぎないかもしれないが、撮り続ければ、より多面的にその人の深さを見ることができると信じているからだ」
日本とアフガニスタンは、地理的にも心理的にもはるかに遠い。しかし、優れた写真はその遠さを超えて人の心を結びつけることができる。17年にわたる取材を通して、長倉はその可能性を示したといえよう。そしてマスードの死後も、その写真は、いまだ混乱のなかにあるアフガニスタンの人々を理解する大きな手がかりであり続けている。
長倉洋海(ながくら・ひろみ)
1952年北海道生まれ。同志社大学卒業後、時事通信社に入社。
1980年フリーに。アフガニスタン、エル・サルバドル、コソボ、シルクロードなど各地を取材。写真集・著書多数。マスードを撮影した写真集に『マスード愛しの大地アフガン』のほか、『獅子の大地』、『アフガニスタン マスードが命を懸けた国』(白水社)などがある。ほか代表的な写真集に『地を這うように―長倉洋海全写真1980-95』(新潮社)、『へスースとフランシスコ エル・サルバドル内戦を生きぬいて』(福音館書店)、『長倉洋海写真集 Hiromi Nagakura』(未来社)などこれまでに日本写真協会年度賞、講談社出版文化賞、土門拳賞など受賞多数。
参考文献
長倉洋海『峡谷の獅子』(朝日新聞社1984年)
長倉洋海『カメラを武器に激動の世界を駆ける』(講談社文庫1987年)
長倉洋海『フォト・ジャーナリストの眼』 (岩波新書1992年)
長倉洋海『獅子よ瞑れ アフガン1980―2002』 (河出書房新社2002年)
『朝日ジャーナル』(朝日新聞社) 198811月11日号 長倉洋海「「アフガンの獅子」 マスードと戦乱の地を行く」
『月刊PLAYBOY・日本版』(集英社) 2002年12月号「長倉洋海が見た その後のアフガン」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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