「ニャーマ」スピンオフ


スーパーマーケットの店頭。コロナ感染防止の消毒を行う店員たち。リロンゲ市(マラウィ)

今年(2023年)の春、コロナ禍で中断していたアフリカ取材を再開し、5週間ほどかけてケニアとタンザニアを取材した。

2019年にビクトリア湖の漁師たちを撮影して以来「4年ぶりのアフリカ取材」であるが、実は2020年にも私は東アフリカのマラウィに入国していた。しかしそれは「幻のアフリカ取材」になってしまった。

今回は「ニャーマ」番外編として5回にわたり、コロナ渦のなかで経験した取材のエピソードを写真と記事でお伝えします。


コロナ禍のアフリカ取材エピソード【Ⅰ】

2020年-マラウィの悪夢


2020年の日本はコロナの感染者が増え始め、政府も様々な対策と行動規制を検討し始めていたが、まだ出国は可能であった。

閑散とした成田空港を全日空とエチオピア航空のコードシェア便でマラウィに向けて出発。座席の約8割は空席だったが、乗客たちはほぼ全員がマスクを着けていた。経由地のバンコックで大勢の客が乗り込み空席がなくなってしまったが、マスクを着けている乗客は半分ほどだ。

嫌な予感は第2の経由地アジスアベバの空港(エチオピア)に到着したときから始まった。飛行機が停止して降りる乗客が立ち上がり始めたとき、席から動かないようにとのアナウンスがあり、しばらくして空港スタッフと白い防護服を着た人々が4~5人機内に乗りこんできた。エチオピア入国予定者の体温を検査し、コロナ感染地域・国に滞在したかどうか一人ひとり聞き取りを始めた。

その間、飛行機のエンジンは停止し、機内のエアコンのスイッチもオフ。機内の空気は淀み室温が上昇し、クラスター発生の危険度が増す三密(密閉・密集・密接)の状態で1時間ほど機内に閉じ込められた。

機内に乗り込んできた防護服の男と彼らを見つめる母と子。アジスアベバの空港(エチオピア)

その後もフライトスケジュールにないルブンバシ(コンゴ民主共和国)を経由して、やっとマラウィのリロンゲ国際空港に到着した。

マラウィ訪問の目的は前に触れたように、私的用事を済ませることと、マラウィ湖の漁師たちの撮影だ。2019年タンザニアのビクトリア湖の漁師村を取材していたので、今回はマラウィ湖の漁師村の取材を計画していた。帰国予定日は4月21日だ。

空港ターミナルに入り、手の消毒と体温を計測し入国審査へ。入国審査官に「日本人の旅行者」と告げても彼は険しい表情のまま無反応。アフリカ諸国の入国審査では、日本人というと笑顔で迎えてくれるのだが、現状では私は「コロナ感染国」から来た迷惑な外国人の一人にすぎない。

無事に入国審査を済ませ、手荷物が出てくるのを待っていると、防護服を着た男が私に近づいてきた。いやな予感はこの時から悪夢に変わった。彼に改めてパスポートの提示を求められ、名前や国籍、マラウィでの滞在先を聞かれた。尋問が終わると防護服の男はこう告げた。

「コロナ感染予防のため、外国からの訪問者は14日間外出が禁止され、保健省の観察下に置かれる。その間発熱や咳、のどの痛みなどコロナの症状が出なければ外出が許可される。これはマラウィ政府の決定である」

抗議して事態が改善される状況ではない。私は腹をくくり、手配したタクシーに乗り途中のスーパーマーケットでパンやバナナ、ソーセージや卵などの食糧を数日分買いこんだ。マーケットの入り口には消毒液のタンクが設置され、スタッフ3人が消毒スプレーを手に、来客に対応していた。コロナに対する警戒感は日本と変わらない。

スーパーマーケットの店頭で、来客の手を消毒する店員。リロンゲ市(マラウィ)

後の取材撮影を考慮して、コロナに絶対に罹らないように注意を払いながら、辛抱強く「解放の日」が来るのを待つことにした。

宿に向かう途中でマスク姿の私を見た現地の人が「コロナ」と叫んだ。彼はマスクをしていなかった。マラリアやエイズなど様々な感染症が多いアフリカでも、新型コロナウイルスは得体のしれない新参者だ。しかし感染対策を行う予算も、医療施設も充分ではなく、現地の人々がマスクを手に入れるのは不可能に近いのが現実だ。

滞在先から保健省に連絡を入れると、「明日の午前中に検診に行くので待機しているように」との返事だった。しかし翌日は保健省から誰も訪ねてこなかった。その後も何の連絡もない。

自前の朝食。軟禁状態では飲食の時間が最大の楽しみだった。リロンゲ市内の滞在先(マラウィ)

日が経つにつれ、庭に咲く花を見て過ごす時間が増えた。リロンゲ市内の滞在先(マラウィ)

私はこの間に私的用事を済ませ、マラウィ湖の漁師たちの情報を集め、取材開始に備えることにした。食糧の買い出しを除いて、外出禁止のルールには従った。小さなトラブルが大きな問題に発展することは避けなければならない。約一か月の滞在予定だったので順調に外出禁止が解ければ2週間は取材できると、ポジティブに考えていたからだ。しかしその考えは厳しい現実の前に見事に打ち砕かれた。外出禁止の14日間に世界のコロナ感染者数は増加の一途を辿り、感染状況は深刻化の一途を辿っていた。

3月31日、帰国の日の朝。週3回掃除と洗濯に来てくれたジョイスさんとバーグラバー(強盗を防ぐ鉄柵)の所で。閉じ込められているわけではない。リロンゲ市内の滞在先(マラウィ)

JICA(国際協力機構)の知人からの情報やインターネットからも、世界の感染状況の悪化が読み取れた。状況の変化に合わせて4月21日の帰国予定を4月7日に変更し、さらに4月3日に早めたが、私の悪あがきも無駄だった。3月28日の金曜日、マラウィ政府は4月1日にリロンゲ国際空港を閉鎖すると発表した。

「金曜日に発表するなよ。土日は旅行会社が休みだろう」と悪態をついたが、対処するしかない。日本国内にいる妻の協力を得て、3月31日出国のチケットをギリギリで手配できた。

帰国当日の午前3時、フライトが1時間早くなったとメールが届いた。予約していたタクシードライバ―に連絡し、1時間早く迎えに来てもらった。

空港に向かうタクシーの中で私は保健省からの電話を受けた。ルールに従えば、今日(3月31日)が外出禁止期間の最終日だ。

「今から検診に行くから住所を教えろ」という。「以前教えたよ」という言葉を飲み込み、もう一度住所を告げて電話を切った。30分ほどして再びスマホの着信音が鳴った。保健省のスタッフが私の元の滞在先に着いたようだ。電話の主は怒気を含んだ声でがなり立てている。

「お前はいま何処にいる。家には誰もいないじゃないか」

仕方ないとはいえ、ルールを破った微かな罪悪感を感じながら答えた。

「いまリロンゲ国際空港にいます。これから日本に向かうので、検診は日本で受けます」

電話の向こうから、意味不明なうなり声が聞こえたがすぐに切れた。

こうして私の2020年のアフリカ取材は幻に終わった。

帰国便の窓から見えた雲海。地上のコロナ禍の混乱をよそに、雲は地球の摂理に従い、生まれては消えて行く。飛行機の窓から(エチオピア上空)

 

撮影・文/飯塚明夫
©IIZUKA Akio


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