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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.22 “幻視者”が描き出す宇宙のドキュメント 川田喜久治 『ラスト・コスモロジー』(491、1995年) 鳥原学

写真は対象をあるがままに写すものではない。撮影者は自身の身体感覚に従い、想像力やテクノロジーを使ってイメージを築くのである。
川田喜久治が生み出す独特で濃密なイメージは、つねに時代の空気と呼応するように破綻と再生とを繰り返してきた。1995年の『ラスト・コスモロジ―』は、昭和という時代の終わりを日本で見られる20世紀最後の金環日食に託し、象徴的に表している。

 

「幻視者(ヴィジョナリー)」 川田喜久治

あるがままの現実をとらえた写真などというものは存在しない。写真は見るという人間の身体機能を、撮影機材や画像ソフトなどのツールの機見合わせによって拡張させることで生み出された“超身体的”なイメージである。そこで問題は、撮影者の現実認識と想像力とが、どのように映像技術と結びついているかになる。

もし強靭な想像力と技術的な関心を持つ人であれば、驚愕するようなイメージを生むだろう。その人は私たちが見ているはずの現実を大胆に歪め、そこに異次元の世界への入り口があることを示すはずだ。そのように既成概念を撹乱する者は、「幻視者(Visionary、ヴィジョナリー)」と呼ぶに値するのである。

日本の写真家において、そのような幻視者は誰かと問われれば、私はまず川田喜久治の名前を挙げたい。その幻視への志向について、彼自身がこう語っている。

「何かを超えたような、理解できないようなもの、現実のほうがすごいわけですが、さらにそれを超えていくような映像を写すことができたとき、僕は非常にリアルなイメージを感じますね。僕にとってそれは一瞬の幻覚、幻影であり、それがリアルなものであろうと」

1998年に出版された『世界劇場』(私家版)を最初に目にしたときなどは、イメージの濃密さに私は目眩さえ感じた。本作は1969年から1990年代までの長期間にわたって、並行して制作された三部作によって構成されている。スペインの画家ゴヤの作品からタイトルをとったのであろう皮肉な笑いに満ちたスナップ集「ロス・カプリチョス」、モノクロの天体写真を軸に大きな広がりを持った「ラスト・コスモロジー」、そして自動車の運転席から都市を幻惑的に切り取った 「カー・マニアック」である。

それぞれテーマも手法も違うこの3作品だが、いずれも銀塩写真の暗室ワークからデジタル画像処理に至るまでの、多彩な写真的技法あるいは映像的なレトリックが用いられている。その見事な操作によってさまざまに対立する概念、たとえば聖と俗、破滅と再生、瞬間と永遠、あるいは理想や狂気までが圧縮されている。この高い密度をもったイメージが各シリーズの中で乱反射しながら、ついに重層的な構造を持ったグロテスクな世界の姿が現れる。『世界劇場』とは、いわば壮大なダークファンタジーなのである。

重要な点は、この幻影の追求に、ひとつの時代なり社会に対する批評的な姿勢が貫かれていることだ。川田の鋭敏な眼差しは、目の前で起きている現象から潜在するカタストロフィ(破滅)を見いだし、そのヴィジョンを具現化させているのである。

『世界劇場』の場合、戦後の繁栄がもたらした消費社会の行き詰まりが「ロス・カプリチョス」を、自らが生きた激動の昭和時代の終焉が「ラスト・コスモロジー」を、そしてダイアナ元英国皇太子妃の死亡事故が「カー・マニアック」の発想の起点となっている。卓越した表現技術と時代性との接点によって飛躍する川田の想像力。それは写真家としての出発点から貫かれているものだと言えよう。

 

『地図』に至るまで

川田喜久治は1933年生に茨城県土浦市で生まれ、その少年時代は太平洋戦争の開戦とともに始まった。ただ特段に軍国少年というわけでもなかったが、戦争初期の日本軍の快進撃につれて塗り変わっていく世界地図を見るのが好きだったという。これが1962年に『日本カメラ』に「ザ・マップ〈地図〉」を発表した際に語った回想だが、さらに「地図を眺めるのは僕にとって想像力を自由に回転させるに格好のものだった」としているのは、後の仕事を思わせて印象的である。

敗戦を迎えたときは12歳で、川田はあの大戦末期の記憶を、まるで懐かしい遊びのように振り返っている。たとえば米軍の艦載機の機銃掃射を遊びながら避け、爆撃機と迎撃機との戦闘を空中サーカスでも見るような気分で眺めていたのだと。ただ敗戦後に米軍が上陸すれば、戦車で大人は轢き潰されるか銃殺されるかもしれないという噂を耳にし、初めてリアルでグロテスクな死を妄想したという。

写真に興味を持ったのは、東京の立教高校に編入した高校2年のころである。卒業時に撮った作品で老舗の写真雑誌『カメラ』(アルス)誌の月例コンテストの特選に入り、熱が上がった。1950年代前半の『カメラ』の月例は、土門拳の提唱したリアリズム写真の牙城だった。土門は、敗戦後の日本の現実を弱者の立場から直視し、社会にヒューマニズムを啓蒙する報道写真こそが自分を含めた写真家の役割であり、戦時期に挫折したその主体性を再生させる必要を説いた。また写真家は「近代芸術の戦士」でなければならないともした。こう力説する土門に若い写真青年たちは投稿で応え、誌面は大いに盛り上がった。その有望な一人だった川田は基地問題などをテーマに投稿を重ね、進んだ立教大学の写真部では部員でテーマを共有して作品を作り上げる「共同制作」にも取り組んでいる。

やがて大学を出た川田は、1956年に創刊される『週刊新潮』(新潮社)のスタッフカメラマンになるのだが、土門との縁は続いた。2年後の1958年春に出版された写真集、リアリズム写真の頂点となった『ヒロシマ』(研光社)に結実する広島取材に同行しているのだ。このとき土門は、アメリカ政府が被爆者にたいする放射線障害の影響を調べるために設けたABCC(原爆傷害調査委員会 現在は放射線影響研究所)の状況を撮影し、苦しみが続く被爆者の姿にショックを受けた。以降、土門は広島に通い『ヒロシマ』を完成させた。

川田にとってその土門は、写真による主体性の確立という目標を示した人だった。ただし、近くで接するうちに、自身を暗示にかけるほどの過剰な作家性や人間性について、考えさせられる点も少なくなかった。またこのころ、週刊誌の仕事の影響で、テーマや解説の言葉に従属するような撮影手法へと染まることへの倦怠も感じていた。社会的な主体性ではなく、写真家個人の主観、あるいは内面にあるイメージについての表現を求めるようになっていったともいえる。

転機は、写真評論家の福島辰夫が企画し、1957年から3年にわたって開催されたグループ展「10人の眼」に参加したことだった。これには石元泰博、川原舜、佐藤明、丹野章、東松照明、常盤とよ子、中村正也、奈良原一高、細江英公も入っていた。ここで主観的な表現を模索する同世代の仲間と知り合い、自らも新しい方法を試みていく。川田には社会的リアリズムでも週刊誌的ルポでもなく、 「非常に幻視的なドキュメントも可能である」という確信があったという。

そして1959年にはフリーとなり「10人の眼」を通じて親しくなった佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高と共同で共同事務所、フォトエージェンシー「VIVO」を設立する。表現の上でも経済的な面でも自立を目論んだのである。それと期を同じくして、後に『地図』に結実する写真の撮影に取り組み始めたのである。

 

時代精神とともに

1965年に出版された『地図』(私家版)は文字通りの衝撃作だった。杉浦康平のデザインによる観音開きのページは、それを開くたび、黒々としたカタストロフィーのイメージが現れてくる。写されているのは大戦中の要塞、原爆ドームの染み、 踏みつけられた日の丸、戦死者の遺影、あるいはコーラの瓶、ラッキーストライクの空き箱などで、戦争の惨禍と敗戦後の文化変容を物語る、いわば負の記憶の象徴である。

この暗黒のヴィジョンの起点にあるのは、土門とともに訪れた広島で撮影した原爆ドームの染みだという。この「大量殺戮の写真的イリュージョンは『しみ』によってできました」と言うほどのインスピレーションを川田に与えたのだった。

幻視者としての評価を決定的なものにした『地図』出版の翌年、川田はヨーロッパを旅行し、これを機にバロック文化に傾倒していくことになる。16~18世紀にかけてヨーロッパ諸国を席巻したバロックの表現様式は、図像学的な象徴や比喩を多用した、グロテスクなほど饒舌な装飾性にある。それに接することで、イメージと言葉の意味との関係への理解が深められていった。その成果は写真集『聖なる世界』(1971年)や『ルードヴィヒⅡ世の城』(1979年)、あるいは1972年から発表し始めた『世界劇場』3部作のうち 「ロス・カプリチョス」などに見られている。

このタイトルは、18世紀に活躍したスペインの宮廷画家ゴヤの版画集「ロス・カプリチョス (気まぐれ)」から借用されている。ゴヤが没落しつつある世界帝国スペインの混乱した社会を痛烈なパロディで風刺したように、川田は高度経済成長期が終わり爛熟していく日本社会を解体して、そこに生きる自身さえ愚か者だと黒い笑いで皮肉っているようでもある。

やがて1995年に刊行された『ラスト・コスモロジー』で、写真家の視線はいきなり宇宙へと上昇する。当初、本作は「空」「雲」「aero-fantasia」などと題された、いわば少年の眼差しを持った天体写真の連作だった。だが、撮影を重ねるうちに、そこに川田の戦後の体験やイマジネーションが画面に浸透していき、日本の戦後史を語るものに成長していったようである。

このことを指摘したのは、写真家の内藤正敏である。内藤は写真集の裏表紙、1989年1月7日、昭和天皇が崩御した日に撮られた太陽の写真を見てこう述べている。「重厚な深さと緊張感を感じるのは、天皇の死によって呼び覚まされた彼の青春時代の「昭和」と「戦争」が、「ラスト・コスモロジー」の宇宙論的終末感と重なっているためではなかろうか」と。山岳信仰に傾倒した内藤もまた独自の宇宙観(コスモロジー)を表現する写真家であり、また戦後という時代に青春期を送ったひとりなのである。

そして、この天皇崩御の年から撮り始めた「カー・マニアック」で川田は再び地上に降り、車の中から都市を見つめている。川田は運転席から望遠レンズを構え、フロントガラス越しにシャッターを切っている。圧縮され狭まった視界で撮影されたカラーポジは、デジタルで色彩や質感を加工され、さらにダブルイメージなどに仕立てられた。それは見るものの気持ちをざわつかせる、危険な疾走感を持った同時代的な都市論となった。じっさいこの作品の発想のひとつには1997年のダイアナ元英国妃の交通事故死がある。

また本作からデジタル技術を使い始めた川田には、そこに以下のような発見があったと語っている。

「観察したものをよりイメージ化することはフォトショップからもおこないます。写真で形而上の映像が可能なこともわかりました。コンセプトを強く打ち出すとどうなるかもわかりました。また、ストレートに直叙、複製だけのコンセプトもなにか壊すような強い働きは感じられません。そこから抽象されるさらなるフェノメナを見つけたいと思います」
※「フェノメナ」=現象

この「カー・マニアック」以降、川田はすべての作品をテジタルで撮るようなった。制作の速度や画像をコントロールする自由度が高く、想像力をいっそう飛躍させるからだ。

「そうやって写真をもてあそび、再構成することで、自分自身をも再生させている」とも川田は言っている。稀代の幻視者は、時代の変化、技術の変化とともに果てしない幻影を追いかけ続けているのである。

 

川田喜久治(かわだ・きくじ)

1933年茨城県生まれ。立教大学を卒業後、新潮社に入社。1959 年にフリーになり、奈良原一高、東松照明、細江英公らとVIVOを結成。主な著書に『地図』『The Last Cosmology』『世界劇場』などがある。日本写真協会賞年度賞、同作家賞、芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。作品は、東京国立近代美術館や東京都写真美術館などの国内の美術館はもとより、ニューヨーク近代美術館、パリ国立近代美術館(ポンピドウー・センター)などにも収蔵されている。

参考文献

『フォトアート』(研光社)1958年4月号 「土門拳・その人と生活(本誌特写・川田喜久治)」
『カメラ時代』(写真同人社)1966年10月号「特集:川田喜久治自選作品集」
プロジェクト・オムニ編『25人の20代の写真 ヤング・ポートフォリオ 開館記念企画展』図録(清里フォトアートミュージアム 1995年)
川田喜久治「写真集「地図」制作のころ」
『芸術新潮』(新潮社) 1996年5月号 福島辰夫「写真家・川田喜久治が着陸した宇宙」
2003年6月号 「川田喜久治 時代精神(ツアイトガイスト)と写真という不思議」
2012年 「川田喜久治インタビュー」Fraction Magazine Japan(https://fractionmagazinejapan.asia/archive/cn65/pg602.html)最終確認日 2023年12月30日

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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