【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.29 見知らぬ国に見出した「郷愁」 齋藤亮一 『ノスタルジア』(JDSグラフィック、1996年) 鳥原学
1990年代初頭。冷戦が終わり、世界地図が書き換えられてたこの時代に齋藤亮一は3年をかけてロシアを歩いた。タルコフスキーの映画に導かれ、「鉄のカーテン」で閉ざされていた国を訪ねたのだ。彼が写した情景には、 人々の温もりと失ったものへの懐かしさがあった。
原風景への旅
幼いころに見た場所を大人になってから訪ねると、たいていは残念な結果が待っている。風景そのものが失われているか、記憶とはどこか違っている。だから原風景などは室生犀星の詩のように「遠くにありて思ふもの」でよいのだが、それを承知でなお求めたくなるのが人情というものである。
齋藤亮一の独特なコントラストを持ったモノクロの写真集は、そんな風景探しの旅への誘いである。スペイン、キューバ、アイルランド、東欧、中央アジア、中国、そして日本各地と、 齋藤は広く旅をしながら多くの写真集を編んできた。その好奇心は、たいてい地理的あるいは政治的に取り残され、ゆえに独自の文化を保ってきた地域に向けられている。しかもそれぞれ風土は全く違うのに、同じような懐かしい生活の情感を彼はつかまえるのだ。
なかでも5冊目の写真集、1996年に出版された『ノスタルジア』は、タイトル通り、郷愁に満ちている。まず表紙、古いロシア正教会のある田園風景に惹きつけられる。扉を開けると「僕の私的原風景はロシアそのもの」という序言が置かれ、極東から内陸部へと向かう長い旅が始まる。
その旅程は実に緩やかだ。写真家は農業を軸にした小さな地方都市やその郊外で足を止める。そして旅行者らしく、踏み込みすぎず、人々との距離を保ちつつその日常を見る。土地に根ざした素朴な暮らしの確かさと、人々の穏やかな表情が深い印象をもたらす。ページを進めていくと、半裸で草原に遊んでいた子どもたちが、いつの間にか雪上でソリを引いている。視線の移動とともに、季節も短い夏を駆け抜けて、秋から冬へと移ろうのだ。
雪や水蒸気、あるいは川や水たまりなど、どこかに「水」が写し込まれたイメージが多い。サンクトペテルブルクやモスクワ、ウクライナのキーウなどの大都市もまた冷たい霧に包まれている。その湿度もまた懐かしさを誘う一因である。ぼやけた視界のなかで時間が止まり、積み重ねられた重い歴史へと想像を駆り立てるのである。
本書の撮影期間は1992年の夏からの約3年。撮影の前年にはソビエト連邦が崩壊し、それまで西側には容易に公開されずにいた地域に、多くの報道関係者が向かっていた時期だった。そこで彼らが目撃したのは、アメリカと世界を分割していた軍事超大国とは正反対の素顔。つまり市民生活の貧しさと、停滞しきった社会システムだった。それはイデオロギーを優先させた体制が生んだ悲喜劇として報道されていた。
一方の齋藤は、同じものの違う側面を見ていた。それは停滞ゆえに保たれていた市民の共同体意識や、 長く続いてきた暮らしのかたちである。 それは彼の 「私的原風景」 に極めて近く、 「ここにかつて住んでいたような強いデ・ジャヴ」を覚えさせるものだったという。
そんな個人的な思慕の結晶である『ノスタルジア』は、1990年代半ばの日本人の心に響いた。戦後の経済発展の帰結としてのバブル経済の崩壊という寂しい結末は、私たちがすでに失って久しい、古い生活への憧れを蘇らせた。つまり挫折のメンタリティーに、本書は強く訴求したのである。
郷愁と焦燥
旅の写真家である齋藤が、初めて海外に出かけたのは1986年1月だった。行き先はスペインで、まずバルセロナにアパートを借り、中古のフィアットを買った。これでスペイン各地から、ポルトガル、イギリス、フランス、イタリアなどを1年かけて巡り、翌年に41枚のプレートからなるポートフォリオ作品集『Hasta la Vista』(私家版)にまとめている。
旅に出た理由について、齋藤は 「数年前から私の心の中に棲みついて離れない風景のせい」だと写真雑誌に書いている。この思いは、ソ連の名匠アンドレイ・タルコフスキーが1983年に監督した映画『ノスタルジア』のラストを見たとき頂点に達したのだとも。
それはこのうえなく幻想的なシーンである。映画の舞台であるイタリアの廃墟となった教会跡に、故郷を捨てた主人公の幼いころに暮らした家が建っている。その家の前の水たまりに佇む主人公の身体に雪が降り注いでいくのである。この謎めいた美しいシーンには、映画の完成後に亡命したタルコフスキーの、望郷の念が込められていると言われている。その映像表現が齋藤の『ノスタルジア』に影響を与えたことは、よく理解できる。
齋藤もまた、失われた風景に惹かれ続けてきた表現者といえる。本人は 「もとからの性格」 だと言うが、2013年に出版された『SLがいたふるさと―北海道1973~1980―』(冬青社)を開くと、確かにそうだと思えた。ここには写真を始めて間もない中学生のころに撮った写真も掲載されている。郷里の北海道で、姿を消していく蒸気機関車を追った眼差しには、後の作品とつながる雰囲気が確かに見て取れる。
これらの写真が撮られたのは、生まれ育った札幌の街が変貌した時期でもあった。1972年の冬季オリンピック開催にともないインフラが整備され、人口も増えて郊外の開発も進み、自然と触れ合う機会は遠ざかった。その寂しさも本書には漂っている。
その一方で、当時の齋藤には故郷からの脱出願望もまた強く育っていた。いや、焦燥感と表現したほうが正確だろう。発展してきたとはいえ、地方都市に住み続けるなら、将来は見え過ぎるほど見えてしまう。「このまま終わりたくない」という焦りは、高校の修学旅行で上京したとき決定的となった。東京では見るものすべてに圧倒されてしまったのだ。そして「ここに住みたい」と強く思ったとき、手段は写真しかなかった。齋藤は日本大学芸術学部写真学科に進むことを決めた。
やがて始まった東京での生活は楽しくも忙しく、ホームシックを感じる暇もなかったようだ。東京出身の同級生はセンスも良く文化的な知識も豊富だったから、彼らに追いっこうと意欲的だった。大学新聞に入って活動し、空き時間にはよく映画を観て、小説もむさぼるように読んだ。しかし、学生生活で何より大きかったのは、三木淳という良き指導者と巡り会えたことだった。
戦後間もない1949年に日本人として初めて『ライフ』 のスタッフ写真家となり、国際的な活躍を果たした三木は、ニコンのレンズとカメラを世界に紹介した立役者でもあった。そんな三木だったが、生死にかかわる大病を患った後、1977年から母校である日本大学の教授に就任していた。教師としての彼は、およそ褒めて伸ばすタイプだったらしい。また授業では著名な写真家たちとの交流を語り、ときに朝鮮戦争取材などで活躍した伝説的なフォトジャーナリストのデヴィッド・ダグラス・ダンカンを教室に招いたこともあった。感度の高い当時の学生であれば、三木のようにジャーナリズムで活躍する写真家を目標にするのは当然といえた。
齋藤の場合、夢への第一歩として描いていた新聞社への就職は叶わなかったが、三木の口利きで朝日新聞出版局(現・朝日新聞出版)で暗室助手のアルバイトを得ている。そんな位置からでも、やがて齋藤の力は認められると三木は考えていたようである。それほど力を認めれていたのだった。
壁をこえて
暗室には齋藤の原点がある。中学で写真を始めた動機も暗室作業への興味からだった。また日大には優れたプリントを作る先輩がいて、その影響も受けていた。さらに当時は戦前の絵画的な芸術写真の再評価があり、現代作家のオリジナルプリントへの注目度も高まり、表現の潮流が変わり始めていた。齋藤の中にも、ジャーナリストとしてグラフ雑誌で活躍するという目標と、ファインプリントによる展示表現への夢という、2つの異なる願望が共存していた。
しかし、グラフ誌での活躍は果たせなかった。『アサヒグラフ』1983年2月11日号の巻頭特集、取り壊しの決まった北海道大学の学生寮「恵迪寮」(けいてきりよう) のフォト・ルポが、齋藤の最初で最後の大きな仕事となった。恵迪寮は学生時代から帰省の度に撮り貯めたテーマだったこともあり、なかなか迫力のある誌面になった。だが、彼自身はすでに組織での仕事には向いていないと感じるようになっており、この後すぐフリーの道を選んだ。
初の写真集『想いは恵迪よ永遠に』(スタジオ・マイ出版局)をまとめたのはその翌年で、出版には独立への決意表明の意味もあったはずだ。また同じ年、もう一度ライティングなどの技術を身につけ同時に旅の資金も貯めようと、スタジオに入り直した。そこで1年間働いた後、スペインに渡ったのである。
その旅の成果『Hasta la Vista』は当時としても珍しい、計41枚のプレートで構成されたポートフオリオ形式の作品集である。収められた写真は暗室でトーンを作り込み、さらに印刷で大きく色を調整するなどの技巧が凝らされている。この極めて心象的なイメージ集は書店などでは好評だったが、師の三木からは酷評を受けたという。
またこの次の旅に齋藤は南米を選んだが、写真はほぼ撮れずに終わっている。その理由について「強烈なイメージばかりが先行して、空回りに終わった」からだと語っている。三木が酷評したのは、写真家が独自の暗室美学に頼るとこうなるだろうことを、『Hasta la Vista』から読み取っていたからだろう。
そして1988年、齋藤は再びヨーロッパに渡り、今度はパリを起点に中欧などを回った。このとき衝撃を受けたのは東ベルリンだったという。自由主義陣営の西ベルリンと壁1枚隔てた街には緊張感があり、物資は乏しく街を走る自動車も少ない。人の表情も暗く険しい。だが、この社会主義という異質な世界に齋藤は強く惹かれた。だから翌年、東西の壁が崩壊して冷戦が終わったとのニュースを聞いたとき、ついに「自分の時代が来た」と思えた。
その直感は正しかったようだ。次の夏に東欧の旧共産圏を巡ると、そこには忘れられた人々の素朴な生活があったのである。このときの写真は三木にも認められた。1991年にはニッコールクラブから『新しい地図』として刊行されて高く評価された。同書での写真はもちろん、あとがきにある「身につけていたテクニックをいちど捨てたとき、被写体が語り掛けてくる声が聞こえ始める気がする」との一文がとても印象的だ。
『ノスタルジア』はこの延長線上にあって、作品の密度と完成度はより高められている。齋藤が持つ郷愁の感覚が強く発揮されているのである。本書は、発展を追うばかりで、その感覚自体を忘れそうになっている私たちに、原風景というものがあったことを思い出させる美しい夢なのである。
齋藤 亮一(さいとう・りょういち)
1959年北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科在学中より、三木淳に師事。新聞社、スタジオ助手を経て、1985年にフリーに。主な著書に『Hasta la Vista』『新しい地図』『BALKAN』『Lost China』『フンザへ』『佳き日―A Good Day-』『SLがいたふるさと―北海道1973~1980―』などがある。日本写真協会新人賞、日本写真協会年度賞、東川賞国内作家賞など受賞。
参考文献
『アサヒグラフ』(朝日新聞社) 1983年2月11日「特集:〈寮歌時代〉の終わり 北大恵迪寮よいざさらば」
『Zoom』(エイチ・ティー出版) 1986年8月号「特集:究極のナルシズム」
『WAVE』(ペヨトル工房) 1988年4月18号「フォト新世紀 詩を書くように映像をつむぎだす新世紀の写真家たち」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1992年2月号 齋藤亮亮一「新しい地図 アメリカ・ヨーロッパ」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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