キュレーターの視点で紐解くKYOTOGRAPHIE:展示空間と写真の在り方

2013年にスタートした「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」 は、「京都がもっとも美しいといわれる春」に開催されている。写真展を見るだけでなく、京都の華やかさや歴史もあわせて楽しめる京都観光にも抜群の写真フェスティバルだ。今年のテーマは「Source」。「源は初めであり、始まりであり、すべてのものの起源である」と謳い、主催者の企画したオフィシャルな展覧会と、公募によって集められた「KG+」、国際審査員によって選ばれた「KG+SELECT」等、百を超える写真展が開催された。国籍も違えば、キャリアも写真のジャンルも異なる作り手のこれだけの数の写真展を一度に見られる機会は、日本ではここだけかもしれない。

また、今回あらためて気づいたのは、写真作品だけでなく展示空間にどうしても目がいくフェスティバルだということ。キュレーターとしての仕事柄、写真の見せ方、展示空間の作り方がどうしても目に付くが、今回はなおさらだ。美術館やギャラリーなど作品を見るために作られた専用のスペース“ホワイトキューブ”での展示だけでなく、世界遺産の二条城など歴史ある日本の伝統的な建築物での展示もあるからだろう。そして、そこに魅力を感じて訪れる観客も多いのではないだろうか。

今回展示会場のキャプションに「セノグラファー」という肩書きをよく目にした。なかなか聞きなれない言葉だが、語源は“光景(Scene)”+“描く(Graphy)”で、元々は舞台美術を指す言葉で、ここでは展覧会の空間をデザインする人ということで使われているようだ。作品を見せるために作られていない世界遺産や国宝級の建物を傷めずに、作品をよりよく見せるためにどうしたらいいかを考え始めると、作家やキュレーターの知見だけでは、手に負えないのかもしれない。

そこで、そういった視点で、私が2日の京都滞在中に見た、気になった展覧会をいくつかピックアップしてご紹介したい。
まず、世界遺産の二条城(二の丸御殿、台所・御清所)のティエリー・アルドゥアンの「種子は語る」

会場となる建物に入ると、暗い天井から高さの異なる数多くの裸電球のようなものがぶら下がっている。目を凝らして見ると中には様々な種子が入っている。さらに、隣の部屋には、光の入る明るい障子に向かって大きな白い紙にプリントされた種子の写真が斜めに立って並んでいる。

まるで種子を早く発芽させようと光を浴びせているかのようである。次の空間には、同じように障子際に種子を大きく伸ばしたプリントが水平に一列に並び、向かいには人の背丈以上の大きな黒い屏風に、種子が大きくプリントされている。宇宙空間に浮かんだ奇妙な惑星のようにも見え、スケール感が分からなくなってくる。

そして、別の部屋には、子供の背丈くらいの四角い筒が林立しており、覗くと種子の写真が見える。この会場では、見下ろしたり、見上げたり、覗き込んだり、普段の写真作品との向き合い方とは異なる方法で、見たことのない不思議な姿形の種子に出会える。さらに、ここは二条城の台所だった場所で、野菜など植物の種子の写真を台所で見せられるというのも面白い。

 

280年の歴史をもつ帯問屋誉田屋源兵衛の竹院の間と黒蔵では、中国の二人組Birdhead(鳥頭)の作品が見られる。
入口では、写真をシルクスクリーンで木材に定着させた「Bigger Photo」が出迎えてくれる。薄暗い空間で金バックに黒い樹木のフォルムの作品を見せられて、尾形光琳の紅白梅図屏風のようにも見えるが、よく目を凝らすと樹木や建造物などの写真を回転させた、何気ない3枚の写真で構成された作品だった。

2人のユーモアと錯覚を誘引する写真というメディアについて考えさせられた。中庭を挟んだ次の空間には、たくさんの写真をグリッド状にレイアウトした、「MATRIX」と呼ぶ手法を使った京都と東京のスナップショットがあった。

そして、その奥の蔵では、写真の神秘的な力を崇める空想の宗教をモチーフとして、ネガを曲げて作った風車や、ラインライトを使ったオブジェなどチープな印象の作品が並ぶ。

それらの作品を眺めていると、伝統的な写真という概念にがんじがらめになっている人々を、まるで古い写真という宗教を盲信している人々に見立てて嘲笑っているかのようにも見えた。そして、そのような古いものは蔵の中でしか見られないと揶揄しているかのようでもある。場所の特性を活かしたサイト・スペシフィック(Site-Specific)な作品だ。

 

京都市京セラ美術館で展示されていた川田喜久治の「見えない地図」、潮田登久子「冷蔵庫+マイハズバンド」と川内倫子「Cui Cui + as it is」も見応えがあった。

美術館の空間ではあったが、セノグラファーの力が発揮されていたように思えた。特に川田喜久治さんの展示は、「地図」、「ラスト・コスモロジー」、「ロス・カプリチョス」の3タイトルを初めて同じ場所で展開されたとのこと。それぞれを7つの八角形のテントのような空間で展開しているのだが、その写真のレイアウトが絶妙なリズムで構成されており、これまで見てきた作品とは別もののように見え、新たに自由な再解釈を求められているような、大変示唆に富んだ展示空間になっていた。

 

国際写真フェスティバルの醍醐味の一つとして、異なる世界・文化の写真に触れられるということもある。今回そうした意味でとても驚いたのが、Sferaで開催されていた「イランの市民と写真家たち あなたは死なない ~ もうひとつのイラン蜂起の物語」だ。

ここでは2022年9月にヒジャブの付け方やファッションが「非イスラム的な外見」という理由で警察に逮捕され、拘留中に受けた暴行が原因で亡くなったイラン人女性「ジーナ」。彼女の死によって引き起こされたイランの歴史上最も大規模とされた抗議活動を記録した写真と動画が見られた。

日本でも報道されてはいたが、それらの作品(と言っていいのか)を見てこれほど大きな市民運動になっていたことを初めて知った。そのほとんどがSNSからの引用で、匿名のイラン市民の手によって撮影されたものを、フランスの新聞ル・モンド紙の記者と関係者たちが集めてきたとのこと。外国の記者たちが入れないような場所で、現地の人々の撮影した映像をあらためて見せられ、その映像の力強さに圧倒された。スマホとSNSが普及したデジタルネットワーク時代の情報流通と写真・映像作品のあり方を考えさせられた。

 

他にも魅力的な展示があったが、残念ながら紙面の都合で紹介しきれない。今回のKYOTOGRAPHIEを見て、キュレーターとして様々なことを考えさせれらた。一番大きかったのは、展示空間について、そしてその展示内容と展覧会のターゲットということ。展示空間については、先に述べたが、写真という表現を社会に開いていくために、ホワイトキューブという閉ざされた空間を飛び出し、多くの人々の目に触れるような場所で写真を見せていくことはフェスティバルとして大切なことだと思う。

そして、KYOTOGRAPHIEでは、歴史ある京都ならではの場所で見られるということで、尚更魅力が増し、国内外の新しい鑑賞者を増やすことに成功していると思う。展示内容についても、初めて写真に触れる方々にとっても、入りやすい入り口を用意し、魅力が伝わりやすい作品を見せてくれていると思う。こうしたフェスティバルが増え、写真ファンの裾野が広がっていくのは喜ばしいことである。しかし、それと同時に、今度は写真界の峰々の高さを上に伸ばしいていくようなフェスティバルも必要ではないだろうか。

今の写真界にはたくさんの課題がある。これからの新しい写真を考え、それを育んでいくための環境を作る新しいフェスティバルも必要かもしれない。

 

 : 菅沼比呂志
キュレーター。1963年生まれ。’87年(株)リクルート入社。若手アーティストを支援するギャラリー「ガーディアン・ガーデン」の立上げに参加。以後、若い世代の新しい表現を求めた公募展「ひとつぼ展」、「1_WALL」等の企画に携わる。’17年よりフリーに。「粒子にのせた言葉~日本現代写真の源流」展(韓国・古隠写真美術館/釜山)、「とどまってみえるもの」展(横浜市民ギャラリーあざみ野)等を企画。現在、T3 Photo Festival Tokyoの運営委員を努める。

写真 : PicoN!編集部 黒田


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