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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.35 アジアのコスモロジーを描き出す 管洋志『魔界・天界・不思議界・バリ』 鳥原学
インドネシアのバリ島は世界有数のリゾート地として知られる。だが、1979年に管洋志がそこを訪れたとき、観光化の波はまだ押し寄せてはいなかった。彼は日々の暮らしに浸透している通過儀礼や芸能文化に魅せられ、その撮影にのめり込んでいった。それは独自でありながら、どこか“日本の祈り”の原型にも通じる世界だったのである。
博多とバリ
一年に一度の地元の祭りには、何をおいても駆けつけるという人を、私は何人か知っている。なかには、そのために仕事を辞めてしまうという猛者もいるようである。たった数日の「ハレ」の日のために、残りの三百数十日の日常を懸けるという“祭り狂い”の生き方は、どこか羨ましくもある。
管洋志が生まれ育った博多では、そんな男たちは「山のぼせ」と呼ばれている。「山」とは毎年7月1日から2週間にわたり開催さる「博多祇園山笠」と、このとき使われる山車(だし)のことである。「流(ながれ)」と呼ばれる地区ごとに分かれた男たちは、頭に鉢巻き、白い水法被に締め込み、足元は黒い地下足袋で身を固める。その揃い装束でおよそ1トンもの山笠を曳き、博多の街を練り歩く。
この祭りのハイライトはなんといっても、博多の総鎮守である櫛田神社へ山を奉納する最終日の「追い山」である。奉納とは言っても、山は猛スピードで街を駆け抜け、すさまじい勢いで境内へと流れ込んでいく。その通りに面した家の人々が、曳手の熱を冷ますためバケツで「勢い水」をかけ、街が一体となって高揚するのである。
そんな祭りの様子を嬉々として語ってくれた管もまた、まぎれもない山のぼせのひとりだった。だから遠いバリ島の祭礼についても、頭ではなく身体で理解できたに違いない。1983年の写真集『魔界・天界・不思議界・バリ』と、その4年後の続編である『バリ・超夢幻界』の2冊を見ていると、そう思われてならない。なにしろページを開くたびに、祭りにかけるバリ島の人々の熱狂と陶酔とが波のように押し寄せてくるのだから。とくに後者の印象は鮮烈である。色とりどりの衣装と仮面、トランス状態になった人々の表情がグロテスクなまでに凝視されていて、まるで幻覚を見ているような気分におちいる。写真家はその詳細を克明に、まるで凝視するように捉えているのである。
管がテーマとしたバリ島は、インドネシアのジャワ島の東に位置する火山の島である。広さは日本の三重県や愛媛県とほぼ同じで、人口は約400万人に満たない。稲作が盛んで、よく耕された棚田の風景などは日本によく似ている。主要な産業は観光で、毎年海外から数百万人もの人々が訪れている。彼らの目当ては熱帯の濃密な自然と宗教文化が生んだ、圧倒的な芸能なのである。
もともとバリ・ヒンドゥーはインドのヒンドゥー教と島独自のアニミズムが融合した信仰であり、現地には祭礼や芸能が日常に深く根付いている。そのため、バリは「劇場国家」とも呼ばれ、神々に奉納される舞踊や影絵芝居が発展した。特に、魔女ランダと聖獣バロンの戦いを演じるバロンダンスや、ヒンドゥー叙事詩『マハーバーラタ』の影絵芝居ワヤン・クリは、今も島の伝統として続いているのである。
カメラマンと写真家の間で
管洋志が初めてこのバリを訪れたのは1979年、34歳のときである。当時はまだ観光開発もまるで進んでおらず、その魅力はとくに日本人でほとんど知られていなかった。だが、それまでアジアを取材してきた管は、 ほかにはない濃縮された空気をすでに感じていた。なんとなく相性が良かったこの島が、写真家として自らを再生させるには、最もふさわしい場所のように思われたのである。
バリに来るまで、管は多忙な日々を送っていた。週刊誌や月刊誌で連載を持ち、グラビア特集の撮影もこなす人気カメラマン。しかし、どれだけ仕事が充実しても、心の奥には鬱屈が巣食っていた。「カメラマンではなく、写真家になりたい」——その思いが、彼をバリへと駆り立てた。
管はカメラマンと写真家とをはっきり区別していた。カメラマンとは読者に事実を伝えることを生業とする職業人だが、写真家は自分の感じたことを表現する自立した創作者だと定義していた。だから依頼仕事をいくら器用にこなしていけても、けして自分の表現にはいらず、かえって不満が募っていたのである。今も昔も写真業界には、こうした感情を抱く人はけして少なくはない。
菅の写真家願望は、ドキュメンタリー写真家を目指し日本大学の写真学科で学んでいたときから始まっている。きっかけは3年生の夏休みに、打ち捨てられた海上の廃炭鉱である長崎県の端島、通称「軍艦島」を撮りに出かけたことだった。現地で奈良原一高の1956年のデビュー作、おそらく戦後の写真史の分岐点となった『人間の土地』の写真を見て、ひどく衝撃を受けたのである。奈良原は隔絶された環境のなかで、採炭のために徹底的に近代化されて軍艦島の風景を、現代人が生きる状況を象徴的に表現していた。魔術的とも評されるその圧倒的な映像感覚を前に、管は自分の写真が全否定されたように感じたという。と同時に、写真家になるという目標も定まったのである。
その最初の挑戦は、1970年に銀座ニコンサロンで開催した初個展「チベット難民」 である。一年半をかけてインドからネパールを旅した際に出会った、中国の支配下にあるチベットからの難民キャンプを撮影した写真をまとめたものである。だが期待に反して、観客の入りは少なく専門家筋の評価も聞こえてこなかった。管の失望は大きかった。
いやじっさいは評価の俎上にのぼってはいたのだ。作品の一部が翌年の『カメラ毎日』4月号に掲載された際、写真の教育者としてもよく知られる大辻清司がこう評している。
「個展を見たときでもそうでしたが、少しもどかしい思いがしますね。つまり見たい写真がまだあるんじゃないかというもどかしさです。 (中略)ぼくは、人間というもののもとにさかのぼるような感じがすれば満足するんですけれど」
見たいのは「人間というもののもと」という大辻の指摘はさすがというべきである。この作品で人間が撮りきれていないことは、作者自身も感じていたのである。
その後も、菅はなんとか仕事と作品を両立させようと奮闘していく。資金が貯まるとアジアを旅して写真を撮り、ついには戦争中のベトナムにもでかけているのだが、ものにはならなかった。26歳のときには全国のストリップ劇場をまわって踊り子たちを撮り、「花のヴィーナス86人衆」を雑誌で発表した。このとき、これで初めての写真集を出版したいという希望もあったという。だが劇場を舞台とした人間模様を描きたいと意図したのに、性風俗的な話題だけが先行してしまい、断念をしている。
こうして過ぎていった20代を、管は「暗黒時代」と振り返る。やっと転機が訪れたのは、三十路を迎えたときだった。きっかけは妻の放った次の一言である。
「あなたは誰のために撮っているの?」
創作的な写真家であるには雑誌や読者のためにではなく、ただひたすら自分が求める撮らなければならない。そう気付かされた管は、自分が没頭できる対象は若いころから旅してきたアジアにあると思った。彼は次のように書いている。
「アジア各地を旅して歩くのではなく、そこに居とどまり、文化を知り、人の生活を体にしみつかせ、一冊の写真集を創り上げることだ」
そしてついにつかみ取った主題が、バリ島の祭礼だったのである。
アジアのコスモロジーへ
管は多くの仕事を整理して時間を捻出し、東京とバリを頻繁に行き来して、ひたすら写真を撮るという生活を送った。 滞在中は、現地の人と同じものを着て同じものを食べた。文字どおり「人の生活を体にしみつかせ」ていったのである。撮影に没頭するあまり、自宅の電話番号さえ思え出せなくなったこともあった。もっとも、当時のバリには電話はまだ数本しか設置されていなかったという。
こうして現地に密着するうちに、管はひとつのことに気づいていった。それはバリと日本の意外な類似生だ。たとえば一般に寺院と訳される「プラ」という聖域が、じつは祭祀のありかたも雰囲気も、寺院よりは神社のそれに近いこと。米作りの折々に捧げられる祈りも、よく似ていた。バリ・ヒンドゥーの根底にある古いアニミズムは、日本の神道のあり方と近いもののように感じられた。
それをはっきり見たのは、世界中でこの島だけに許された公開の火葬儀礼のプロセスを見たときだった。バリの人にとって死は終わりではなく、新しい生の始まりとされている。それゆえ王族や高位のカーストに属する者が亡くなると、来世への門出を祝うため、明るく盛大な葬儀が営まれる。華やかに装飾された高さ20メートルにもなる「バデ」といわれる葬儀塔を中心とする大行列が、ガムランの金属的な音色にのって火葬場に向かってにぎやかに進む。そして、最後にバデは遺体もろとも燃やし尽くされるのである。
華やかな装束をまとった男たちによって担ぎ上げられ、動き出したバデにレンズを向けたそのときだった。バデと男たちに沿道から水が浴びせられ、どっと歓声が沸いたのである。菅の眼の前にある光景は「追い山」のそれとはっきりと重なった。火葬儀礼と山笠が、いやバリと日本とはどこか深い所で繋がっている。そうはっきりと直観されたのだった。
文化人類学において、コスモロジー(宇宙論)とは、神話や祭礼を通じて形成される世界観や宗教観の体系を指す。管がバリ島で撮影したのは、単なる祭礼の記録ではない。それは「死と再生」「人と神の交わり」といった、アジアに広く共通する精神的な構造——すなわち、アジア的コスモロジーの視覚化だったのである。
その後も撮影を重ねた管は、ついに写真集をまとめるさいに、レイアウトを杉浦康平に依頼することに決めた。杉浦は菅が尊敬する奈良原一高をはじめ、東松照明、川田喜久治らの代表的な写真集を手がけており、国際的にも高い評価を得ていた。しかも管がバリに魂を奪われていたまさにそのころ、杉浦もまたインドでの体験からアジアに注目し、アジア的な図像をデザインの中に採り入れ始めていたのである。
その杉浦であったからこそ、管の意図を最も理解し、より理想的な形を与えることができたと言えよう。ことに最初の『魔界・天界・不思議界・バリ』には、死から生へと向かうバリの生命観が、はっきりと反映されている。まず棺の中にある死者の手のアップから始まり、新生児の写真で締めくくられているのだ。その間に島の祭りやさまざまな暮らしの営みが効果的に配された構造は、どこか曼荼羅を思わせる。さらに、2冊目の『バリ・超夢幻界』では、その構造の最も核にある、バリ人の魂の生々しさに迫っている。
本書の出版後、1980年代後半から菅のアジアへの旅はさらに広がっていった。ベトナム、タイ、ラオス、ビルマ、さらに日本の八重山列島や奄美大島などにも積極的に通った。「どこに行っても懐かしい感覚が湧いてくる」と管は私に語ってくてた。
一見して異なる地域であり文化のなかに、共通するコスモロジーが潜んでいる。管が写真家として表現してきたことのなかには、グローバル化するこの世界で、互いを理解し合うための知恵が潜んでいるように思われる。
管洋志(すが・ひろし)
1945年福岡県博多生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、フリーに。週刊誌で活躍する一方、ライフワークとして人物や東南アジアをテーマにしたドキュメンタリーを発表。写真集は『バリ・超夢幻界』『博多祗園山笠』『メコン4525㎞ 』など多数。講談社出版文化賞写真賞、土門拳賞、東川賞国内作家賞受賞。料理写真のカメラマンとしても著名で、『すきやばし次郎』など著書多数。2013年死去。
参考文献
管洋志『メコン4525㎞ 』(実業之日本社 2002年)
管洋志『一瞬のアジア』(新潮社 2014年)
『玄光社MOOK12 アジア夢幻行 管洋志作品集』(玄光社 1987年)
『写真工業』 (写真工業出版社) 2007年9月号 管洋志「私とカメラ(2)カメラマンと写真家」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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