【写真学校教師のひとりごと】vol.37 勝亦健について

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。

そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。

これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。


小学校5年生のとき、宇宙探査機のボイジャーが撮った写真を学校図書館の図鑑で見たのが、写真に興味をもった最初だという。
それは木星を撮ったものだった。

この頃からかれは、人と話すのが苦痛で苦手だった。
ボイジャーで星に興味をもち、親に望遠鏡を買ってもらい、一眼レフをとりつけ、それで自分で最初に撮った写真が「月」だった。

中学校1年でフィルム現像をおぼえ、中2の夏に富士山5合目で星空の写真を撮って、「スカイウオッチャー」という雑誌で、入門者部門で入賞し、勝亦の写真がこの雑誌に掲載された。
初めて外部の人間に自分が撮った写真を賞賛されたのだ。
これがきっかけで写真の面白さを実感し、どんどん撮るようになっていく。

このころ、厚木基地の近くに住んでいたので、航空ショウを目のあたりに見て、天体の次に航空機撮影にのめり込んでいった。
人と接するのが苦手だったかれは、星から飛行機へと、興味の対象を移していったのである。

写真学校卒業後、2008年2月にフジフォトサロンで写真展、「BLACK AIRCRAFT」を開催した。

DMの写真でわかるように、背景の空の調子をかなり意識している。悪くない。
次に風景写真に移行する可能性というか、予兆がうかがえる。

話は少しもどるが、学生のとき、ある先生の授業で、多摩ニュータウンに行った。
その団地で部屋の中を撮ってくる、という条件があり、人と接するのが苦手なかれにとってこれはほかの学生とは桁違いにキツイことだった。
一見の人の家の中に入れてもらい、そこで写真を撮るということは、想像を絶するほどに大変なことだったということが理解できる。

いまとなっては、かれにとって実にいい経験だったと言えるが。
自分は写真のおかげでここまでくることができた。

また写真をやっているからこそ、いろいろな人と出会うこともできた。
これまでの人生を写真がひろげてくれた。

自分は横浜で生まれ育った。
横浜というと一般的には海のイメージが大きいが、そればかりではない。海以外にも豊かな自然がある。
次はそういう写真を撮れたら、嬉しいと思っている。
これからは、自分にとっての横浜をそういった視点で撮りたい、という。
こういったことをガツガツではなく、じつに淡々とカツマタは語る。

今までは星とか飛行機とか、遠くにあるものを被写体にしてきた。
必然的に望遠レンズが多くなり、手持ちのレンズが片寄っている。

これからは標準からワイド系のレンズも揃えなければと思っている。
かれは写真によって自分の可能性に気付かされ、写真によって自分の欠けているものを補ってきた。

勝亦にとって写真とは、己の存在のために必須のものになりつつある。

ここまではなかなか大変な人生だったが、徐々にではあるが、好ましい方向に向かっていっているのではないだろうか。

今までは人と接することを極力さけてきた。だがそれによって逆に純粋さを保っている部分があるはずだ。
なかなかほかにはあり得ないような感性があるに違いない。それを期待したいと思う。

菊池東太


1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

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