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現代美術の在り方を考える。桜井孝身・櫻井共和「九州派をつくったもの、九州派からうまれたもの」

桜井孝身と息子櫻井共和による二人展「九州派をつくったもの、九州派からうまれたもの」が、銀座 蔦屋書店の中央イベントスペースGINZA ATRIUMにて開催中。

桜井孝身氏は、1950年代に日本の前衛芸術グループである「九州派」を立ち上げた人物。それは、新しいものを作るではなく既成の概念を壊すことを主として、流行が去ったときに何も残らず、反芸術という形で捉えられ長くは続かなかった。
はじめは壊すという考え方だったが、それを1回自分の中のフィルターに通したことで、オブジェとイマージュの世界を作りたい、破壊→構築を繰り返すという意識が生まれ、平面の絵画のみならず、立体と平面中間のようなオブジェ制作にも繋がる。
櫻井共和氏は、幼少時から芸術に囲まれて過ごし大きな影響を受けながら、美術の道を進む。前衛グループの在り方の中、絵描きをやっていく上で抽象表現主義へ。
そんな親子である二人の展示について、櫻井共和氏に話を伺うことができた。

櫻井共和氏の作品について

芸術とは非合理な世界だと思っているので、一つの線を定規を使ってすっと引くよりは、自分たちが考えながら定規もあてずに真っすぐ引く。こっちの方がうまく引けないだろうし、定規で測らなければぴったりの5㎝の線でさえおぼつかない。だけど、おぼつかない非合理の中でしか、芸術は成立しないようなものだろうと僕は思うわけです。非合理が絶対的に価値を持つのが芸術なんです。

少しでも形があると具象ですよね。具象は形があるから模倣(マネ)だと思うんです。風景とか何かを模倣して作品を作るというのは、写真機ができた時点で絵描きから簡単に取って代わられているんです。
そしたら、写真にできないことは何か、可視化できないものを可視化するとは何かと考えた時、内面のそれでしかないだろう、だとしたら抽象だろうという流れで抽象画を描いています。

 

スーパーリアル(写実絵画)の描き手である野田弘志さんが、天皇陛下の肖像画を描く依頼の際に、写真を見ながら描いていたわけですが、写真を見ながら「写真には天皇陛下の威厳が写ってる。自分の絵にはそれがない。どうしたらそれが入るんだ」という風に仰って描き続けてたんです。

それを聞いたときに、本当は何を見ているかというと、理想とか相手に対する想いとかの中身の心理的な全く形のないものだろうとそう思ったんですよ。そのずっと延長に、自分が気持ち的なことで絵を描くということは、視覚する(視覚できる)ということとはちょっと違うんじゃないかという気がしてきたんです。

現在の作品は、絵の中にある、絵を形作っている構成とか色、線なんかを純粋化したものです。
例えば線は、模倣するために作る線だから輪郭線としての役目は捨てる、線そのものに戻して、筆触(動きのある線)と所作的な線(くしゅくしゅとしたような線)の2種類に分解しました。
そして構成をなくす。模倣はしないからモチーフは消える。
色はとっても厄介でした。純粋化をずっと考えた結果、色が持っている意味(赤は血の色、太陽、緑は草木など)を捨てて、絵具を使う場合は、絵具のチューブから出した絵具の塊をそこに置く。塗るではなく色そのものを置く。そしてその色を表現するには下にある色を消さないといけないから、色を純粋化するにはそれだけ必要になってくるというだけで、ある程度の盛りが必要になってくる。これを色として分けて置く。

絵には上下も決めたくないから、描き始めたらスクエアのキャンバスを回しながら作ってくんですよ。いろいろな方向で線を描いていく、そうするとだんだん層になってくる。その層がレイヤーとなって現れるわけです。レイヤーがあることは奥行きが出てくるんです。その奥行きっていうのは、今まである透視画法やキュビズムのような立体の見せ方とはまた違う、平面による新しい見せ方が出てくるんです。
“このためにこのレイヤーを重ねる”ではなく、1枚して成り立つ絵の上に方向を変えてまた同じように重ねる、色はこっちで青を使ったから黄色にするというように、ハレーションを起こすために配置するので全く意味を持ちません。層を作るための一つの絵具の塊なんですね。それなので、正直言うと自分の描いてるもののメッセージっていうのはまるでないんです。

画材は特にこだわりはないです。いや、絵を描くための道具で絵を描くのがこだわりになるんでしょうか。
親父は逆に壊すところから入っているので、色々なものを使ってますよね、組み合わせて。

桜井孝身氏の作品

桜井孝身氏の作品

作品に対する想いとは

僕は見せる人を無視して、自分のためにだけ作るという意識を持たされてきたので、人に見てもらう、意見をもらうなんてあまちゃんだっていう中で育ってきたから、僕自身のためしか描かない、それじゃなきゃ絵じゃないという呪縛に囚われていたんです。

年に一度個展はするけど、会場に絵を持っていって飾ったら1年行かなかったんです。
誰のために描いているわけでもないし。よくある幸せな日常を描いていてそれをいいねって言われても、自分のためにだけしか描いてなくて、その人のために描いてないと思っているから嬉しくないんですよね。40年近く閉ざしていたんです。

裸の王様じゃないけど、その絵画に意味がない場合はいいけど、意味がある時は作者がなにか言ってくるじゃないですか。「そうですね」っていわなきゃいけないような感じになるし。みんなそうやって絵を見てるんじゃないかなって感じてたんです。だから現代美術って嫌いだったんです。スカされてるような感覚があって。

でもそうやっていた中で、絵を描く行為ってたぶん誰かに見せるために描いてると気づいたんです。絵を描いててちょっと距離を置いて描いてきた過程を見ますよね。その時、自分じゃない享受者を考えながら見るんですよ。すでに享受者がいるんですよね。
抽象画をやる時にすごい考えて、絵画は見る人を意識している、その人を想って描くこと、それは不純ではないということがわかったんです。
ほんとつらかったんです。親父たちも呪縛としてあったことだと思います。

全く役に立たない必要じゃないようなことが、人間には必要なんじゃないかということが芸術で、原点として先輩たち(父)を見て作ってきたし、今があるということ。それがただ親子だったってだけだけど、二人展をやる意味があるなと思いました。
美術館とは違うサブカルチャーとハイカルチャーが混ざり受け入れているこの蔦屋書店でやるのはいいなと思って、今回の開催にも繋がっています。

櫻井共和氏のこれから

純粋化するってことは、宗教とか国家とか偏見など全部捨てて、ホモサピエンスとして共通感覚の中で芸術をみんなで作るということ。それはひょっとしたら世界が一つになるものを芸術で示すことができるのではないのかと思うんです。

純粋化というこの方法論でいけば、テキストの様な読まれ方をすることができる。人との関わりが持てるということは、現代アートが誰にでも開かれてるということになり、それはとても面白いことだと思うんです。
見方を決めたらみんなが同じ様に見ることができる。構造主義的に、描いた作家が偉いのではなくて、その人が読むテキストを提供してるに過ぎない、読み手がいてはじめて成立するという、親(作家)無しで子(作品)だけで語れるということができるようになるんです。みんなと僕の絵が共有できるんだっていうのは、面白いですよね。

全てを分解して取っ払って重ね合わせることによって、絵画というものを抜けた後に、それでも絵画であるというものを僕は作りたいと思っています。

絵画を見て何を思うかというのは楽しいですよね。僕は僕の作品を見てどう思ってもらっても感じてもらってもいい。ただ、共通言語としてどう作ったかというのだけはあるので、それを見たこれから先の人が気付きを得て未来を開いていってくれたら、僕が絵描きとしての役目をしっかり果たしているんだという気になるじゃないですか(笑)はじめて人様の役に立てたということになるかなと思います。

 

展示概要

「九州派をつくったもの、九州派からうまれたもの」

会期:2022年10月8日(土)~2022年10月19日(水)※終了⽇は変更になる場合があります。
時間:11:00~20:00 ※最終日のみ、18時閉場
会場:銀座 蔦屋書店 GINZA ATRIUM(イベントスペース)
主催:銀座 蔦屋書店
協⼒:Gallery MORYTA
HP:https://store.tsite.jp/ginza/event/art/29329-1141301006.html


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