“うきは”の勇者が誕生するまでの物語。

九州北部に位置する福岡県。県庁所在地が置かれる福岡市から、1時間30分ほど車を走らせたところに「うきは市」があります。

総人口2.8万人、このうち老年人口が35%ほどを占める、少子高齢化が進んだまちです。

この土地で「75歳以上のばあちゃんたちが働ける場を作りたい。」という想いを胸に、2019年10月に設立された企業があります。それが「うきはの宝株式会社」です。

2021年2月に開催された農林水産省主催のビジネスコンテスト「INACOME(イナカム)」にて最優秀賞を受賞するなど、地方創生や地域活性化の業界で、今大注目の企業です。

今回は「うきはの宝」創設前から今後の展望までを、うきはの宝株式会社の大熊充代表取締役にお話をうかがうことができました。

全4回でお届けするこの連載。初回は「うきはの宝」が生まれる前の大熊さんにスポットを当ててお送りします。

大熊さんは以前は別の業界で働かれていたと聞いています

元々はバイク関連の業界で働いていたんですよ。結局、なぜその業界を辞めたかと言うと、20代半ばにバイク事故に遭ったんですよね。

その事故がちょっと酷くて、トータル4年間も入院していたんです。最初は粉砕骨折だったんですけど、そこから骨がくっつかない病気になったこともあって入院期間が長引きました。

働き盛りのときに4年も働くことが出来ないことは、相当しんどいものでした。車椅子とかベッドの上で毎日過ごすので、かなり精神的にも病んでしまっていました。

そんな時に励ましてくれたのが、同じ病院に入院していたばあちゃんたちでした。ばあちゃんたちも、僕を励ますつもりがあったわけではないと思うんですよね。彼女たちも病院で孤独で、そこで僕にコミュニケーションを取りたかったんだと思います。

でも、そのお陰で精神的にも救われて、退院することができました。

退院後、バイク業界で身につけた板金技術を活かしてオンラインショップを始めました。当時はインターネットを使った販売というのも、まだ目新しい時代でした。

ホームページ制作を外注しようとしましたが、かなりお金がかかるということで、後輩のプログラマーに教わりながら自分で制作をしていました。販売する商品には自信があったんですが、結局売れ出すまでには1年近くかかりました。

売れるために何を勉強したかというと、マーケティングです。それまでは、お客さんの顔が見えていなかったということがわかりました。

そして、デザインやコーディングなども勉強しました。このとき、商品の良さを伝えるために大切なのはデザインだと思いました。

ここでデザイナーとしての道が本格的に始まったのですね。

2014年1月から大熊Webデザイン事務所を創業しています。

このような田舎で、1人でネットビジネスと立ち上げて利益を出している人間を、周りの経営者の方々が放っておかなかったんですよ。クチコミでどんどんウワサが広がっていきました。金属製品の販売も好調で、Webデザインと並行して仕事を行っていました。

しかしその後、北京オリンピックが開催された時期に、取り扱っていた金属の仕入れ値が上がってしまったこともあり、そのタイミングでWebデザインを中心に仕事を行うようになりました。

つまり私は「デザイナーになるぞ!」と意気込んでなったわけではなく、色々と追い求めていった結果デザイナーになっていたという感じなんです。

その後、2017年4月に専門学校日本デザイナー学院九州校グラフィックデザイン科に入学されていますね。

今から5年ほど前のことですね。

商業デザインというのは、様々なクライアントからの要望に毎回応えていくようなお仕事です。ただ将来を考えたときに、ひたすらクライアント目的のために、デザインを提供し続けるイメージが湧かなくなってきていたんです。クライアントに対して目的遂行をして、評価とお金をもらえることは否定しませんが、それだけを追い求めるのことがしんどくなってきていたんです。

そこで、自分の周りもに卒業生がたくさんいた専門学校日本デザイナー学院九州校(以下NDS)に行くことを決めたんです。墨絵、陶墨画アーティストの西元祐貴氏なども、友だちでした。全日制の学校なので、会社経営と両立して通うために事前に計画を組んで入学をしました。

私がニチデを選んだ理由というものが3つあります。

まずは若い子たちに触れること。事務所経営をしていくなかで、若いデザイナーから順番に抜けてしまっている事実があったので、若い子たちを知ることは大切なことでした。

つぎに、デザインを基礎から学べること。基礎教育に力を入れている学校ということだったので、そこで1度はしっかりとデザインを学びたいなと思っていました。超一流のデザイナーを目指していたわけではないですが、ディレクションをするために、当然デザインのことをわかっておく必要があると感じていました。

最後に、僕らも誰かのために力を尽くせないか。その答えを学びを行う中で見つけ出したいと思っていたということが挙げられます。

そして、NDS2年生のときにソーシャルデザインに巡り合われたのですね。

当時グラフィックデザイン科に在籍して学んでいましたが、2年生のときにソーシャルデザイン科が新設されると聞き、積極的に学んで行きました。自分ではソーシャルデザイン科0期生とも言ってます。

学校に通った理由でもある「自分のスキルを活用して誰かのために力を尽くしたいという思い」を形にできそうなものがソーシャルデザインにはありました。

それとやはり、怪我をして仕事もなく行き場のないときの自分を迎え入れてくれた故郷・うきはが好きでしたし、故郷のために力を尽くしたいとも考えていました。

「PISHTO(ピシャっと)」というイベントは覚えていらっしゃいますか。

もちろん覚えています。

ゲストをお呼びして講演会やワークショップなどを行う公開講座でした。当初は学校が主導して実施をしていましたが、次第に学生主導で行うようになりました。私たち学生が、企画からフライヤー作りなんかもやったりしていましたね。

そこでお呼びしたゲストの1人が油津応援団の木藤亮太氏でした。

彼が言っていたのが、まちづくりを主導する人物が優秀でなくてもいいということでした。ロールプレイングゲームのように、勇者が目的を持って旗を振ると、優秀な魔法使いだとかが集まって来るのだと。

当時私は、優秀な人がまちづくりを主導していくと思っていたので衝撃的でした。

さらに多くの参加者がいる中で、当時はご挨拶したぐらいの関わりしかなかった木藤さんに名指しで「君がやるんだぞ!大熊くん!」と言われたのが決定打となりました。

後々、木藤氏にお話を聞くと「何かくすぶっているような感じに見えたので声をかけた」と言われていましたね。

その言葉が自分のエンジンをより奮い立たせるものとなったんですね。

かなり奮い立ちましたね。

コンプレックスというわけではないですが、やはり中卒で学歴もなく、デザインも王道な形でやってきたわけではないというのが、どこかネックになっていたんです。どの分野でも言えることだとは思うのですが、何かネックがあると行動できないんです。

でもそれを突破して、一歩踏み出すことができれば劇的に景色が変わるんですよ。私も、ちゃんと勉強してからだとか、卒業して形にしてからだとか理由をつけて、やればいいことを、やってきていなかったんですよ。

そういった、自分のストッパーのようなものを外してくれた出来事でしたね。

その日から、早速行動をしていきました。

また別の日になるのですが、NDS講師の先崎哲進氏の授業中にボーダレスアカデミーをご紹介いただいたんですよ。授業でも個別対応してもらえる時間が多くあったり、彼とは年齢が近いこともあって、ボーダレスアカデミーが面白そうだという話になったんです。※ボーダレスアカデミーとは社会問題を解決する社会起業家をつくるソーシャルビジネススクールです。

そして、その場で入学申し込みをしたんだんですよね。いきなり決めたことに最初は驚いていた彼も、一緒に行くことになりました。

次回、いよいよ「うきはの宝」が動き出します。

 

【プロフィール】

大熊充(Mitsuru Ookuma)

うきはの宝株式会社 代表取締役

うきは農園株式会社 代表取締役

1980年福岡県うきは市生まれのデザイナー。

バイク関連業界に従事していたが、2014年1月に大熊Webデザイン事務所を創業、代表就任。2017年4月に専門学校日本デザイナー学院九州校グラフィックデザイン科に入学。グラフィックデザインとソーシャルデザインを中心に学ぶ。ボーダレスアカデミー第二期九州校を修了し、2019年10月にうきはの宝株式会社を設立、代表取締役に就任。

2020年2月に福岡県主催のビジネスコンテスト「よかとこビジネスプランコンテスト」で大賞受賞。2021年2月に農林水産省主催「INACOME(イナカム)ビジネスコンテスト」で最優秀賞を受賞。

【うきはの宝株式会社】

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