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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.18 コンポラ写真の先駆者 新倉考雄『SAFETY-ZONE 1961-1991』(美術出版社) 鳥原学

新倉考雄の『SAFETY-ZONE 1961-1991』には、軽井沢、湘南、横浜などで60年代前半に撮られたスナップショットが多数収録されている。そこには、とくに大きな出来事はなく、視覚的なクライマックスも抑えられている。一見すると穏やかなのだが、そこにはその時代に生きていることの感触がしつかりと焼き付けられている。その才能を見抜いたのは恩師の大辻清司であり、新倉の写真は、「コンポラ写真」の先駆けとして評価されることになる。

 

現代写真のバイオニア

いつの時代でも、 人々はその時代を表現する新しい感性を欲しがるものだ。だがそう言いいながらも、 先駆的な感性の出現を見抜ける人は少ない。自分が馴染んだ枠組みから外れたものに対しては、たいてい拒否反応が先行する。ムープメントは必ず、先駆者の後からやってくるものなのだ。

 

新倉孝雄のデビューがまさにそうであった。1960年代半ば、写真雑誌に登場した新倉のスナップショットは、まず読者に戸惑いを与えた。いや、写真関係者からも「わからない」といった反応が多くかえってきたという。

理由は、新倉の画面の中では何も特別な“出来事”が起きていないからだ。人出が多いさまざまなイベントや観光地で、新倉は流行の先端を行く若者たちが織りなす光景を切りとっているにも関わらずだ。もちろんハレの日の装いは、一瞬、私たちの目を惹きつけはする。だが、若者たちの表情はさほど楽しげではなく、何か名伏しがたい気だるさと不安が漂っている。

その奇妙に気だるい気配は、被写体の表情やそれぞれの重なり合い方、さらに距離感とアングルの微妙に不安定なバランスから醸し出される。それは意図的なもので、新倉は決定的な意味やメッセージが生じる可能性を慎重に避けているのだ。彼自身の言葉で表現すれば、 「アンチ・クライマックス」 の映像表現を目指している。それは言葉に置き換えられないもどかしさを、同時代に感じていた空気を表現するためである。

こうしたスナップショットは、当時の写真の潮流にはあまり見られないものだった。1960年代の写真といえば報道や広告がメインストリームであり、人々にメッセージを訴えかけ、啓発する社会的なコミュニケーション機能こそが写真の機能だと信じられていた。「アンチ・クライマックス」は、まさに枠組みから外れた概念だったのだ。

新倉の写真について、そもそも同時代の人には読みにくい写真だと指摘したのは、写真評論家の平木収だった。デビュー作から30年ぶんの作品を収めた新倉の写真集『SAFETY-ZONE1961-1991』が1991年に出版されたとき、平木は初めて明確な時代性を見出したと述べている。それは次のような理由からだ。

「(新倉は) きわめて鋭敏に時代と社会の相貌を読み取り、その平準な層にフォーカスを合わせて、写真に写している。それだから彼の写真には、空気のような日常や時代の特質が写っている。それは凡人にはリアルタイムでは読めない」

じっさい新倉の写真が新しい時代を表現していると気付いたのは、ごく少数だったことは間違いない。そして新倉自身と彼の写真の質に気づいた人々こそが、日本における写真表現に、ひとつの新しい流れをもたらすことになるのである

 

一瞬の「いま」のために

新倉孝雄が写真に興味を持ったのは、桑沢デザイン研究所のリビングデザイン科に在学中のことだった。写真の授業で手にした備品のカメラ、スクエアフォーマットの簡素なフジペットが彼の進路を変えてしまった。

ファインダーを覗いたとき、新倉は、自分はいかに周りの風景を見ていなかったのかを知り、「ありのままの風景を見落としているのでは」と自問したと語っている。同時に一人で制作できる身軽さを知った。それは彼がそれまで身を置いていたのが、映画製作の現場だったからだ。

1939年に東京の練馬区で生まれた新倉の少年期は、戦後の日本映画全盛期と重なっている。まず思春期に観た若尾文子の『十代の性典』や『不良少女モニカ』など性をテーマにした作品は鮮烈な印象を与え、やがて戦争を斬新な映像で鋭く批判したロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』、谷口千吉の『暁の脱走』に大きな衝撃を受けている。それほど早熟な映画少年だった新倉は、中学生のころから映画の感想を「映画鑑賞日記」に綴り始め、高校3年生で『キネマ旬報』誌の読者の選ぶ「年間ベストテン」に投稿が掲載されるほどになっていた。

当然、高校卒業後は映画会社で働きたいと思ったが、学歴や強いコネクションを持ってはいなかった。そこで彼は、 情熱をアピールするしかないと思い、映画のエンドロールを見ては担当プロデューサーの名を書き留め、映画の感想文を送り続けた。この努力が功を奏し、新倉は大映に入社することができたのだった。

ただし熱望していた撮影部には空きがなく美術部の所属となっているのだが、写真との出会いを導いたのは、この配属だったといえるかもしれない。桑沢デザイン研究所に入学しようと思ったのは、映画美術にデザインや室内装飾の知識が必要だと痛感したためだからだ。

桑沢の授業で写真の面白さを知った新倉だが、映画のことが頭にあったのが横位置でしか写真を撮らなかった。しかもその表現には非決定的な曖昧さがあり、写真への評価は厳しいものがあった。ことに起承転結の順にストーリーを構成する組写真の課題については散々だったと振り返っている。それでも新倉は、独自の写真観を育てていくことを望んだ。そのために意識的に写真雑誌や写真集など、他人の作品を見ないようにも心がけていた。評価や見たものが余計な先入観となることを恐れたからだった。

新倉は「私の写真は頭で構築するものではなく、いつも白紙の中から生まれる一瞬の『いま』に出合いを求め続ける」ために、そのようにしたのだと述べている。また、大切なのは「撮る意識と撮られる意識が交差するシーン」を写すことだとも言う。

この志向がはっきりと出たのが、写真研究科に進んだ1962年の夏休みの課題として提出した、無名のボクサーやその予備軍たちがトレーニングに励むボクシング・ジムの写真である。横位置の流れるような写真には、濃密な肉体の気配が漂っていた。ところが、それをある教師にみせたところ「なにも写っていない」と酷評されてしまった。伝えるメッセージがない、という意味である。自身では手応えがあっただけに思い悩んだ新倉は、担任教師の大辻清司に意見を求めた。大辻は「わかりにくいけど気になる写真ですね」と答えた。

一方、『SAFETY-ZONE 1961-1991』に寄せられた大辻の文章には、その写真を一目で「好きになった」と書かれている。それは写真への初々しい態度とともに「なにものにも拘束されない率直な撮影態度に好感が持てた」からだ。さらに、優れた写真家になるための「特別に天与の才能」を授かった一人だとも、大辻には感じられたという。

 

「コンポラ写真」の誕生

大辻を慕った新倉は、1963年に写真研究科を卒業して就職してからも、月に一度ほどは写真を見せに代々木上原にある大辻の自宅に通った。大辻宅には他の教え子も集まることが多く、4歳年長の先輩、広告の世界で新進カメラマンとして注目されていた高梨豊もそのひとりだった。

その高梨は新倉のスナップに感心し、写真雑誌に作品を持ち込むことを強く勧めてくれた。写真のよくわかる、山岸章二という編集者が『カメラ毎日』にいるから、とのことだった。

後に時代をリードする企画を連発する山岸は、当時はグラビア面の担当だった。彼は新倉の写真を前にすると「平易すぎる」「もっとインパクトが欲しい」と言ったが、1964年2月号に 「ボクシング ・ジム」を掲載した。さらに 「ヨット・ハーバー」(6月号) や、軽井沢のフォークソングフェスティバルを撮影した「軽井沢にて」(10月号) など次々と採用する。山岸はこれまでにない新しさを、確かに読み取っていたのだった。

東京オリンピックが開催されたこの1964年は、新倉にも転機となっている。作品が写真雑誌に掲載された以上に、確信を持って自分の写真に取り組める心理状態になっていた。

きっかけは、大辻が右腕を骨折したことを機にその助手を務めるようになったことだ。敬愛する恩師から刺激を得る機会も増え、制作時間もできた。「軽井沢にて」も、大辻の山荘のある軽井沢に同行したさいに撮られている。 ほかにも新聞の情報欄で気になるイベントを探しては、積極的に出かけているようになった。翌1965年の『カメラ毎日』1月号には、さまざまなイベント会場に集う若者たちの群像を捉えた 「青年」が掲載された。新倉はその解説でこう述べている。

「やっとこのごろ、その場の空気をいっしょに呼吸しながら、そこで感じたものを見て素直に撮れるようになってきた」

「場の空気」とはアメリカを模した豊かさと自由、「感じたもの」とはそれを享受して青春を謳歌する同世代への矛盾や違和感だといえよう。ここで新倉は、若者たちが「なにか画一的で、周囲との妥協、合意が安直に成り立ちすぎている」ことに「無性に腹立たしい」ものを覚えるとも語っている。新倉のスナップショットが内包する、この静かな批評精神は次第に注目を集めていく一方で、彼はその評価と反比例するように、『カメラ毎日』とは距離を置きはじめる。そして、1966年10月号を最後に主な発表の場を『デザイン』誌などに移した。作品のテーマを山岸に決められることが増え、苦痛になってきたからだったという。

「コンボラ写真」 のムープメントが写真界を席巻したのは、それから2年後の1968年である。山岸が『カメラ毎日』6月号で、私的な日常を淡々と捉える20代の写真家たちの傾向を特集したのがきっかけだった。特集では、その代表的な写真家として、やはり大辻の生徒である牛腸茂雄が紹介された。大辻自身も解説を寄せ、豊かで価値観が多様化した社会では、若者たち自らの感性や身近な関係を重視するのだと述べている。

こうした動きのなかで、新倉が「コンボラ写真」の先駆者として見られるようになったのは必然といえた。その写真には、私的な地点から社会の空気を問い直そうとする同時代精神が色濃くあるからだ。この年の8月、新倉が開設されたばかりの銀座ニコンサロンで初個展「セーフティ・ゾーン」を開催した際、評論家の草森紳一が「日本的モダニズムへの正統な反論である」と『カメラ毎日』で評したように。

いま『SAFETY-ZONE 1961-1991』を開くと、曖昧さよりも時代と社会の空気が生き生きと感じられるのは、そのためだ。新倉は本書以降も変わることなく、『成田空港で』『湘南と軽井沢』『ワンダフルストリート』『いい日、ハピネス』など多くの写真集を刊行し、社会と時代とを独自の眼差しで見つめ続けている。

 

新倉考雄(にいくら・たかお)

1939年東京都生まれ。桑沢デザイン研究所写真研究科卒業。大辻清司に師事。主な写真集・著書に『私の写真術―コンポラ写真ってなに?』『成田空港で』『湖南と軽井沢』『NEWYORK 1995-2002』『ワンダフルストリート』『まちだ―Wonderful Street』『DIZZY NOON 厚木飛行場五月九日1965』『灼熱の港町』などがある。

 

■参考文献

新倉孝雄『私の写真術 コンポラ写真ってなに?』(青弓社 2005年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1969年4月号「桑原史成、中平卓馬、高梨豊、新倉孝雄、嬉野京子「座談会コンポラかリアリズムか」
『日本カメラ』(日本カメラ社) 1991年7月号「写真集・本」
『「写真の会」会報』(写真の会 2006年)「境界線上の人を撮る 新倉孝雄さんに聞く」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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