【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.46 懐かしくも新しいネイチャーフォトの誕生 今森光彦『里山物語』(新潮社、1995年) 鳥原学
1990年代、今森光彦は一冊の写真集で、日本のネイチャーフォトの枠組みを広げた。動植物の生態撮影ではなく、日本独自の「里山」という生態系(エコシステム)のあり方を明るい風景写真で示したのである。人の暮らしとともにある自然、それは日本人の自然観の重要な一端を明らかにする発見だったのである。
美しい風景の裏に
「里山」という言葉は、懐かしい響きを持っている。連想されるのは、鄙(ひな)びた村々とその周りに広がる雑木林、あるいは天に至る階段のような棚田だろうか。いまや失われつつある日本の農山村の暮らし、その象徴的な眺めが浮かんでくるのである。
とはいえ、里山にこうしたイメージが定着したのは、どうやら古いことではないらしい。もともと一部の生態学者や森林研究の専門家に使われていた学術的な用語であり、暮らしに必要な燃料を得る「薪炭林(しんたんりん)」や農業空間を指していた。この硬質な概念をわかりやすく噛み砕き、懐かしくも美しいヴィジョンを与えたのが今森光彦であった。
今森はこの里山をテーマとして写真集や写真展、あるいはハイビジョンによる映像作品、NHKで繰り返し放送されている『映像詩里山』など多面的なメディア展開を続けてきた。近年は里山の保存と再生にも積極的にも取り組み、その活動は広く支持されている。
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振り返ればその起点は新潮社の雑誌『マザー・ネイチャーズ』の1992年夏号より始まった 連載「里山物語」にある。この人気コンテンツは1994年に『マザー・ネイチャーズ』から後継誌『シンラ』に舞台を移し、「里山に住む日々」、「新里山物語」とタイトルを変えつつ断続的に翌年末まで続けられた。
連載にかける今森の思いは、大きかった。初回の冒頭においた次の定義にそれが垣間見える。
「里山―原生の自然と人里とをつなぐ、奥山、雑木林、田畑、人家など日本古来の農業環境のことをいう」
注目してほしいのは、まず「原生の自然と人里をつなぐ」という部分で、里山を薪炭林や農業空間に特定していない点だ。今森はその範囲をグッと広げ、自然と人の暮らしのサイクルが循環的に影響し合いながら、持続的なバランスを保ってきた圏域として捉え直している。加えて、「日本古来」 としていることも重要である。歴史的に固有な自然観に立ち、その連続性の中で、包括的にこの空間を見ることを宣言しているからだ。
実際、今森の撮影対象は多岐にわたっている。季節に応じて表情を変える雑木林や棚田の風景、そこで営まれる昆虫たちの生態。さらに農作業や年中行事を通じて、里山を保ってきた人々の伝統的な労働や暮らしの様相も含まれている。
撮り方も一様ではなく、対象とその状況に応じて柔軟に切り替えている。クローズアップで小さな生命を見つめたかと思えば、高い場所かから里山全体の風景を俯瞰し、あるいは人の目の高さでカメラを構えている。多様な視点を組み合わせ、時間と空間の連続体としての里山が育む生命の諸相を、立体的に浮かび上がらせている。
だが、なにより驚くのは、今森の撮影範囲がさほど広い地域ではないことである。主たる撮影地は、琵琶湖を見渡す比叡山の麓、今森がアトリエを構える滋賀県の仰木町の周囲にとどめている。実はこの辺りは、写真家自身が生まれ育った地域からも近い。
つまり、馴染み深い土地との個人史的な関係を通じて、エコシステムとしての『里山物語』が見いだされているのである。
生態写真ブームを経て
こうした成り立ちを持つだけに、里山についての記憶はどれも明確な輪郭をもって語られている。『里山物語』 のエッセイ部分を読むと、その鮮やかさに驚くはずだ。
なかでも印象深いのは連載初回に掲載された、高校一年生の夏休みの思い出を書いた「ため池の主」だ。ある日、今森少年がため池で捕まえた体長6センチほどのタガメを、その翌日、山を隔てた別のため池で見つけたというエピソードである。
右後脚が欠けていたその個体を再度見た時、この水辺に棲む小さな昆虫が、夜間に500メートル以上もの距離を飛行している。その小さな事実が、里山全体が昆虫たちの生活空間であることに気づかせられた。この体験によって今森は「人の匂いがする農業環境の中で被写体を発見しようと思うようになった」と記している。
ただし、この時点では、まだ写真家を志してはいない。カメラを手にしたのは高校3年生で、本格的に写真に目覚めたのは近畿大学に入ってからである。学生時代はアルバイトで旅費を稼ぎながら、昆虫を求めてインドネシアの熱帯雨林に通った。このとき熱帯の棚田を見て故郷の風景との共通点を見出したことが、その後の進路に影響を与えたという。
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やがてフリー写真家として活動を始めたのは1980年、26歳のときである。それは「ネイチャーフォト」というジャンルが、新たに脚光を浴び始めた時期とちょうど重なっている。当時のさまざまな社会的背景が、日本人に自然を凝視することを要請していた。
その背景のひとつは、自然環境の悪化に対する批判である。公害病に代表される汚染の広がり、あるいは村落の過疎化と開発による農山村の荒廃などが表面化し、理想的な自然のあり方として美しい風景写真や野生生物のイメージが求められるようになっていた。前田真三、竹内敏信によって風景写真の新しい波が到来していた。
また動物に関する学術研究の進歩、なかでも動物行動学が優れた成果を挙げていたことも大きな要因だった。この動物行動学は、動物の持つ本能と学習のシステムについての学問であるため、フィールドワークによる精密な観察記録が欠かせなかった。動物学者にとって、写真家は対象動物の記録を担当する重要なパートナーとなっていたのである。
その写真家を支える撮影機材も完成の域に達していた。一眼レフボディの電子化をはじめ、接写システムや超望遠レンズ、用途に応じた照明機材など、ラインナップが充実していった。これまで捉えられなかった生態が描写できる環境が整っていった。
何より彼らが活躍すべきメディアも生まれていた。1973年に平凡社から創刊された動物雑誌『アニマ』では、キタキツネの竹田津実、カワセミの嶋田忠、猛禽類やカモシカを追いかけていた宮崎学などの新たな才能が見出された。彼らもまた動物研究者との共働によって、斬新な動物写真を発表している。同誌の編集長を務めた澤近十九一は、そのころの興奮を次のように語っている。
「研究者が研究したことをカメラマンがどう生き生きと表現するか、カメラマンが時間をかけて撮影したものを研究者が研究にどう役立てるか、そのコラボレーションが無茶苦茶面白かった」(「雑誌「アニマ」の時代」、『日高敏隆の口説き文句』より)
新鋭の昆虫写真家として認められつつあった今森も、やはり最盛期の『アニマ』編集部に顔を出している。ここで多くの写真家や研究者と出会い、有益な情報やアドバイスを得たが、どこか違和感を覚えることもまた少なくなかったようだ。
なぜなら写真家の多くが 「図鑑」を作ることを目標にしていたからだ。何を被写体に選ぶのかという対象の設定によって非常に細分化し、自然全体を眺める世界観を持っている人が少なかった。編集部から求められる写真も、画面から人や人工的なものを極力排除したイメージだった。それは今森が漠然と目指していた写真とは違っていたのである。
新しいネイチャーフォト
1989年、今森は「南米のアリ植物」で、動物写真家の登竜門とされていた第6回アニマ賞を受賞した。同年7月号で発表された作品には数ページにわたり、アマゾンの熱帯植物セクロピアとアステカアリとの共生関係が、色彩豊かに捉えられている。今森の受賞コメントには、故郷の滋賀県と同じように、熱帯のジャングルでも 「人間と昆虫とは共有自然をもっている」 ことを実感したとある。さらにこのテーマを核として、今後も写真に取り組んでいきたいという抱負が語られている。
このころから、ネイチャーフォトに求められるものも変わり始めていた。同じ号に掲載された生態学者の伊谷純一郎のエッセイ 「いずれが実像で いずれが虚像なのか―動物写真へのひとつの問いかけ」はその点を示唆している。伊谷は精密な写真が貴重な学術的な発見をもたらしたことを認めつつ、次のように述べている。
「写真というのは、自然から写しとった小さな薄片にすぎない。しかしそれは、技術的に行きつくところまでいってしまっており、それゆえ完璧にすぎるのである。あまりにリアルすぎるが故に、人間性の喪失につながるのではないかという疑問を、私は動物写真についても問いかけたいのである」
生物の姿が克明に可視化されていくにつれ、かつての人々が自然に抱いていた不思議さや畏敬の念が拭い去られつつある。このままいけば、科学的な解明は進むが、やがて自然との関わり合いをベースに成立してきた文化の連続性が途切れるのではないか。畏敬や宗教的な背景も薄くなるかもしれない。日本を代表する生態学者はそう懸念したのである。写真や映像による分析的な視点とともに、人と自然との繋がりの広さと深さ、それを再度包括的に見つめる視点が必要となっていた。
多くの写真家を輩出した『アニマ』が休刊したのは、この4年後であった。印象的なのは、前出の澤近が同誌の行き詰まりのひとつに 「今森光彦さん、星野道夫さんの次が出てこない」ことを挙げている点である。このような自然観の変化とともに、自然誌的な今森の仕事は高く評価されていったのである。
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じっさい今森の仕事は充実したものになっている。自宅の周辺の昆虫を数年にわたり写し続けた『今森光彦昆虫記』(福音館書店)、8年間をかけてアフリカにフンコロガシを追った『写真昆虫記スカラベ』(平凡社)と、代表的な著作を相次いで発表したのである。
ことに『写真昆虫記スカラベ』は、博物学や民俗学の視点から、この虫を神と崇めた古代エジプト文明を探った野心的な作品である。今森自身、この取材を機に「生態写真という意識で昆虫に向き合うことからは卒業した」と振り返る。はっきりと複眼的な視点で自然を語り始めたのである。
そして1992年、念願だったアトリエを仰木町に構え、腰を据えて「里山物語」の連載が始まる。同シリーズの反響は連載中からすでに大きく、木村伊兵衛写真賞の受賞対象作品となり、連載終了と同時に写真集『里山物語』が出版されたのである。
今森が表現してきたことを突き詰めれば、その大本にあるのは日本のある地域の風土が培ってきたローカルな自然観であり、写真家自身にまつわる個人的な記憶ということになる。それは小さな経験だが、世界のあり方を測る普遍的な〝ものさし″にもなり得るはずだ。この写真家のその確信が、いまや国境を越えて多くの人に共有されている。
今森光彦(いまもり・みつひこ)
1954年滋賀県生まれ。近畿大学卒業。1980年よりフリーランスとして活動を開始。身近な自然から、海外の辺境地までを取材。その後は、人の暮らしと自然の関わりを包括的に捉えた作品をライフワークとしている。切リ紙作家、絵本作家としても活躍。映像作品にも積極的に取り組み、NHK制作による「映像詩 里山」(今森は取材協力)はイタリア賞を受賞。代表的な写真集に『今森光彦昆虫記』『写真昆虫記 スカラベ』『里山物語』『湖辺(みずべ)』『神さまの森、伊勢』などがある。アニマ賞、木村伊兵衛写真賞、土門拳賞など受賞多数。
参考文献
小長谷 有紀、山極寿一 『日高敏隆の口説き文句』(岩波書店 2010年)
『アニマ』(平凡社)1989年7月号 「第6回 アニマ賞受賞作品 今森光彦 南米のアリ植物」
『アニマ』(平凡社) 1990年7月号 「私のフレーミング」
平カズオ (司会)、吉野信、今森光彦、小林安雅『フォトコンテスト』 (日本写真企画) 1999年8月号
関次和子 インタビュー/構成「月刊 今森光彦 作家生活を語る」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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