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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.38 写真家の業が生んだ宇宙地図 原芳市『曼陀羅図鑑』(晩聾社、1988年) 鳥原学

青春時代に誰もが「性への目覚め」を体験するものである。写真家の原芳市もそうであったが、少しだけそのインパクトが違っていた。ひとつの通過儀礼で終わらず、写真家としてその衝動を追い続けた。そして、ついにモノクロプリントが織りなす曼陀羅を作り上げたのである。

 

宇宙の地図

1988年に出版された、原芳市の『曼陀羅図鑑』は、実に分厚い写真集だ。それは収録されている写真が 300点にも上るからなのだが、ページを繰っていくと、それ以上の厚みにさえ感じられてしまう。見返すたびに印象がずいぶん変わる。決して見尽くしたとは思えない、そんな写真集なのである。

ときには心に救いをもたらしてくれることもあれば、現実とはひどく残酷なものだという気にさせられることもある。曼陀羅というだけあって、なんとも複雑で多層的な魅力を持った作品というほかはない。

そんな本書で最も多く、また構成上の軸となっているのは女性の裸体である。被写体となった彼女らの多くがなんらかの風俗産業に関わる人たちだということは、容姿やポーズ、なにより雰囲気からすぐにわかる。

そのようなイメージを核として、写真家自身の家族を含め、出会った人々の肖像や歩いた街区の風景が本書を構成している。およそすべての写真に共通する印象は、社会の流れから取り残されたものの、つましい生活実感というものである。

実際、原は被写体の「生活の息づかい」を大切にしたと話している。だからヌードでは撮影の際、「ストリッパーなら楽屋、風俗嬢だと彼女たちの自分の住んでいる部屋とか」を主なロケーションに選んだという。バックヤードやプライヴェートで日常的な場所で裸になった彼女たちは、しかし非日常なエロティックなポーズをとってじっとこちらを見返してくる。

もちろん、ほかのどの写真にも、ひとつの画面のなかに、そのような対照性を持っている。言葉にすれば「聖」と「俗」、「愛しさ」と「嫌悪」、「無垢」と「汚濁」といった概念に置き換えられるかもしれない。正反対の要素が、活き活きとした緊張感を与えている。1980年代の原は、曼陀羅をキーワードにそんな写真の数々を撮り、縄のように撚り合わせていた。それは孤独で、同時に自由な時間だったのではないかと思う。

原の作品が抱えていた構想は、驚くほど大きい。そう気づいたのは写真評論家の平木収だった。平木はその試みの難しさをこう指摘している。原は「世界の、いや、彼が生きているこの世の図像を、宇宙の地図を自らの手で描き上げようとしている。これは不可能な完成目標を抱え込んだといわねばならない」のだと。なぜならそれは「釈迦やキリストが挑んだのと同じ目標」といえるからだ。

ところが原は「宇宙の地図」を、『曼陀羅図鑑』として完成させてしまった。だが、それは決して聖人のなした神業ではなく、写真を始めたころから目指していた地点に、ようやく辿り着いたといった感があるのである。本書に向かう旅は、思えば10代のころ、性への目覚めとともに始まっていた。じつに迂遠な道のりだったのである。

 

性に目覚めるころ

原芳市は1948年に、東京港区の芝で床屋を営んでいた家庭に生まれている。兄と姉がいたが、腕の良い職人の父は、勉強のできたこの末っ子をたいそう可愛がった。原は、父に手を引かれて競馬や競艇、またパチンコ屋などに連れて行かれたことも良い思い出だったと語ってくれた。

だがその優しかった父は、小学6年のときに亡くなっている。そこで義務教育を終えた原は、手に職をつけるために、地元の芝浦工業高校の電気科に進んだが、そこは事実上の男子校である。後に彼は、「思春期の私は女性に対して膨大な量の幻想を培養させることになった」と振り返るように性への衝動を養ったのである。

今であれば、その幻想を叶える手段はいたって簡単である。インターネットに接続すれば過激な写真や動画を無制限に見ることができるのだから。だが、当時はとにかくハードルが高かった。人の目を気にしながら成人映画館や書店、あるいはヌード劇場というリアルな空間に直接足を運ばなければならない。その後ろめたさを紛らわすため、当時の青少年たちは、ときに同士を募り、見知らぬ街まで遠征することもあった。

原もその例に漏れない。高校2年で同級生たちと離れた町の映画館まで、初めてピンク映画を見に行った。念願だったストリップ劇場に足を踏み入れたのはその翌年のことで、やはり友人と旅した長野県湯田中温泉である。

ところが、その温泉街の粗末な劇場で初めて踊り子を見たとき、原はひどく落胆した。舞台に現れた踊り子は、劇場の入り口に飾ってあったブロマイドとは全くの別人で、しかも写真よりずっと年配だったのである。幻想は現実によって打ち砕かれるものと、相場は決まっている。

ところが、暗い舞台で踊る彼女らを見るうちに、原の落胆はすっかり感動へと変わっていった。その時には感動の理由さえわからなかった。だが後に「ぼくは、全女性のリアリティーを見せられてしまったような錯覚を味わっていた」のだと気づいたと語っている。踊り子の一人ひとりに、この舞台に立つまでの経緯と理由があることを、原は舞台を見ながら感傷的に想像していたのである。もちろん、これもまた女性に対する幻想のひとつに過ぎない。しかし稚拙でセンチメンタルであっても、人間を表現する写真家として基本とさえ言える、「見られる側」についての想像力がすでに備わっていた。

原が写真学校に入学したのはそれから2年後、1968年の秋である。大学受験に2度失敗し、すでに20歳になっていた原にとって、それは消去法による選択だったようだ。また深夜番組で見た、篠山紀信や立木義浩といった当時を代表する若い写真家たちへの関心もあった。何よりカメラなど、押せばその通りに写るものだと容易に考えてもいた。

ところが入ってみるとそんな認識はすぐに改まるほかなかった。当時、先鋭的な写真家として脚光を浴びていた中平卓馬に傾倒していた同級生の影響もあって、中平や森山大道などのシリアスで挑発的な表現に興味を持つようになった。

写真家としての適性も、早くから示されていたようだ。八王子の福祉施設を3か月取材した写真は講師に激賞され、銀座に開設されたばかりのニコンサロンへの応募を強く勧められた。当時、ニコンサロンでの個展は有望な若手写真家の登竜門とされていた。結果は落選という口惜しさを味わうのだが、原はそれで良かったと私に言った。誰かのための広告写真でも社会を変えるドキュメントでもなく、個人の世界観をひたすら表現する道こそが、彼の生き方になったのだから。

やがて専門の1年間が終わると、原は貯めていた授業料を一眼レフの購入資金に充てて、学校を辞めた。それからの数年間、60種以上もアルバイトを転々と変えながら、旅に出かけては写真を撮り続けた。その対象にはサーカス、旅役者、ちんどん屋など、どこか懐かしく、人間的な哀歓を帯びている大衆芸能が多い。それらはもちろんストリップとも共通する性格である。

 

ジプシー・ローズを探して

原は1973年に撮りためた写真をまとめ、初の個展「東北残像」をキヤノンサロンで開催している。ただ、期待していたほどの反応はなかった。そこで自分にしか撮れないものは何かと自問し、やはりストリップしかないと結論づけるに至った。

当時E・J・ベロックの作品を知り、衝撃を受けていたことも影響していた。べロックは1910年代のニューオリンズで、娼館の女性たちを撮っていた写真師である。彼の写真は店にかけられ、多くの男たちを誘ったのだろう。だが、そんな仕事の写真とは別に、彼は室内で一人くつろぐ女性のイメージを多く残している。どうやらそれは、彼の秘密のコレクションだったらしく、画面には親密さと謎めいたエロスがあふれていた。べロックは無名の写真師として1949年に没したが、あのコレクションが9年を経て再発見された。そして、当時新鋭写真家として注目を集めていたリー・フリードランダーによって、ニューヨーク近代美術館に紹介され、1970年に同館で個展が開催され、大きな反響を呼んだのである。『曼荼羅図鑑』には、ベッドに横たわる女性の印象的な写真が収録されているが、それはベロックのよく知られた写真をモチーフにしたオマージュなのである。

それともう1枚、原にとって大切な写真がある。それは秋山庄太郎が1950年代半ばに撮影した伝説のストリッパーと呼ばれた、ジプシー・ローズのポートレートである。秋山が撮ったのは、踊り子としてはすでに盛りを過ぎた頃であったが、酒場の椅子にもたれた、闇から浮かび上がる彼女の表情は、凛とした色気とプライドを放っている。退廃的な雰囲気のなかに人間の魅力に強く惹きつけられていたのである。

ストリッパーが撮りたい、いや撮らねばならない。1974年早春、思いつめた原は浅草ロック座に飛び込むも、簡単に断られてしまった。それでもなんとか人づてに、ストリップ界の小さな業界紙『芸報ジャーナル』にカメラマンとして入社することができた。そのさい、初めて劇場の楽屋に足を踏み入れ、大きな感動を味わったと語っている。

ところが初仕事として撮影した踊り子の写真は、社長に破り捨てられてしまった。このほうがリアルだと弁解する原に「何か勘違いしているんじゃないか」という言葉が飛んだ。リアルという言葉を使い、踊り子たちを自分の写真にしたことを正当化するのは、きっと若さゆえの情熱からだ。ただし、それは彼女らのナルシシズムや自尊心、あるいは商品価値を全く理解していないと自白したようなものだ。翌年に『日本カメラ』で発表した楽屋の踊り子を撮った「裸婦偶像」の自作解説に、「僕を拒否し続けた空気」という一節があるように、原自身もそれを肌で感じていたはずである。

そんな状態だから、原は半年に満たずして会社を辞し、以降フリーとしてストリップを撮り続けることになる。そして1980年、30枚の組み写真「ぼくのジプシー・ローズ」で準太陽賞を獲得する。その間の写真家としての成熟度は、審査員を務めた大辻清司の「同じ地平で見つめあいながら生まれた、彼女たちの写真」という講評が端的に表していよう。「見る者」と「見られる者」の水平な関係を、彼は獲得していたのである。さらに1982年には『ストリッパー図鑑』(でる舎)、 1984年には大型カメラで撮影した『淑女録』(晩聲社)を出版するとメディアにも取り上げられるようになり、ストリップ写真家として知られていった。

といってすべてが順調だったというわけではない。写真集に掲載された女性たちからのクレームや、その関係者からの脅しもあった。そのたびに真摯に頭を下げてまわったのは、過去や背景を曝されたくないという彼女らの気持ちがよくわかるからだ。ただし、それでもなお写真家は撮り、発表せずにはいられないという業を背負っているのだと、原は自覚していた。

『曼陀羅図鑑』は、自身の私生活や周囲さえも、その業に巻き込むことで生まれたといえよう。だから本書について原自身は「何の役にも立たない」とか「誰ひとりとして喜んでくれない」など、ネガティプな言葉で語った。それは人が生きることの不確かさやどうしようもない複雑さ、何より孤独が実に率直に描出されているからだ。それは開きが見抜いたように、「生きているこの世の図像を、宇宙の地図を自らの手で描き上げよう」と試みる人に必ずついて回る、いわば作家としての業なのである。そして、その深い葛藤こそ『曼陀羅図鑑』の世界を輝かせ続けているのである。

 

 

原芳市(はら・よしいち)

1939年福井県生まれ。1963年、福井大学工学部卒業。ポーラ化粧品本舗を経てフリーに。1971年~1996年、東京綜合写真専門学校で教鞭を執る。主な作品集に『俗神』『ヒロシマ』『宴:Party』『ヒロシマ・モニュメントⅡ』『ヒロシマ・コレクション』『砂を数える』『新・砂を数える』『BERLIN』『FUKUSHIMA 2011―2017』がある。土門拳賞、太陽賞、伊奈信男賞など受賞多数。

参考文献

『ぼくのジプシー・ローズ』(ヤゲンブラ選書 1980年)
『創』(創出版) 1985年8月号 原芳市 「新宿歌舞伎町―性風俗の女たち」
『日本カメラ』(日本カメラ社) 1987年4月号 平木収「現代写真の元気な冒険者たち4 現世の「曼荼羅」を描く 原芳市」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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