クリエイティブ圏外漢のクリエイティビティを感じる何か vol.52

おはようございます。こんにちは。こんばんは。

梅雨入り前に夏日を観測するのには慣れてきましたが、ついには台風も到来して四季における夏の位置が曖昧な昨今。

そういえば、年中フェスが開催されているし夏の定義もあいまいになっているので、 いつからいつまでを “夏フェス” と呼ぶべきなんだろう? そしてフェス呼称は一般化したが春フェス、秋フェス、冬フェスって使われていない、もしくは夏フェスほど一般化していないのはなぜなんだろう?

ともあれ本日ご紹介するのはこの「クリエイティブ圏外漢のクリエイティビティを感じる何か…」で2022年にも記事にしている早めの夏フェス、「FESTIVAL FRUEZINHO 2026」だ。

FESTIVAL FRUEZINHOとは

 まず「FRUEZINHO」の読み方から。

フルージーニョ、と読む。

「ZINHO」はポルトガル語の接尾語で「小さい、かわいらしい」という意味。

「FRUEZINHO」は「ちいさなFRUE」という意味で、2017年から静岡県掛川市で開催されているFESTIVAL de FRUEのスピンオフ企画だ。

毎年、夏至のころに立川ステージガーデンで開催されている。

今年は6月13日に開催されたばかりである。

面白いのが立川ステージガーデンが「FESTIVAL de FRUE」の半屋外のメインステージを見て設計されたのではないかと思うくらいほぼ同じ作りだということ。

大自然の中での「フェス」ほど過酷ではなく、また指定席に座りじっと聴く「コンサート」ほど固くなく、集まる人も適度な数で快適かつ自由な空間と時間を過ごせる音楽フェスティバルだ。 「魂のふるえる音楽体験を」というコンセプトのもと動いている。

サマソニが33万人を目指す人口に膾炙した巨大なフェスだとしたら、FRUEZINHOは「33万人に見せたいものを先に1000人に見せる場所」に近い。規模が小さいのではなく、射程が違う。

今年のFRUEZINHOはというと……

Marc Ribot Y Los Cubanos Postizosは多幸感がたまらず、

Arsenal Mikebe ft.HHYは狂騒と生命力がたまらず、

Sam Gendel & Sam Wilkesは音楽によるほぐしがたまらず、

GEZAN ft. Arsenal Mikebeはマリアージュがたまらず、

井上園子with 西内徹は緩やかにも歌詞の先鋭感がたまらず、

TERRY RILEYは神々しさがたまらず、

岡田拓郎は想像を超えるグルーヴがたまらず。

つまり、最高すぎるし今年も魂が揺さぶられました。 

結論が先走ったが出演アーティストを一組ずつご紹介していこう。

Marc Ribot Y Los Cubanos Postizos

まず名前がおかしい。「マーク・リーボウと偽キューバ人たち」という意味だ。

「偽キューバ人」というバンド名をつけているニューヨークのバンドが、キューバ音楽の巨匠の楽曲を演奏しているという状況がそもそも相当ねじれている。

しかしそのねじれ方がまったく嫌みではなく、むしろ誠実に見える。

これがマーク・リーボウという人物の奇妙な説得力だと思う。

マーク・リーボウというギタリストは、トム・ウェイツのアルバムで弾いていた人、という文脈で語られることが多い。

それだけでも相当な経歴だが、実際にはもっと広い場所にいる。

ルー・リードのバックを務め、エルビス・コステロと組み、ジョン・ゾーンの即興プロジェクトに参加し、連帯労働組合の活動家としても知られる。とにかく色々なところにいる人だ。

Marc Ribot Y Los Cubanos Postizosは、90年代後半にNYで最も観に行くべきバンドのひとつになった。キューバの音楽家アルセニオ・ロドリゲスの楽曲をベースにしたそのパフォーマンスは、熱狂的なものだったとされている。 

アルセニオ・ロドリゲスというのはキューバ音楽の革新者で、ソン・モントゥーノというスタイルを確立した人物だ。マーク・リーボウはこの人物の音楽に惚れ込み、ニューヨークのダウンタウン・シーンのメンバーを集めて「偽キューバ人」と名乗り、トリビュートバンドを作った。

ギター、ベース、コンガ、オルガンという削ぎ落とされた編成で、大編成のアレンジをコンパクトに再構築し、ヴィルトゥオーゾ的なソロを抑えてリズムと繊細なアンサンブルを前面に出したEntertainment Weeklyはこれを「故アルセニオ・ロドリゲスへのさりげないトリビュート」と評した。 

「さりげない」というのが重要で、このバンドは本物らしさを目指していない。「ニューヨーク人がキューバ音楽を愛した結果こうなった」という、その率直さがそのまま音になっている。「どんな局面でもリーボウは洗練された知性と過激なまでの独創性で人々を魅了し、異次元のキューバン・ソウルを生み出す」という評価はあながち誇張ではない。 

2024年にハンブルクのエルプフィルハーモニーでの特集公演を機にプロジェクトが再始動し、NYやオスロ、ロンドン・ジャズ・フェスティバルでもソールドアウトを記録した。 

今回はブラッド・ジョーンズ、EJ・ロドリゲスらオリジナルメンバーに鍵盤奏者のブライアン・マルセラを加えた5人編成で来日し、15年ぶりの日本公演となる。 

15年ぶり。それだけで行く理由になる。

Arsenal Mikebe

今回が初来日のウガンダ・カンパラ郊外を拠点とするパーカッション・アンサンブルで、Nyege Nyege(ニェゲ・ニェゲ)コレクティブの一員だ。

伝統的なリズムの実践を、電子音楽の力強さと精度に匹敵するような生の音響に変換することを追求している。 

Nyege Nyegeはウガンダの首都カンパラを拠点とする、東アフリカの伝統的な音楽と現代の電子音楽を融合させたアンダーグラウンドで革新的なサウンドを世界に紹介するレーベルだ。 近年、世界中の音楽好きの間でじわじわと、しかし確実に名前が知られてきている。

Arsenal Mikebeのサウンドを説明するのは難しい。アコースティックと電子音楽の境界を自由に行き来し、ポリリズムに歪んだ声と幽玄なシンセドローンを融合させている。 これだけ聞いてもわかりにくいかもしれないが、実際に聴くとそれ以上に言葉にならない。

しかも楽器が特殊だ。ウガンダ人の彫刻家ヘンリー・セガムウェンゲが製作した特注のパーカッション・マシンを使用しており、これはローランドの名機TR-808をリバース・エンジニアリングして鋼鉄で鋳造したものだ。 

TR-808とは何かというと、ヒップホップやR&Bにおけるドラムマシンの代名詞的な存在だ。1980年代以降のポップミュージックを縁の下で支えてきた電子楽器で、現在でも多くの楽曲で使われている。Arsenal Mikebeはその808の内部構造を解析し、金属を溶かして物理的な打楽器として再現した。つまり「電子音楽を生演奏にするための装置」を手作りで作ったということだ。

これによって何が起きるかというと、電子音と有機的な音の境界を流体のようにすり抜けるビートが生まれる。 アナログなのかデジタルなのかわからない、生演奏なのか打ち込みなのかわからない、そういう音が出る。

スーツ姿で向かい合い、共同製作したドラムキットを演奏するArsenal Mikebeのコンサートは、野性的で制御不能、完全に生きているドラム彫刻の前に立つような体験だ。 

「彫刻の前に立つ」という表現がこれほど的確に使われることも珍しい。実際に映像を見ると、3人がスーツを着て向かい合い、金属の打楽器装置を叩きながら声を出している様子は、音楽の演奏というよりは儀式に近い。そして今回、このArsenal MikebeはGEZANとのコラボセットも披露する。これについては後述する。

PANDIT PRAN NATH 30th Urs Celebration with SARA, YUMIKO OHNO and TERRY RILEY

このタイトルが長いことには理由がある。一言では説明できない出来事が、ここに起きているからだ。

まず「パンディット・プラン・ナート」について。インド古典声楽(ラーガ)の伝統を推進したミュージシャンで、ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、ドン・チェリーといった著名なアメリカのミニマリスト・ジャズ音楽家たちに多大な影響を与えた人物だ。 1990年代に亡くなっており、今年は没後30年かつ生誕110年にあたる。

次に「テリー・ライリー」について。1935年生まれで、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスらと並ぶミニマル・ミュージックの代表的な作曲家のひとりだ。2020年から日本在住の現在90歳、

テリー・ライリーは「In C」(1964年)によってミニマルミュージックの父として世界的に認知されている。また、北インド音楽の巨匠パンディット・プラン・ナートの弟子として、70年代初頭から20余年にわたって世界中に同行した。 

師匠の没後30年に、弟子がSaraと大野由美子とともに「師匠の生誕110年を祝う特別なセット」を演奏する。この状況を聞いて「それは行かなければ」と思わない人間に、私はあまり会いたくない。

齢90歳を迎えながらにして、いまなお枯れることのない神秘の源泉を浴びられる貴重な機会だ。 

「In C」という作品は、楽譜に書かれた53のモチーフを、演奏者が自由な回数・タイミングで繰り返していくという曲だ。何人で演奏しても良い、どんな楽器でも良い、という仕様になっており、演奏するたびに異なる作品になる。1964年の発表時、これは「音楽とは何か」という概念を根本から揺さぶった。その人が今も現役で日本に住んでいるという奇跡。

そして、パンディット・プラン・ナートの音楽がテリー・ライリーに与えた影響というのは、「In C」以降の彼のサウンドに深く刻まれている。インド古典音楽のラーガが持つ長い時間軸、ドローンの持続、即興の中の構造、そういったものがミニマルミュージックという西洋の文脈に溶け込んでいる。今回の演目はその接続を、師匠への敬意という形で音にする試みだ。

Sam Gendel & Sam Wilkes

「FESTIVAL de FRUE」「FESTIVAL FRUEZINHO」の常連であり顔でもある二人のSam。

Sam GendelはLAを拠点とする作曲家、プロデューサー、マルチ奏者で、エフェクターを駆使した独特なサックス・サウンドをトレードマークとしつつ、ジャズ、フォーク、ヒップホップなどを横断したサウンドを生み出している。 

Sam WilkesはLA出身のベーシスト、プロデューサー、コンポーザー。超絶演奏集団Knowerへの参加も経て、2018年に自身初のソロ作『Wilkes』を発表した。 

二人の出会いは2017〜2018年頃で、LAのスタジオでカセット4トラックに録音した音源が最初の共作になった。その作品は後にStones Throwから再発されており、グイグイと引き込むスピリチュアル・アンビエントジャズとも言うべき内容だ。 

しかしこの「スピリチュアル・アンビエントジャズ」という表現もあまり正確ではない。最新作ではコンピューターに歌わせたり、特徴的な不思議な音色のサックスやギターも打ち込みなのか生演奏なのか不明で、この不思議なバランスも全て計算された天才的なスタジオワークだ。 

「打ち込みなのか生演奏なのかわからない」というのは、Arsenal Mikebeとも共通する感覚だ。今年のFRUEZINHOはこの「どちらともつかない音の場所」に意図的に踏み込んでいる気がする。

PitchforkはSam Gendelを「LAのバブリングなアンビエント・ジャズシーンの主要なフィクスチャーのひとり」と評している。

二人のSamのライブは「ステージで何かが起きている」というよりも「空間が少しずつ変容していく」という体験に近いので興味ある方は空間の変化を感じにライブに足を運んで欲しい。

GEZAN ft. Arsenal Mikebe

先般日本武道館でのライブを大成功に収めた彼らだが、知らない人のために簡単な説明をするとGEZANは2009年に大阪で結成されたオルタナティブロックバンドで、独特の音楽性と破天荒なパフォーマンスで現行のレベルミュージックの担い手とされている。当初から自主レーベル「十三月」を主宰し、現代におけるDIYのあり方を実践してきた。

作品を重ねるごとにサウンドは多層的になり、シンセ、サンプル、ノイズ、環境音などが随所に散りばめられ、ダブ的なエコー処理やポストロック的なクレッシェンド、ドローンに近い持続音など多くの音楽的要素が混ざり合っている。それでも最終的には「GEZANの音」として着地する。

ボーカルのマヒトゥ・ザ・ピーポーは2026年2月に7枚目のアルバム「I KNOW HOW NOW」を発表し、3月14日に初の日本武道館公演を行った。 インディペンデントのバンドが武道館に立った、という意味は小さくない。

GEZANは2024年11月にウガンダで開催された「Nyege Nyege Festival」に出演し、そこで出会ったウガンダのパーカッション集団Arsenal Mikebeと日本の立川の屋内施設で合体するというミラクルな事態が起きた。

GEZANのカオスとArsenal Mikebeのリズムは初めから同じチームのように合体していた。こういう「何が起きるかわからない瞬間」のためにも音楽フェスがあるのだと再認識させられた。

井上園子 with 西内徹

井上園子は1998年10月17日生まれ、湘南在住。2022年にアルバイト先のライブハウスの店長の一声をきっかけに音楽活動を始めた。父のギターを携え、三畳一間から産み出された楽曲を神奈川のバーライブ、イベントを中心に歌うシンガーソングライターだ。 

両親の影響で聴き馴染んでいた60〜70年代のフォーク、ロック、ブルース、カントリー、ブルーグラスといったスタイルの音楽をベースに、日常の一コマを独特な視点で「言葉」に置き換えた唯一無二の世界観を持つ。 

初期中島みゆきを連想させる、という評もあるが、多くのフォーク世代の歌手が持っていた憂いやアンニュイとは異なり、決意の強さのようなものがある。21世紀にあってこの表現手段を選択する確信犯的な芯の強さと言えるかもしれない。デビューアルバム全編を弾き語り一発録音で作り上げた。 

FRUEZINHOというフェスのラインナップに彼女が入っているのは、ある意味でこのフェスの文脈のうまさを示している。Arsenal Mikebeがいて、テリー・ライリーがいて、GEZANがいる中に、茅ヶ崎のシンガーソングライターが「父のギターを持って」いる。この落差が、実は最も「魂がふるえる」瞬間を生むことがある。事実、西内徹の味でムーディーなサックスやフルートと彼女のギターに載せられた言葉はリリックとして一番揺さぶられた。

岡田拓郎

2012年に結成したバンド「森は生きている」で脚光を浴びて以降、ソロ活動、映画音楽、即興演奏、そして柴田聡子や安部勇磨ら数多くのアーティストのプロデュースや客演を通じてその多才さを発揮してきた。しかし彼の真骨頂は、ギタリストという枠をも超えた「音の再構築(ブリコラージュ)」にある。 

「ブリコラージュ」とはフランス語で、あり合わせのものを使って何かを作り上げる行為を指す。建築や文化人類学の文脈でも使われる言葉だが、岡田拓郎の音楽を表すのに妙に合っている。彼の作るものは常に「あらかじめそこにあった何か」と「そこになかった何か」が奇妙な角度で組み合わさっている。

2022年の『Betsu No Jikan』では即興演奏と編集を高度に融合させ、2025年以降はLAのレーベル「Temporal Drift」より世界リリースを展開している。 

2026年の最新作『Konoma』では、岡倉天心の『茶の本』に記された「木の間(このま)」という言葉を冠し、自らのアイデンティティと向き合った。 

「木の間」とは、木と木の間の空間、つまり「間(ま)」のことだ。岡倉天心が茶の湯において「空虚の中にこそ本質がある」と語ったのと同じ文脈で、岡田拓郎は自分の音楽における「間」を問い直している。日本在住の日本人ミュージシャンが、LAのレーベルから世界に向けてリリースし、その内容が岡倉天心の哲学を起点にしている、という状況がすでに面白い。

これだけバラバラなものが一日に同じ場所で鳴る。それでいて不思議なことに、このラインナップを見渡したとき「バラバラだ」とはあまり感じない。全員、ジャンルという箱からはみ出しながら、音楽の本質みたいなところを各自の方法で掘っている。だからこそ同じ場所に集まれる気がする。サマソニが33万人動員を目指す夏に、立川では同じ2026年の同じ夏に、テリー・ライリーが師匠への鎮魂を演奏し、ウガンダのパーカッション集団が初来日し、湘南の弾き語りシンガーが父のギターを持って立つ。

「魂のふるえる音楽体験を」というコンセプトを言葉にするのは簡単だが、実際にそれを年ごとに実現できているフェスというのは、世界中を見渡してもそう多くない。FRUEZINHOはそれができている数少ない場所のひとつだ。

手ぶらで行ける。日帰りできる。立川から歩いて行ける。

行かない理由が見当たらない。興味を持った皆様はぜひ来年。または今年中に「魂のふるえる音楽体験」をされたい方は10月31日、11月1日のFESTIVAL de FRUEをご検討されてみては?

FRUEZINHO 2026 公式プレイリスト(Spotify)

 

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