Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー vol.8

学校法人呉学園 日本写真芸術専門学校には、180日間でアジアを巡る海外フィールドワークを実施する、世界で唯一のカリキュラムを持つ「フォトフィールドワークゼミ」があります。

「少数民族」「貧困」「近代都市」「ポートレート」「アジアの子供たち」「壮大な自然」、、

《Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー》では、多様な文化があふれるアジアの国々で、それぞれのテーマを持って旅をしてきた卒業生に、思い出に残るエピソードをお伺いし紹介していきます。

2万枚への弔辞

PFWゼミ11期生 小山 幸佑

2016年8月。海外FWでの旅も終盤に差し掛かり、各地のホテルを転々とする暮らしにもすっかり慣れてきた頃。その日はちょうど9カ国目の香港を発つ移動日だった。

長くイギリスの植民地であった香港の市街には、ロンドンにあるのと同じような真っ赤な2階建てのバスが走っていて、せっかくなら一度あれに乗ってみたい、と思っていた私は、それまで滞在していた重慶大厦の狭くてお湯の出ない最低のホテルをあとにして、次の目的地である上海へ向けて荷物を抱え香港国際空港行きの2階建てバスを待っていた。

バスに乗り込むと、まずは料金を支払い、それから背負っていた荷物を共用のバゲッジスペースに置いた。3月の出発前に新品で用意したバックパックは、PCやHDD、衣類、各地で購入した思い出の品などがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、その時点ですでに150日を超える旅を共に過ごして所々がほつれてきていた。いつものように手すりにワイヤーを通し、それをダイヤルロックでしっかり固定して防犯対策をすると、カメラを肩に斜めがけして、パスポートなどの貴重品や今から乗る飛行機の航空券を入れたもうひとつの小さなバックパックを手に持ち、2階席に座るために狭い螺旋階段を上った。

そこからの眺めは「最高」だった。路上に無数に突き出た大小色とりどりの眩しいネオン看板が、少し手を伸ばせば届いてしまうのではないかと思うほどの頭上スレスレを前から後ろへと次々に流れていった。チカチカする目で、湿気を含んだ風とバスのエンジンの熱気と振動の中から見下ろす香港の街並は、昔観た極彩色の映画の世界そのもので、今からここを発つことを少し寂しくさえ思っていた。いつかまた来たい。次は上海だ。中国が舞台の映画は何があっただろうとか、どんな所なんだろうとか、うまく写真が撮れるだろうかとか、その時はせいぜいそんなことを考えていたと思うが、実はこの辺りからあまり記憶がない。やがてバスは市街地を抜け開けた道路を走り始め、揺れもいくらか収まってきた頃、いつの間にかウトウトと眠ってしまっていたから。…ではなく、このあと起こる、その後の人生でずっと忘れられなくなるあの出来事のせいで。

 

どれくらい眠ってしまっていたのか、思っていたよりも少し早く到着したような気がした。ついさっきまでのむせるような異国情緒とは逆に、空港というのはどこの国も同じようなくすんだ色で殺風景だった。時計を見ると、飛行機の搭乗まではまだ3時間ほどの余裕があった。そのまま起き抜けのボヤっとした頭で立ち上がると、ふらふらとバスの階段を降りて、荷物置き場に自分のバックパックを取りに行った。確かこの手すりにくくりつけたはずだ。いや、あっちの手すりだったか。いやいや、やっぱりこっちの手すりのはず、そうだここだ、そうそう、でも、あれ。やっぱり違ったかな。いや合ってる。でも、そんなはずはない。おかしい。どう考えてもおかしい。ん?え??そんな。まさか。

バックパックがない!

バスに乗ったときに確かにここに置き、ワイヤーとダイヤルロックでしっかりくくりつけておいたはずのバックパックが消えていた。

いや、こう書くべきかもしれない。

“それまでの9カ国分、2万枚を超える撮影データの入ったHDD” の入ったバックパックが、消えていた。

 

こういうとき、人間は呆然とするよりも先にまずひとりでに身体が動くものだというのを初めて知った。たったいま自分の身に何が起こったのか、それを必死に理解しようとして混乱する頭をなんとか整理しながら、まずはバスの運転手に荷物が消えていることを伝えた。運転手は、どうすればいいか空港の職員に聞いてくれと言った。空港の職員に事情を話すと、彼が警察官を呼んでくれた。彼にもう一度始めから事情を説明した。荷物が盗まれた、確かにここに置いた、これから上海に行く予定だった、固定したワイヤーごと切られている、とても大切なものが入っているからどうしても取り返したい。すると、その警察官は全てを理解してくれたようだった。そして彼は微かに笑みを浮かべると、両手を水平に上げて、こう言った。

「I don’t know.」

ここではじめて呆然とした。身体中の力が抜けていくような感覚というものを初めて味わった。この半年間のために準備してきた今までの2年間、その間にあった出来事や出会った人達、上海で再会する予定のクラスメイト、日本でお世話になった先生方、家族や友人。見知らぬ国の空港でひとり呆然と立ち尽くしながら頭の中にさまざまなことが一瞬で浮かんで、一瞬で消えていった。

いつの間にか握りしめていてしわくちゃになっていた航空券を見ると、出発までもう2時間を切っていた。どうしよう。予定を変更してとりあえず街に戻り、香港に延泊しようか。そして盗まれた荷物が見つかるまでずっとこの国にとどまって、探し続けようか。荷物自体はどうでも良いから、PCも何もかも要らないから、せめて写真のデータだけは返してはくれないだろうか。そう考えたがすぐに、いや、そんなことをしても多分無駄だろうと思った。さっきの警察官の「I don’t know.」が頭の中をぐるぐると回っていた。何も知らないこの国で、自分にできることは多分もう無い。無理だ。諦めるしかない。こういう運命だったのかもしれない。写真を始めようと思い立ち必死に学んだこの数年間、人生で初めて、自分の好きなことに本気で熱中できる、妥協せずに居られる自分を知ることができたのが嬉しかった。そのことを誇りにさえ思えた。なんでも良かったがたまたまそれが写真だった。このあと上海で集合するはずのクラスメイトたちはどうしているだろうか。彼らの卒展を観るのが楽しみだ。自分はここまでだった。もう充分だ。うんざりだ。何もかもどうでもいいし、どうにもならない。そうだ、写真なんてもうここで、辞めてしまおう。

 

その後、上海行きの飛行機に乗る直前に引率の古市さんに事の顛末をメールか電話で報告してから、フライトの間に自分が何を考え、どのようなルートで上海のホテルまで辿り着いたのか、全く覚えていない。後で聞いたが、そのころ日本の学校でも前代未聞のこの一件について騒然となっていたらしい。自分はといえば上海のホテルに到着したあと、部屋でひたすらぼーっとしていたような気がする。どのような部屋だったか、間取りさえも記憶にない。おそらく数時間そうしていた後、古市さんが駆けつけてくれて、ホテルの1階のレストランで中華料理をご馳走してくれると言った。

「これから日本に帰って、写真は辞めようかと思います」

そんなことを話したと思う。このあと中国が終われば一時帰国があり、残りのFWはフリー期間のわずか3週間だけだった。たった3週間で一体何ができるというのか。自分はクラスメイトに恵まれていたと思っていて、同じゼミの仲間たちが皆どれだけの熱意でそれぞれプロジェクトを進めているかも良く知っていたから、彼らが半年間必死に取り組んだ作品と、自分がこれから3週間で撮る写真とを同じ場所で並列に並べることはできないだろうと思った。そもそも、気力が完全に削がれていたし、それまで積み上げていたものが全て崩れてしまったような気持ちだったから、見えるもの全てが灰色になる、とはこのことだという程に憔悴していたと思う。何もかも全部無駄になった。もう誰にも合わせる顔はないし、誰にも会いたくない。全て忘れて、このままひっそりと消えてしまいたい。そんな気持ちでいっぱいだった。

古市さんは、その間ずっと、うんうん、と黙って耳を傾け続けてくれていた。一通り話を聞き終わると、日本にいるゼミの鈴木先生が、小山くんに伝えてくれと言っていたことがあるので伝えるね、と言った。

「”お前が今までやってきたことがもし本物なら、これから3週間でやることも本物なはずだ” と、鈴木先生が伝えてくれっておっしゃってたよ」

意味がわからないし、むちゃくちゃだ、と思った。
「…そんなの無理ですよ」
「”今まで自分がやってきたことが無駄では無いことを証明しろ”」
「”それができる機会は後にも先にも今しかない”って」

「最終的にどうするか決めるのは小山くんだけど、私も鈴木先生と同じように思う。ここで辞めたら本当に、全てが無駄になってしまうよ」

せっかくの本場の中華が、すっかり冷めてしまっていた。せっかくご馳走して頂いたのに、その色も味も、全く覚えていない。

 

その後、中国に滞在している間はホテルから一歩も出ることはなく、そのまま一時帰国を迎えるまで、鈴木先生と古市さんの言葉を何度も反芻していた。確かに、このまま辞めたら何も残らず、全てが無駄になって終わる。いっそ、それも良い。けれど、悔しさは一生残るかもしれない。この先の人生で何かにつけてこのことを思い出し、振り返る度に、写真が手元に残ってないことを思い出しては悔しい思いをするだろう。台湾、ベトナム、カンボジア、タイ、インドネシア、マレーシア、インド、ラオス、香港で撮った写真はもう一生見ることができなくなった。もう一度見たい。中には良い写真もいっぱいあったんだけどなぁ。本当にデータだけでも、返してくれないかなぁ。ずっとそう思い続けるのだろう。なんなら死ぬ前に思い出すかも知れない。ああ、もう本当にうんざりだ。いっそここできっぱり辞めてしまおう。写真なんて。誰に頼まれたわけでもないし、誰に望まれてやっているわけでもない。せっかく好きになれるものと出会えたのに、残念だ。そうだ本当に残念な奴だ俺は。残念なまま終わるのか。またそうなのか。いつもそう、思えばいつもそうだった。いつもそうだから、せめて写真だけはずっと、好きなものを好きなままで、大切なものを大切にし続けられる自分で居たかった。せっかく見つけたのにまた振り出しに戻るのか。自分のしていることが”本物”かどうかは分からないが、無駄になるのはやっぱり嫌だ。誰に頼まれたわけでもなく、誰に望まれているわけでもなく、自分がやりたくて始めたことだ。どうせいつでも辞められる。なんなら一度崩れてぶっ壊れたんだし、それならこれから先、やってもやらなくてもどっちでも良いし。どっちでもいいなら、どっちかというとやりたい。無茶苦茶になったから、無茶苦茶になった先をもう少しだけ続けてどうなるか見てみたい。この先どうなっても良い。ならやってみても良いだろうか。やってみても、良いのかもしれない。

 

その後、フリー期間の3週間で台湾とタイを再訪し、帰国前の再集合場所となった韓国を入れた3カ国で撮影を再開した。カメラに入っていたSDカードを復旧ソフトにかけて取り出そうともしたが、既に何度も上書きを繰り返していたため遡れば遡るほどほとんどのデータが壊れていた(上にあげたいくつかの画像がそれ)。それでも取り出せた一部の写真と、ちょくちょくブログにアップしていたカットが、解像度は低くなってしまっていたが手元に残っていた。卒展では、それらをA0版に大伸ばしにしたプリントを10枚くらい、隙間なく並べて展示した。当時の自分ができることの精一杯をやったと思う。

 

卒業を控えた2月末ごろ、1年生の頃にお世話になった長坂先生に、学校の廊下で声をかけられた。

「小山の話は今後学校の伝説になるだろうなぁ。半年間のFW、残りあと3週間ってところでデータを全部失うなんて前代未聞だったよ」
「伝説の男になっちゃいましたね」
「でも、そういうネガティブな方じゃなくてさ、学生の頃そういうことがあったけれど、諦めずに写真を続けて、その後ニコンサロンで展示したとか、なんとかの賞を取ったとか、ポジティブな方に変えていきなよ。」
「ははは…」
「だって、そういう伝説の男の方が格好良くない?」
「うーん、そういうもんっすかね…」

この話があったからというわけではないけれど、卒業して3年後の2020年、実際にニコンサロンで写真展を開催させて頂いた。当時は(そして、これを書いている今も)コロナ禍真っ只中で、色々と予定外のことも起こったが、最終的には本当に沢山の方に足を運んで頂いてとても嬉しかった。その後も、仕事上でも写真を続けフリーランスとして独立したり、個人でも仲間と一緒に自主ギャラリーを立ち上げたりと、いろいろなことがあるけれどなんだかんだで今まで写真を続けてこられている。写真を辞めようと一度思ったあの日の続きを。

あの出来事があったから今がある、と、一概にこの話をまとめることはできない。現在では仕事上でも個人のプロジェクトでも、撮影直後に毎回必ずカメラのSD+PC本体+HDD×2台+クラウドストレージで5重のバックアップを取るようになったが、教訓という以上に完全にトラウマ化しているという部分もある。あの時に得たのは写真ではなく経験そのものだったといくら言おうと、失ったデータは絶対に返ってこない。あんな出来事は無ければ無い方が良かったし、今後2度とあって欲しくない、あってはならないことだったと思う。

 

今でも時々当時のことを思い出しては、失ったあの時の写真を見て懐かしい気持ちに浸ってみたいなと思ったりもする。もし今でも香港の街のどこかにあの時の自分のHDDが転がっているのだとしたら、見つけ出して日本に持ち帰りたい。けれども、それはもう無理なことも分かっている。ならばせめてと、あの時の写真と自分自身を弔うような気持ちでこの文章を書き始めた。

学生時代、特別講義などで多くの写真家の方々からお話を伺う機会があったが、皆さんいつも話の結びには決まって同じことを言うなぁと感じていた。写真を「続けること」の大切さについて。それがいかに大変で大切なことか、卒業した今であれば尚更それにうなづけるようになったが、自分にとってはそこに少し違った意味も含まれているような気がする。自分にとって写真を続けるということは、続けている限り、あの時に鈴木先生が仰った通り「自分がやってきたことが無駄では無いと証明」し続けることができる、ということでもあるのかもしれない。ただそう思っていたいだけなのかもしれないが、それがある意味で心の支えのひとつになっていることも事実だと思う。それが、できれば思い出したくない記憶を思い出しながらこの文章を書いていて気付いたこと。

さて、これで良い加減、成仏してくれただろうか。
あの時の2万枚の写真よ、さようなら。

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