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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.21 “逢魔(おうま)が時”の風景を求めて 中里和人『キリコの街』(ワイズ出版 2002年) 鳥原学

初めて見る街の風景なのに、なぜだか知っているように思える。いや、怪しくもどこか温かく懐かしい気持ちさえ湧いてくる……。中里和人が撮り集めたほの暗い風景は、私たちの潜在意識の中で眠っていたものを刺激し、もうひとつ別の不思議な次元へと連れて行くだろう。それはまさにシュルレアリスム(超現実主義)としての写真表現なのである。

 

夢のランドスケープ

陽が西の空に沈み、空が完全に闇に覆われるまで合間を「薄暮」と呼ぶ。だが、他にもいくつか別称がある。英語ではロマンチックに「ブルーモーメント」、日本語では不安や怖れを込めて「逢魔が時」などとも形容することもある。

視界が狭くなるにつれ、聴覚や嗅覚が鋭敏になり、想像力がたくましくなるからだろう。そんな時間帯に、私たちはときに信じられないビジョンを見てしまうことさえある。昔の人が“妖怪”と名付けたようななにかを。 しかし、その気配をカメラで捉えるのは、もちろん容易ではない。

中里和人の2002年の写真集『キリコの街』(ワイズ出版)はそれを乗り越え、異界の光景を私たちに見せてくれた驚くべき1冊である。本書には昼光の下で撮られたカットも含まれているが、その光景さえも、あの薄暮のビジョンと同じ妖しさを放っている。いずれも街角で何気なく眺めているものが、得体の知れない生気と質感とを帯びて存在感を増して、見馴れない相貌へと変化しているのだ。

たとえば、カーテンだけが豪華なさびれた商店のウィンドウ、ほこりをかぶったユリの造花、風雨で薄汚れたコンクリートの建物、路地の入口のカーブミラー、あるいは暗い迷路のような街区の奥に光るスナックの看板。いや、こう書き連ねても意味はない。言葉で描写してしまうと、まさに‶幽霊の正体見たり……″というやつで、その雰囲気はすぐに蒸発してしまう。

さて、本書タイトルのキリコとは、長い影を引いた石造りの建物が並ぶ不思議な風景画で知られる、 20世紀前半に活躍したイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコのこと。「形而上絵画」と呼ばれた彼の作品は、シュルレアリスム芸術に強い影響を与えたといわれている。

シュルレアリスム芸術の特色は、まず極めて具体的に対象を描写する点にある。だから何が描かれているのかはすぐに分かる。しかし、その対象を本来の場所でないところに配置したり、異質なものと組み合わせたり、あるいは形態を変容(メタモルフォーゼ)させたりすることで強烈な違和感を見るものに起こさせるのだ。その世界はまるで悪夢のようでもあり、私たちがタブーとして抑圧する欲求や、無意識の世界を表現するものだ。だから私たちはそのイメージに既視感を覚えつつも、それが何を意味するかを特定することができない。

中里の写真が与える印象は、確かにキリコの絵と似ているが、画家の世界観を忠実に再現しようするものではない。日本人の土着的な集合的無意識というべきものを、キリコという名に象徴させたのである。わかりやすくいえば「キリコ」とは多くの人が心のどこかで求める架空の街の名前であり、そこに行けば「異界に連なる裂け目のような光景」が広がっていると語りかけているのである。

その架空の街を求め、写真家は各地を巡った。本書のリストによると、関東を中心に全国の街々を、1996年から6年間にわたって訪ね歩いている。それほどの時間がかかったのは、そのビジョンがたいてい「忘れたころに、突然、神がかり的にやってくる」からだと中里は言う。

そして、ようやくその収集作業が完了し、1冊にまとまったときに「全く未知な、日本の新しい〈夢のランドスケープ〉が浮かび上がってきた」のである。

 

地図の美術

〈夢のランドスケープ〉とは、どうやら写真家の個人的な記憶と実際の風景が強くリンクしたときに顕現するものらしい。だがそんな風景はなかなか見つからないのは、風景が変質してきていたからだろう。本書のあとがきには、日本の街から「闇が薄まってきた」と書かれている。

こうして闇を求めて旅をした中里和人は、1956年に、三重県多気町で米や柿などを栽培する農家の長男として生まれている。里山に囲まれた典型的な日本の田舎で、高度経済成長の成果が及ぶ1960年代半ばまでは、江戸時代とそう変わらない風景が広がっていたと振り返る。ならば彼の記憶にある夜の闇は、私たちが思うよりも遥かに暗く長いはずである。

小学生のころはそんな風景のなかを片道2キロも歩いて学校まで通い、帰りには友達と川沿いを探検したり、秘密基地を作ったりして遊んだ。その探検の終点には小さな農機具小屋があって、その壁の隙間から中を覗くとワクワクするような、落ち着くような不思議な感じがしたことをよく憶えている。薄暗い中で目を凝らすと、風景の遠近が奇妙に重なるのが面白く、なぜか心地よかったのだ。

また、このころから地図に興味を持つようになり、しばしば地図帳を広げて見知らぬ土地の風景に想像をめぐらせている。この地理への興味は順調に育ち、やがて法政大学文学部地理学科に入学するまでなった。しかし入学してみると、講義の内容は想像とまるで違っていた。岩石学とか土壌学など自然科学系の学問を期待していたが、1960年代末の大学ではマルクス主義をベースに、地域間の経済の繋がりを学ぶ、経済地理学が中心だったのである。それでも各地にフィールドワークの旅に出たりする経験は通じて中里が得たものはとても大きく、「風景との対話を強く意識するようになった」と述べている。ひとりで各地を旅するようになるのもこの頃からである。

一方で表現への渇望も強かった。美術研究会に入って仲間たちと毎日のように議論を闘わせた。それぞれの主張は未熟であり、それゆえ互いに主張を引かず、議論はよく喧嘩に近いものになった。前衛芸術の転換期にあたっていた当時、著名な評論家で日本におけるシュルレアリスム研究の第一人者である瀧口修造に手紙を出したり、徹底したミニマリズムの新しい美術運動である「もの派」の主唱者だった李禹煥(リ・ウーファン)を招いて直接疑問をぶつけたりしたこともあった。

さらに現代詩の切れ味の鋭いナイフのような鮮烈な言葉にも憧れて、自ら詩作を試み、同人誌も立ち上げている。彼にとっての表現とは、自己の存在の主張であると同時に、広く社会化されるべきものだった。

とはいえ自分に詩作の才能があるとは思えなかったというから、醒めた目でも自身を見てはいたのだ。それだけに、将来については深く悩んだ。自分で構想したモノを作って生きる人になりたかったが、卒業シーズンが来てもまだ、それが何かはわからなかった。そんな学生時代の中里の視界に写真はまだ入っていない。高校時代に天文部で夜空を撮ったくらいの経験しかなかったのだ。

本当の意味で写真と出会ったのは偶然だった。卒業後、知り合いのつてで入った印刷会社での作業中、反故の山の中にどこかヨーロッパの古い街区が写ったモノクロ写真を見つけて、背中がゾクッとしたという。それらを集めて冊子に再構成してみると、ウジェーヌ・アジェのパンフレットだと分かった。これが「写真の凄みに触れた」最初の体験だった。

 

風景が持つ層(レイヤー)

ウジェーヌ・アジェは19世紀末から第一次大戦後にかけて、パリとその周辺の風景を撮り続けた写真家である。「近代写真の父」とも呼ばれるが、晩年まで全く無名の記録写真家だった。シュルレアリスムの芸術家であるマン・レイらが、彼らの求めていた夢や無意識の世界の表現をアジェの写真に見出したのである。アジェ自身は自らが芸術家であることを否定したが、その作品がニューヨーク近代美術館に収蔵され公開されると、評価は世界的なものとなった。日本でもすでに戦前期に、瀧口修造によって紹介され、注目を集めている。やがて1970年代前半には、先鋭的な若い写真家たちが、再びアジェを理想の写真家として仰ぎ見るようになっていた。

そんなアジェを信奉する写真家のひとりに、第一回の木村伊兵衛写真賞の受賞者であり、『三里塚』や『村へ』といった作品で知られる北井一夫がいた。1981年、その北井が講師を務めた千葉県市川市の市民講座に中里が参加したというのは、なにか偶然とは思えない。

参加した動機は、家にあった祖母が買ってくれた一眼レフを「たまには使ってみるか」という程度のものだった。だが気になっていた路地裏の商店などを撮影したポジフィルムを持っていくと予想外に評価された。とくに「立ち位置と距離感のとり方」が良いと言ってくれた。「ぼくでも写真家になれますか」と聞くと「なれるかも知れない」と北井は答えたという。そういったこともあって、講座が終わってからも月に一回程度は北井に写真を見てもらうようになった。そして3年ほど後には、ついに写真家になることを決めたのだった。

北井は写真家の現場というものも中里に見せてくれた。1984年から船橋市の依頼で「フナバシストーリー」としてまとめられる作品の撮影を始めたのだが、それに同行させてもらえたのである。撮影テーマは地方の田舎から大都市へ働きに出てきた、若い市民の暮らしの風景であったから、考えればそれは中里の姿でもあったもといえる。北井を通じて知ったのは、作品となる写真の背後には目に見えない膨大な葛藤やエネルギーがあって、その総体が写真そのものだということだった。

このころ、中里自身は造成が進む東京湾岸を舞台に最初の作品に取り組んでいた。きっかけは高速からふと目にとまった風景に「奇妙な胸のときめき」を覚えたこと。その広大な空間に立つと野鳥の声が聞こえ、田舎で遊んでいた子どものころが思い出された。

「人も土地もすべて管理されている都市の中で、ここだけは死角のようにポッカリ穴が開き、動植物がのびのびと深呼吸をしている」

そんな都市周縁部に生まれた空白地帯を、中里はモノクロフィルムでおよそ6年間撮り続け、1991年に初の写真集『湾岸原野』(六興出版)にまとめた。ここで見つめたのは東京湾岸の、埋立て予定地に昼夜の風景や遊びに来る若者たち、あるいは波打ち際に打ち寄せられた生き物の死骸、ひび割れた地面などさまざまな光景である。途中、迷いもあったというが、そのためかえって多くの側面が描写され、この時代の感触が詳細に伝わってくる。撮影を完結させたのは1989年。千葉に幕張メッセが完成し、空白の時代の終わりが告げられたのだ。

中里は、ひとつの風景にはいくつもの層(レイヤー)が重なっていると語る。その思想は、このデビュー作をまとめる過程でつかんだものでもあるだろう。以降はその重なりの深さを追求し、いかにひとつのイメージとして表現できるかを試みていく。

それが認められたのが2000年に上梓した、全国の手作りの小屋を撮り集めた『小屋の肖像』(メディアファクトリー)だった。中里は小屋を原色で正面から撮り、土地の歴史と現在性というそれぞれの層をひとつの画像のなかに浮かび上がらせている。本書は、それ以前から取り組んでいた『キリコの街』よりも先に出版され、中里の名前を広く知らしめることになった。

そして翌年、薄暮の街角の風景に、幼いころの記憶というさらに次元の違う層を重ねた『キリコの街』を発表。私たちの身体の中に眠る無意識を強く揺さぶった。そして、以降も中里は地図に記載されていない場所を求めて、薄暮の世界へとカメラを携えて出かけている。

 

中里和人(なかざと・かつひと)

1956年三重県生まれ。法政大学文学部地理学科卒業。1984年よりフリーに。他の写真集に『路地』、『4つの町』、『ULTRA』、『グリム』、『lux』など多数。『小屋 働く建築』『逢魔が時』『夜へ行こう』など、作家との共著も多い。写真の会賞、さがみはら写真新人賞受賞。東京造形大学教授などを歴任。

 

参考文献

中里和人『小屋の肖像』(メディアファクトリー 2000年)
中里和人『路地』(清流出版 2004年)
『風景ノ境界 1983―2010 中里和人』展図録(市川市芳澤ガーデンギャラリー)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1985年3月号 中里和人「湾岸都市」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1986年2月号 中里和人「人工渚」
『雲遊天下』2010年103号(ビレッジプレス) 南陀楼綾繁(聞き手)
「中里和人インタピュー 会場作りから小屋作りまで 越境する写真家の頭の中」
『新刊ニュース』(トーハン)2002年7月号 中里和人・高野慎三「対談 心に棲みつく風景」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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