【写真学校教師のひとりごと】vol.18 永禮賢について
わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。
これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。
▼【写真学校教師のひとりごと】vol.17 久保木英紀について②
わたしのクラスに属した人たちは、卒業1、2年で個展をやっている人が多い。わたしがせっかちだからなのかもしれない。
だが、早く個展をやった者が優れているということではない。
写真展をしたいのなら、そのために的確な努力をひたすら一生懸命にすれば、できるものだということを言っているだけだ。
永禮賢は、2001年1月に「ヘッドホンを充てたら」でニコンからデビューした。
学生時代から写真が上手く、勘のいいヤツだった。
そして以前紹介した小島と同じようにデビュー後は、さっさと仕事写真に突き進んでいった。
かれの数多くの仕事のなかに「The Tokyo Toilet」(TOTO出版)というのがある。渋谷区内の公共のトイレを撮ったものだ。
奇をてらったアングル、手法はまったくない。正面からきっちりとらえて撮っている。
トイレ自体そのもののデザインが個性的でなかなか面白い。一流の設計者・デザイナーたちがつくりあげたものだ。
このたぐいのものを撮影するのは、それなりの力量とエネルギーを必要とするものだが、永禮は設計者たちに負けていない。なかなかの力作である。
仕事をする写真家は二つのタイプに分けることができる。
そのひとつは永禮が最初にニコンでやったように、自分でテーマを決め、すべてのコンセプト、方法も自ずから決めていく、いわゆる作家としてのやりかた。
もうひとつは相方がいて、その人が半分を受け持ち、テーマを決めたり、文章を書いたりする。これは相方がいるので、楽なようにみえる。
だがもう一人の作者が存在するということは、必ずしも100%自分の望むような帰結になるとは限らない。
別の考えをもった個性といっしょに仕事をするのである。つまり、微妙に異なる部分も飲み込まねばならないだろう。ストレスがたまるはずだ。
なぜこのようなことをいうのか、というと永禮賢という男の生き方を理解するためである。
初めのうちは作家としての道を歩んでいたが、その後は相方と組んでひとつのことをする、「The Tokyo Toilet」のような道を歩んでいる。
この道は細かな理解力、自分の考えとは微妙に異なることがらを的確に理解し、そういったことをわりきって表現する能力が必要になる。
永禮は勘が鋭く頭もシャープな男である。だから相方の特性を見極め、理解し、その上でひとつのことを表現するのはかれにとってそんなに難しいことではないのかもしれない。
だが真面目にやればやるほど、このような仕事はストレスがたまっていく。
かれは器用にこなすので、この手の仕事が増えていく。それらを快感ととらえて過ごす道もある。
だが、根本的に自分の心を健全に保つ方法は、そういう仕事をしながらでも、別の時間に自分の作品を作ることで、鬱憤をはらすしか方法はないのである。
永禮はこれからどっちの道を選ぶのだろうか。
単独の作家の道だろうか、それとも相方のいる制作者の道だろうか。
写真家人生として、最終選択をするときがきているように思える。
永禮賢
1975年生まれ
フォトグラファー
東京都在住
現在作品制作・広告・雑誌・書籍等、国内外で活動
菊池東太
1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。
著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか
個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか
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