【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.50 国交のない国で追った、写真の可能性 桑原史成『韓國原影』(三一書房、1986年) 鳥原学
ドキュメンタリー写真の価値は、その瞬間をいかに切り取るかに加え、その対象を長く見つづけることにもある。桑原史政の場合、ふたつのシリーズでそれを証明している。
それが「水俣」と「韓国」である。前者は1950年代から、後者は1960年代から撮り続けてきた。今回取り上げる韓国については、現地においても、桑原の写真は韓国現代史を語るさいの欠かせぬ証言として扱われている。
近くて遠い国で
長いキャリアのなかで桑原史成は、じつに多くの写真賞を受賞してきた。そのなかでも、2015年の「李海善(イ・ヘソン)写真文化賞」というのは聞き慣れない名称だ。じつは、同賞は韓国写真界の発展に寄与した功労者に授与されるもので、桑原は日本人として初めての受賞者なのである。
かつて韓国は「近くて遠い国」と形容されていた。日韓併合時代にまつわる経緯から1965年に至るまで国交がなく、以降もしばしば両国関係は強い緊張状態に陥ることがあった。その残り火は、国間の文化的交流が盛んになった今日もなお消えてはいない。その複雑な状況のなか、桑原は1964年7月から半世紀以上にわたり現地の取材を続けてきたのである。しかも彼の対象は幅広く、撮影したカット数は12万を数えている。
東西冷戦の先端としての軍事境界線、反日デモ、ベトナム戦争への「猛虎部隊」の派兵、「漢江の奇跡」といわれる経済発展、民主化、格差が生んだスラム地区の生活、農漁村の暮らし、そして民俗文化までを視野に入れている。だが共通するのは、時代に翻弄される普通の人々を軸として、その眼を向けていることだ。
この桑原にとって、長い取材期間の中で最も印象深いのは、日本統治からの解放20年目となった1965年で、この1年は「その後の10年間に匹敵する」重みがあったと語っている。それを象徴する一枚が、4月19日のソウルで行われた学生デモの写真である。
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その日、学生たちは、日本との国交正常化の第一歩となる「日韓基本条約」に強く抗議した。だが、その印象は典型的なスタイルではなかった。
まず学生デモといえば、 シュプレヒコールを発して行進し、 ときに暴力的な衝突に発展することもある。当時の韓国において、そのような光景は日常的でさえあった。だがこの一枚は静かなのである。降りやまぬ雨に打たれながら、口を堅く結び、学生たちは整然と歩いている。隊列の緊張感は、望遠レンズによって遠近が圧縮され、いっそう強く醸し出されている。
この写真を読み解く鍵は、撮影の日付にある。5年前のこの日、李承晩(イ・スンマン)大統領の不正選挙に抗議した大規模な学生デモが官邸に突入。軍隊が発砲して多数の死者が出ていた。その結果、混乱は全国に広がり、大統領は辞任してハワイに亡命した。「4・19革命」または「四月革命」と呼ばれる政変である。
つまり写真の 「無言デモ」は、 5年前に命を落とした学生に対する追悼でもあった。その弔意と怒り、そして決意を、秘密裏に日本との国交修復を進めてきた朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権に対して示しているのである。
だがその抗議を当時の朴正熙(パク・チョンヒ)政権が聞き入れるはずもない。8月になると戒厳令を発令し、日韓基本条約は国会で批准されるのである。これで日本から得た有償無償合わせて総額5億ドルの資金は、経済開発に投資され「漢江の奇跡」の基礎をつくり、先進国としての韓国へと変貌していく。そう考えると、この1枚には韓国の過去と現在、さらに未来までが写っているようにさえ思える。
この大きな変化の節目に、なぜ国交のない国から来た桑原がそこにいて、歴史に残る写真を撮れたのだろう。当時の韓国にも、メディア関係者や報道写真家がいたはずである。そう聞く私に対して、桑原は使用機材や発表媒体に利点があったからだと語った。
だが果たしてそれだけだろうか、いや、やはり言葉通りには思えないのだ。
桑原をめぐる友人たち
日本が戦争に敗れ、領有していた朝鮮半島を失った1945年、桑原はまだ8歳だった。彼の一家が暮ら島根県の山間にある木部村 (現・津和野町) に戦禍は及ばなかったが、父は南方に出征していた。
やがて復員した父は、村から数キロほど離れた笹々谷鉱山に経理の職を得た。山からは銅や亜鉛が採掘され、精錬過程で出る亜ヒ酸は殺鼠剤として重宝されていた。ことに当時は、復興需要で山は活況を呈して多くの労働者が集まり、彼らの娯楽として映画会などのイベントも盛んに開かれていた。桑原もそれを楽しみにしていたが、じつは本編よりも世界情勢を伝えるニュース映画に魅せられたのだという。田舎の少年にとって、鉱山は都会の文化や情報に接することのできる理想的な環境だったようである。だがその一方で、鉱山の川下に位置する村や町には鉱毒による被害が広がっていた。鉱物の精製過程では大量の水を必要とするため、同様の問題は戦前から日本各地で起きていた。
やがて1947年、父は村の収入役に転じた。新しく村長になった遠縁に頼まれてのことだったが、 彼は急進的なマルキストだった。その政策は「村を集団農場にする」と意気込み、古い共同体に深刻な亀裂をもたらした。さらに村長は1950年に朝鮮戦争が始まると反戦ビラを配布したため、占領目的阻害行為処罰令違反で逮捕された。これは「赤化事件」、あるいは「赤化村」としてメディアでも報じられている。このとき中学生だった桑原は、社会というものの複雑さや怖さを目の当たりにしたのだった。
カメラに興味を持ったのもこのころだが、もちろん趣味の範囲でしかない。津和野高校では熱心な柔道部員として過ごし、大学は父の勧めで東京農大の農業土木科に進んだ。卒業後は役場に勤めさせ、安定した生活を送らせようという父の考えに従ったのだ。
上京当初の大学生活は順調で、ことに製図は得意で教授も認めるほど上達した。親しい友人も幾人かできた。その一人に年長の韓国人がいた。1950年に勃発した朝鮮戦争を逃れて日本に密航してきた青年で、酔ったときに歌う故郷の民謡は独特の哀愁を帯びていた。桑原はそれを聞いて、近くて遠い国の風景を思った。この体験が後の韓国取材の原点にある。
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順調な学生生活ではあったが、桑原は「数値に沿った測量図を引く人生」に疑問を持ち始めだ。きっかけは高校の先輩から紹介された、演劇志向の文学青年だった。彼としばらく共同生活を送るうちに、しだいに創作への野心が湧いてきた。桑原は農大から他校に移ることも考えたが、 もちろん父が許さない。それでも芸術学部のある日本大学に相談に行ってみると、転入制度はないとのことで諦めるしかなかった。
だが、その帰途、立ち寄った銀座の小西六フォトギャラリーで運命が変わった。開校したばかりの東京フォトスクール (現・東京綜合写真専門学校) のポスターを目にしたのだ。当時、東中野にあった同校まで見学に行くと、そこは雑居ビルの一室で、校長である写真評論家の重森弘淹を中心とした小さな私塾だった。座学が中心で入学金と授業料も安かったこともあり、桑原は通うことを決めた。
以降の1年半、桑原はここで重森らの鋭く新しい時代のドキュメンタリー写真論に感化されたうえ、写真について語り合える友人たちを持った。ソニーの広報に勤務していた同じ歳の英伸三と、4歳上の岩根邦雄である。英は写真がうまく、後に消費者運動から生活協同組合の「生活クラブ」を立ち上げる岩根には知識と理性があった。こうした連帯感のなかで桑原の社会に対する意識は高まり、報道写真家としての自立を強く望んだ。そして、大学の卒業を待ってフリーランスになることを決めたのである。
とはいえ、フリーになるなら社会的なインパクトを持った独特のテーマが必要であった。そこでまず注目したのが炭鉱問題だった。エネルギー政策の転換期にあった当時、復興需要を賄ってきた各地の炭鉱は危機にあったからである。
写真で何ができるのか
桑原は1959年12月に九州の炭鉱町である筑豊に出かけ、炭鉱住宅に暮らす幼い二人の姉妹と出会い、その暮らしをカメラに収めている。かなり手ごたえもあったようだが、それをデビュー作として発表することはできかった。土門拳が同じ姉妹を撮った作品を翌年2月号の 『カメラ毎日』で発表し、さらに写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書房)にまとめると、社会的な話題になるほどの大ベストセラーとなったからだ。
挫折を経て新たなテーマを見出したのはそれから約3か月後である。5月になり、卒業報告に帰省するために乗った列車の中で、何気なく友人が差し入れた『週刊朝日』を開くと、特集は「ルポルタージュ・水俣病を見よ」との見出しが眼に飛び込んできた。4年前から熊本の水俣湾で発生している原因不明の奇病を伝える記事を一読した桑原は、「必ずいける」と直感した。そこで実家には1泊しただけで東京に戻り、すぐ『週刊朝日』 編集部に担当記者を訪ね、より詳しく話を聞いたのである。
それから2か月後、桑原は初めて水俣に向かい、紹介された水俣市立病院の大橋登院長を訪ねた。だが院長に入院患者への取材協力を求めると「写真で、いったい何ができるとぉ」と一喝されてしまった。このとき真っ正直に「何ができるかわかりません。でも、私は報道写真家になりたい」と答えたことが、かえって好感を与えたのだろう。院長は異例ともいえる取材許可を与えてくれたのである。
病院に通いながら、桑原はあまりに悲惨な現実を目の当たりにし、院長が問うた「写真で何ができるか」を考え続けた。そこで見出だした答えは「歴史の証言」になることであった。そのためにはショッキングなだけでなく「人を引きつけ、また共感を抱いてもらった上に、さらに余韻の残る映像」でなければならないと考えた。そこで桑原は、「生ける人形」といわれた寝たきりの少女、松永久美子を軸に据えることを決め、彼女の美しさを撮ったのである。そして2年後、1962年9月に開催した初個展 「水俣」 は、会期中から大きな反響を呼んだ。 さらに日本写真批評家協会新人賞を受賞し、桑原は有望な報道写真家と目されることになった。
そして次作のテーマ「韓国」に取り組むのだが、 国交のない当時、 取材までのハードルは高かった。それでも桑原は平凡社が発行していたビジュアル誌 『太陽』 に企画を通し、取材費と記者という立場を確保することができた。韓国での受け入れ先のリサーチや渡航手続きは、あの大学時代の友人が手配してくれた。
こうして準備した第1回の韓国取材は、1964年7月から約5か月間に及んだ。知られざる韓国の表情は、まず翌年の『太陽』 3月号の「特集韓国」に掲載されて大きな反響を呼んだ。その編集後記には、取材中いく度かスパイと疑われ、望遠レンズが怪しまれたことなどのエピソードが記されている。実際はそれ以上の困難が何度もあったが、現地の協力者がフォローしてくれたのだった。
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そして翌年の取材で、日韓基本条約締結をめぐる激しい学生デモやべトナムへの派兵など、歴史的瞬間に立ち会ったのである。だが、その内容は韓国政府を喜ばせなかった。貧しさと恥部を海外に喧伝したとして睨まれ、同年12月に国外退去となった。当時の政権は韓国の国内メディアには厳しい検閲制度を敷いており、報道の自由はなかった。そのなかにあって、桑原の仕事は、まさに現場の事実を写したやっかいなものに他ならなかったのだ。
振り返ると、この最初の滞在中に桑原が手がけたテーマは30以上に上り、掲載は百数十ページにも上っている。驚くべき行動力と言わねばならない。しかも、かつて恥部を写したと言われたそれらの写真が、いまや国の現代史に欠かせない記録となっている。それも当時の若者たち意志を示し、この国の民主主義への歩みを記念する重要なモニュメントでさえある。それはまさに歴史の皮肉に他ならない。
そんな写真を残せたのは、やはり機材や媒体のアドバンテージだけではない。「写真で何ができるのか」を現場で激しく求め続けたことの帰結である。「水俣」も「韓国」も、人生に一度しかない、写真家としての “青春期”の写真なのである。
桑原史成(くわばら・しせい)
1936年島根県生まれ。1960年に東京農業大学、東京綜合写真専門学校を卒業した後、フォトジャーナリストとして活躍。主な写真集・著書に『水俣病』『水俣病1960~1970』『生活者群像』『水俣・韓国・べトナム』『水俣』『陶磁の里ー高麗・李朝』『報道写真家』『韓国真情吐露』『報道写真に生きる』『桑原史成写真全集』がある。日本写真批評家協会新人賞、講談社写真賞、伊奈信男費、土門拳賞などを受賞。
参考文献
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1965年11月号 桑原史成「隣のニつの国」
桑原史成『報道写真家』(岩波新書 1989年)
『社会運動』(市民セクター政策機構)1980年8月号~1981年1月号 桑原史成「エッセイ・カメラでみた韓国」
『社会運動』(市民セクター政策機構) 2000年3月号
「英伸三、岩根邦雄、桑原史成『社会運動』創刊20周年記念座談会:レンズからみた社会運動」
『AERA』(朝日新聞社)1997年5月19日号「現代の肖像 桑原史成」
「中国新聞 α」(ウエブサイト)「生きて 報道写真家 桑原史成さん」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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