現代アニメ批評 #7『君の名は。』

「現代アニメ批評」では、幅広いアニメ作品の中から話題の(もしくはちょっとマニアックな)作品を取り上げ、アニメ鑑賞をより深く楽しむための批評を連載していきます。

現代アニメ映画の金字塔『君の名は。』

「現代アニメ批評」という連載タイトルを付けた以上、絶対に避けて通れない作品がある。

遡ること10年前、新海誠という名は、一部のアニメファンのみが知る名だった。2016年に公開された『君の名は。』は日本国内の興行収入で250億円を超え、当時の日本映画としては『千と千尋の神隠し』に次ぐ歴代2位の数字をたたき出し、新海誠の名はアニメファンという枠組みを超えて誰もが知るものとなった。

当時のアニメを取り巻く状況を振り返ってみると、細田守が2009年の『サマーウォーズ』以降に期待された(つまりは国民的アニメ作家と呼ばれるに値する)ほどの大ヒット作を作れず、2013年に『風立ちぬ』で宮崎駿が引退宣言をし(後に撤回され、2023年に『君たちはどう生きるか』が公開されたが・・・)、同じく2013年に高畑勲の集大成的な作品である『かぐや姫の物語』が公開された、という流れがあり、『君の名は。』は新海誠をポストスタジオジブリの筆頭候補として強く印象づける作品となった。そしてそのイメージは、その後の『天気の子』、『すずめの戸締まり』で決定的なものになったと言って良い。

新海誠がアニメというジャンルにおいて国民的作家として名乗りを上げた作品であると共に、現代アニメの流れを決定づけた、アニメ史における重要作品として、今回は『君の名は。』を取り上げたい。

 

日本アニメ史の転換点にして、新海誠の到達点

『君の名は。』は上記のように日本のアニメ史の転換点となるような作品ではあるものの、新海誠にとっては転換点と言うよりもキャリア前半の集大成と言うべき作品である。

もともとゲームのオープニングムービー制作からキャリアをスタートさせた新海誠は、『秒速5センチメートル』に典型的なMV風の映像の制作を得意とし、RADWIMPSとコラボした今作の疾走感ある作品構成にもその資質が存分に発揮されている。

映像的には、アニメーションでありながらカメラの存在を視聴者に強く意識させるような作画を特徴としており、強い逆光やレンズフレア、透過光による明るく透明感のある風景の創出、極端に浅い被写界深度による空間的奥行きの演出など、“映える”“エモい”画を創り出す手腕もまた『君の名は。』では遺憾なく発揮されている。

人生を意味づける「大切な約束」とその「忘却」というテーマ

また、これ以前の新海誠作品でも幾度となく描かれてきた〈約束とその忘却〉というモチーフを主題としていることも、この作品を語る上で欠かせない論点である。

大切な約束がある。その約束は自分の人生を意味づける、つまりは自分がこの世界に生を受けた意味を教えてくれるような重要なものであり、自分にとってかけがえのないものである。

だが、その約束は忘却され、消えてしまった。自分の人生において最も大切で、絶対に忘れられてはいけない約束。この世界はそれ以外のあらゆるもので満たされているのに、絶対に欠けてはいけないたった一つの約束だけが、この世界から消えてしまった。

そのような切ない痛みこそが、常に新海誠作品の中心にあった。

新海作品で描かれる約束は、誰かとの明示的で具体的な約束に限らない。

我々は皆、何か大切な約束を携えてこの世界に生を受ける。その約束が一体どのようなものなのか分からなくても、成就するのかどうか分からなくても、その約束の存在自体が、自分がこの世界に生を受けた意味を与えてくれるような、この矮小な自分の存在を全肯定してくれるような、そんな約束がこの世界のどこかにある。

だが、その約束の具体的な形がわからない。確かに誰かと交わした、大切な誰かと・・・・・・。しかしその“誰か”との幸福な記憶もまた、この薄汚い現実の中でどんどん霞んでゆく。

自分の生きる世界には、幸福な時間が、大切な約束が、かけがえのない存在が、確かにあった。だが、それが現実にどのような形を持っていたのか、あるいはこれから持つのか、確かなことは何も分からない。しかし、確かにそれがある、そしてそれが失われている、という痛みと疼きだけがいつまでも消えない。

「君の名」ーー喪失感を埋め合わせる “世界の秘密” 

この世界は、秘密めいた約束をどこかに隠し持っている。

新海作品には常にそういった神秘的な雰囲気が漂っている。そして、だからこそ彼の描く世界=風景はこんなにも美しいのである。

『君の名は。』もまた、大切な記憶が失われてしまうことがテーマになっている。

瀧の中から三葉の記憶が失われ、大切なはずの「君の名」を忘れてしまうこと。

明示はされないが、いつか瀧と三葉が現実に出会う幸福な時間が、秘められた約束として視聴者には示唆されている。

大いなる秘密を隠し持ったこの世界の中で再び約束の君と出会い、その名を訪ねること。『君の名は。』という作品の中核にあるのは、新海作品に何度も現れるこうした〈約束の忘却〉というモチーフである。

「ムスビ」:約束は切れても結ばれているもの

伏線も丁寧に引かれている。

まずは、三葉の祖母一葉が組紐について語る場面。宮水神社の歴史は、繭五郎の大火により焼失してしまった。だが、一葉は「文字は消えても伝統は消しちゃいかん」と言い、三葉と四葉に根気よく組紐の組み方を教えていく。

このシーンは、記録としては失われてしまった宮水神社の役割、つまり彗星の落下という災害の記憶の伝承という役割が実は消えておらず、その神社の巫女=三葉によって町が救われるということを予告している。

また、三葉が瀧のスマホに書いていた日記が消えていく、大切な記憶の消失を視覚的に演出する場面の重要な伏線にもなっている。記録は消えても人の心には残っていくものがあるという示唆が、記録が消えてしまっても二人の絆は消えないはずだという観客の期待を繋ぎ止める、文字通りの紐帯となっている。

「ムスビ」という概念で示されるこの紐帯は、様々な形象を伴って作中で繰り返し描かれる。糸によって紡がれる組紐はまさしく伝統を伝えるムスビそのものであるが、時間という概念もまたムスビであることが一葉によって明示される。一方で、宮水神社のご神体である山頂の祠の中で転倒した瀧が見たイメージは、彗星・赤い糸・へその緒もまたムスビであることを示唆する。

三葉の住む町が“糸守”という名であることも意図的なものだろう。

「寄り集まって形を作り、ねじれて絡まって、時には戻って途切れ、またつながる」と語られた「ムスビ」という概念は、まさしく人々を結びつけ、時には途切れ、そして再び繋げる運命の糸のようなものとして描かれている。

糸=龍=彗星のイメージが意味するもの

作中で糸守町は飛騨にあるという設定になっているが、大きな湖を囲むように人々が暮らすこの町のモデルは、間違いなく長野県の諏訪であろう。

糸守湖を作った隕石の落下は、瀧のイメージの中で一瞬龍のような姿に変換されるが、諏訪大社上社の主祭神である武神タケミナカタは蛇神=龍神である。作中では組紐や反復など明らかに蛇を意識したモチーフが散見される。長く尾を引く彗星=龍が墜落することで湖ができ、再びの彗星衝突により町が壊滅する様子(明らかに大地震と大津波を連想させる描き方)は、荒ぶる水の神であるタケミナカタを意識したものだろう。御神域で幽世へ渡るシーンも、諏訪湖の御神渡を想起させる。

彗星と龍の連続性、水神による湖の生成、そういったイメージ群は、「瀧」という名前の象徴性とつながっている。三水に龍と書く「瀧」という名は、糸守湖をもたらした彗星=龍とつながり、したがって宮水神社の祀る名を失った神(おそらくは水神)ともつながっている。

宮水神社のご神体は糸守湖を見下ろす山の頂にある。クレーター状になった山頂には御神域があり、神を祀る古い祠が建っている。御神域は幽世であり、もしそこに足を踏み入れるのであれば、「此岸に戻るには自分の一番大切なものを引き換えにしなければならない」という。瀧にとってそれは、幽世=彼岸に行った三葉を生き返らせる(=此岸に戻す)ためには、自身の最も大切なもの=三葉との記憶を引き換えに差し出さなければいけない、ということを意味する。

〈約束の忘却〉というモチーフは、やはり『君の名は。』という物語を牽引する重要な役割を担っている。

「災害映画」作家としての新海誠

さて、2016年に『君の名は。』が公開されて以降、『天気の子』『すずめの戸締まり』と続く新海誠の作品は、「災害三部作」とも呼ばれており、観る者に2011年の東日本大震災を強く意識させる作品である。

ここからは、『君の名は。』の災害映画としての側面、2011年以降の日本社会においてどのような批評性を有していたのか、という側面を見ていきたい。

まず強調しておきたいのは、東京/被災地という二項対立が残酷なまでの生々しさで描かれている、という点だ。

糸守町に甚大な被害をもたらす彗星は、瀧の視点から美しく神秘的な存在として描写され、ニュースからもこの彗星を眺められることは「この時代に生きている私たちにとって大変な幸福と言えるでしょう」という台詞が聞こえる。

瀧の中にはこの美しい光景のみが残り、糸守町の壊滅という甚大な災害の記憶だけがきれいに消失してしまっているということ。それはまさに、都会に生きる人間からは地方の災害などすぐに忘れられてしまうことや、〈便利でキラキラとした都会の生活が地方に原発というリスクを背負わせることによって支えられている事実〉が空気のように透明化されてしまっているという事態をグロテスクなまでに生々しく描く試みだった。

そのような意味において、『君の名は。』は東日本大震災後の社会に対する強い批評性を有している、と言うこともできよう。だが一方で、そのような社会的〈忘却〉に迎合しているとしか言えない面もある。

『君の名は。』は隕石落下という大災害による死者を、瀧と三葉の間の“時差”によって救うという物語構造を有しているが、一方で瀧の視点から見れば、三年前に死んでしまった者を生き返らせる物語でもある。

それは、三葉の死を、糸守町の人々の死を、無かったことにする物語であるとも言える。

入れ替わりを通じて三葉と力を合わせて糸守の人々を救った後、東京に戻った瀧は、三葉の名を忘れ、三葉との大切な思い出も忘却し、漠然とした喪失感のみを抱え、どこか満たされない日々を過ごしてゆく。作品の冒頭は、東京で暮らす瀧と三葉のモノローグから始まる。

朝、目が覚めると、なぜか泣いている。
そういうことが、時々ある。
見ていたはずの夢は、いつも思い出せない。
ただ、何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも、長く、残る。
ずっと何かを、誰かを、探している。

これまでの新海作品で幾度も描かれた〈約束の忘却〉を巡る切ない痛みが、ここでもまた語られる。だが、そんな痛みなど、大切な人がこの世界から永遠に喪われる痛みに比べれば、あまりにささいなことに思えた。

『君の名は。』がはらむ「災害の忘却」という問題点

大切な人を喪い、大きな痛みを負った。そのことを無かったことにしてほしくなかった。現実の圧倒的なまでに理不尽な痛みに向き合ってほしかった。

漠然とした喪失の痛み、甘美で切ない忘却の痛み、それがこれまでの新海作品にとって切実なものだったのは確かだ。しかし、三葉を喪ったことを、それによって言い尽くせぬ痛みを負ったことを、なかったことにしてまで描くべきものであるとはどうしても思えなかった。

そして何より、三葉の死を、糸守の人々の死を、無かったことにして良いのだろうかという思いが消えなかった。

自分の都合のために、誰かの死を無かったことにして良いのか。『君の名は。』に東日本大震災を重ねながら、誰かの死がなかったことにされる物語に感動することは、死者への冒涜ではないのか。そんな疑念が、心のどこかで消えなかった。

それは例えば、ちっぽけな自尊感情を守るために実際に存在した虐殺行為を無かったことにするような歴史修正主義と、どれほどの距離があるのか、と。

奇しくも東日本大震災が起こった2011年にアニメ化された『STEINS;GATE』が、過去の失敗を〈無かったことにしない〉ことによって未来を変えるという倫理的態度を持った優れたタイムリープモノだったことと比較すれば、『君の名は。』が2010年代の日本社会に対して持つ批評性が大きいものだとは、どうしても思えなかった。東北出身者として、この作品を手放しで褒めてはいけないと思った。そして実際に、この作品を批判的に論じる文章も書いた。

だが一方で、『君の名は。』にどうしても惹かれてしまう自分もいた。

この批判は『君の名は。』という作品の核心を貫いていないのではないか、という疑念が常に心のどこかにあった。もやもやとしたまま書いた批判的論考は、もぞもぞと歯切れの悪いものになった。

公開から10年が経った今、この作品にもう一度本気で向き合うべきだと思った。

10年ぶりの再考 – 三葉と勅使河原の謎

数年ぶりに『君の名は。』を観直してみて、ある単純な疑問がわいた。

冒頭、先述した瀧と三葉のモノローグは、幻想的な彗星の流れる夜空を背景に、二人の声がクロスオーバーしながら次のように続く。

あの日、星が降った日。
それはまるで、夢の景色のように、
ただひたすらに美しい眺めだった。

甚大な災害をもたらした彗星が、瀧という東京に住む少年の視点から美しく神秘的なものとして描かれ、災害の記憶が忘却され(あの世界線の瀧にとっては人的被害の現実そのものが無かったことにされ)、その美しさだけが彼の記憶に留まることがグロテスクなまでに生々しく暴き出されている。

だが、その彗星によって故郷を破壊された三葉の口からも、あの風景が「ただひたすらに美しい」と語られるのはなぜなのか。

その疑問に答えるためには、この物語を糸守町の人々の視点から、つまりは“死者”の視点から問い直す必要があるのではないか。

そのような視点から今一度『君の名は。』を観返すと、他にも疑問は湧いてくる。

なぜ勅使河原は、彗星が落ちて町が壊滅するなどという三葉の荒唐無稽な話をすんなりと信じたのだろうか。

確かに彼はオカルト好きの少年として設定されている。しかし一方で、同い年の三葉や早耶香に比べて妙に大人びた一面もあり、その見た目とは裏腹に感受性豊かで聡い少年にも思える。現実を直視し己の力の限界も理解して正しく絶望できるような、そんな賢さと謙虚さを持った人間に思えた。そんな彼が、どうして三葉の言葉を信じ、変電所の爆破などという大それたことをしでかしたのか。

「故郷」 – 愛と鬱屈の多重露光

表面的には、糸守湖が隕石湖だったということを、三葉の言葉を信じる根拠にしている。だが、過去に一度隕石が落ちたからといって、今回も落ちるという可能性はどれほどのものか。彼のような人間が、変電所の爆破などという大それたことを決行できるほどのものか。もちろんそんなはずはない。

いざ爆薬を仕掛ける段になっても、顔に汗を浮かべ、笑顔は引きつっている。爆弾を仕掛けた後は、ハイになって、「ハハハッ!」と上ずった笑い声を上げている。そこにはまだ、彗星が落ちるという確信めいたものは見えない。

そんな彼の姿を見ると、こう思わずにはいられないのだ。

彼は、彗星が落ちることを信じたわけではなく、彗星が落ちると信じたかったのではないか。愛する故郷が、愛ゆえに自分を縛り付けるこの故郷が、大災害によって消滅することを、彼は心の最も深い部分で、密かに欲望してしまったのではないか。

変電所の爆破という行為は、もちろん、故郷の人々を救うための行為である。しかし、故郷を想うこの行為には、まるで多重露光の写真のように、自分が生まれ育った故郷を、故郷に縛られて生きるという自らの運命を、その手で吹き飛ばすという象徴的意味が二重写しで付与されていたのではなかったか。

そしてきっと、三葉も同じだったのだろう。自分を伝統という柵から解放してくれる彗星は、彼女の眼には「ただひたすらに美しい眺め」に映った。

そして何より、この作品そのものが、アニメーションそのものが、この彗星の美しさを全身全霊で肯定している。

ここにこそ、『君の名は。』という作品の混沌としたポテンシャルが埋まっているのではないか。

『君の名は。』を、〈瀧と三葉が歴史修正によって災害から人々を救う物語〉と解釈し、そこに見え隠れする歴史修正主義的な構造を指摘することは、一見、被災地の視点に立った倫理的な態度に思える。

だが、瀧の視点に立ったこの解釈自体が、実はどうしようもなく東京中心主義的なのではないか。

絆(ほだし)を断ち切る痛みの先へ

我々は、その倫理的解釈の先に、地方民が故郷と共に死ぬか故郷を捨てて生きるかを選択する物語を、いや、誤解を恐れずに言えば、地方民が東京に行くために故郷を破壊する物語を読み解かなければならないのではないか。

死ぬまで故郷に縛り付けられるくらいなら、美しい思い出となって消えて欲しい。そんな、薄暗い、それでいて甘美な欲望の香りが、このフィルムには常に漂っている。

そう考えると、糸守のみならず、新海誠が描く地方の風景の美しさは常に郷愁の念の裏付けという二次的なものに過ぎなかったのではなかったか、とさえ思えてくる。

『言の葉の庭』で描かれる新宿の美しさはもちろんのこと、『秒速5センチメートル』においても栃木や種子島の演出されたドラマチックさよりも、東京の何気ない日常の風景に自分は何か特別な感動を覚えたのではなかったか。『雲の向こう、約束の場所』でさえ、青森の抒情的な青春の風景より、浩紀が孤独に苦しむ東京のごみごみした街並みの方が、切なく胸に突き刺さったのではなかったか。

『君の名は。』でもまた、糸守の、作品の舞台として造られた美しい風景、多重に意味の織り込まれた物語的風景よりも、瀧の中に入った三葉の目を通して描かれる東京の方が、何倍も美しいと思った。実感の伴わない記号的快楽やSNS的な映えに満ち溢れた、日本の空虚な中心である、東京。だからこそ美しい街である、東京。

彗星は、三葉と瀧を結ぶ赤い糸であり、糸守(とそこに住む人々)の過去と現在、そして未来を、時空を超えてつないでいくムスビである。「文字は消えても伝統は消しちゃいかん」という一葉の言葉の通り、千二百年前の彗星落下の記憶が、伝統によって継承され、糸守の人々を救ったのだ。文字や記録が失われても、記憶は伝統とともに残っていく。記憶が失われても、人の想いはつながっていく。

だが同時に、彗星は糸守をめぐる数多のムスビを破壊する矛盾に満ちた異物として、美しい風景の向こう側から突如として現れる。

故郷とそこに住む人々とのつながりを断ち、宮水神社を含むその土地の歴史を断ち、文化を断ち、記録を、記憶を、断ってゆく。まさにへその緒が断ち切られるように、若者たちは地縁や血縁、伝統といった絆(ほだし)から解放され、自由を手に入れる。

彗星の名は「ティアマト」。

それはメソポタミア神話における原初の海の女神の名である。彼女は原初の創造における混沌を象徴し、その混沌から神々が産み出された。

海の女神の名を冠するこの彗星が、東日本大震災における津波をモチーフにしたものであることは想像に難くない。命も、暮らしも、文化も、伝統も、何もかもを混沌の中に飲み込んだ、あの津波を。

であれば我々は、この混沌の中から何が産み出されたのかを、本気で見定めなければならないだろう。

『君の名は。』の歴史修正主義的な側面を批判することは、確かに必要なことだった。だが、その東京中心主義的なまなざしの潜む倫理的解釈を踏み越えてこの混沌に足を踏み入れなければ、『君の名は。』という稀代の災害映画が持つポテンシャルを読み開くことは決してできないだろう。

 

文: 冨田涼介
批評家。1990年山形県上山市生まれ。2018年に「多様に異なる愚かさのために――「2.5次元」論」で第1回すばるクリティーク賞佳作。寄稿論文に「叫びと呻きの不協和音 『峰不二子という女』論」(『ユリイカ』総特集♪岡田麿里)、「まつろわぬ被差別民 『もののけ姫』は神殺しをいかに描いたか」(『対抗言論』3号)など。

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