西島伊三雄〜人に愛されるクリエイターの在り方を学ぶ 後編〜

今年生誕100年を迎える、福岡出身のデザイナー/童画家の西島伊三雄氏の特集。

〈Profile/西島伊三雄(にしじまいさお)〉

1923年(大正12年)福岡県福岡市生まれのグラフィックデザイナー・童画家。
専門学校日本デザイナー学院九州校初代校長
主な受賞歴に、二科特待賞世界観光ポスターコンクール最優秀賞全日本観光ポスターコンクール最優秀賞などがある。
また、福岡市営地下鉄の駅シンボルマーク博多座ロゴマーク、ハウス食品「うまかっちゃん」ネーミング、パッケージデザインなども手掛けている。

今回は、アトリエ童画代表取締役社長で西島伊三雄氏の息子でもある西島雅幸(にしじままさゆき)氏にお話しを伺いました。

前後半に分けての今回の記事。
前半では、西島伊三雄氏がどんなデザイナーであり、どのような人間であったのかをお話しいただきました。

■前半記事をご覧になられていない方は、
こちらからご覧ください。

前半に引き続き、後半も博多弁が飛び交う中で、楽しくお話しをさせていただきました。

福岡に長年住んでいると次第にわかってくるのですが、博多弁って不思議な温かさと優しさが溢れた方言なんですよ。

この博多弁も、素敵な福岡の文化の1つですので、もし福岡に遊びに来られる際には体験してくださいね。

 

さて、本編です。
そんな博多の地で、長年愛され続けている商品があります。

それが「うまかっちゃん」(ハウス食品)です。九州の味ラーメンとして、1979年から絶大な支持を受けている袋麺です。

「うまかっちゃん」のパッケージデザインとネーミングを担当されている

 

西島伊三雄氏は、この「うまかっちゃん」のパッケージデザインをご担当されたと同時に、名付けの親でもあります。

ここからは「うまかっちゃん」誕生秘話を伺いました。


編集部)
そもそも「うまかっちゃん」のお仕事の依頼は、どのようにして受けられたのでしょうか?

 

西島雅幸氏)
「うまかっちゃん」のデザインは、広告代理店の方が親父(西島伊三雄氏)に「ハウス食品の方が、先生に絵を描いて欲しいと言われています。」とお話ししてくれたことからスタートします。

続けて「ハウス食品さんがラーメンで勝負をしたい」と考えられていることもお聞きしました。

当時、ハウス食品さんと言えば「カレー」という印象でしたので、「カレーラーメンなんて食わんですばい」と親父が話していたことを覚えています。

 

編集部)
そうですよね。当時のハウス食品さんのイメージといえば、「バーモンドカレー」のイメージが強いですね。

 

西島雅幸氏)
そんな話しをしていると、担当者が「カレーではなく、豚骨で勝負する」と続けて話されるんですよね。

さらに商品名は、
これはうまか」や「おっしょい」など、山笠を連想できるような力強い商品名を想定されていたんです。

 

編集部)
博多と豚骨ラーメンというワードで販売をしていくならば、必然的な感じがしますね。

 

西島雅幸氏)
ただ、それを聞いた親父は
それはダメです」って言っていましたね。

もちろん、その発言は勢いだけで言ったわけではなく、当時の消費者の傾向を考えたうえでの発言だったんです。

 

編集部)
具体的にはどのような理由があったのでしょうか。

 

西島雅幸氏)
50年程前の話しですので、現在とは状況が違ってくるのですが、当時の袋麺の購買者は主婦の方が大多数だったんです。

要するに、子どもの夜食のために「うまかっちゃん」を買う母親などがメインのターゲットだったのです。

そうすると、広告代理店の方が持ってこられていた商品名というのは、少し当時の女性には刺さりにくい名前に思われました。

 

編集部)
なるほど。

 

西島雅幸氏)
そして親父が「女性の方でも手に取りやすい名前を、私が考えましょう」と言って作ったのが「うまかっちゃん」という名前でした。

もちろん、1発でクライアントのハウス食品からもOKをいただくことができました。

 

編集部)
博多弁で「美味しい」の意味がある「うまか」に、「〜ちゃん」を付けたという訳ですね。「うまか」は理解できますが、なぜ「〜ちゃん」をつけたのでしょうか。

 

西島雅幸氏)
当時の博多の街並みを眺めていると、「〇〇ちゃんうどん」など「〜ちゃん」が付いた店舗や屋台が多かったんです。

そのような店舗名からは、親しみや可愛らしさを感じることができると思います。

このように、女性に好まれる名前を追求していき「うまかっちゃん」が生まれたのです。
そして「文字も私が書きましょう」ということで、親父がパッケージ制作をする流れとなりました。

 

編集部)
お客さまの目線に立って生み出されていったのですね。

 

西島雅幸氏)
実は、親父はこの仕事をお断りしようと考えていた時期もあったんですよ。

ただ、その当時は従業員も5,6人おりましたので。会社の経理を担当をしていた私としては「頼むから断らないでくれ!」とヒヤヒヤする毎日でしたね。笑

そのようにして誕生した商品が、長年に渡って愛していただいていることは嬉しい限りですね。

 

編集部)
気遣いと思いやりに溢れた西島先生の作品だからこそ、時代を越えて愛され続けられているように感じます。

現代の若手デザイナーや学生が、そのような作品を制作していくためには何が求められるとお考えでしょうか。

 

西島雅幸氏)
やはり、まずは日々の努力は必要になると思いますね。

商業デザインは、自分が好きなデザインばかりをやっておけば良いわけではないですからね。

また、「うまかっちゃん」のように消費者の姿が明確に見えるお仕事もあれば、デザインのヒントが見つけにくく、苦戦する仕事だってあります。

例えば、私が福岡地下鉄七隈線の駅シンボルマークをデザインさせていただいた際も、親父が生前に残したラフスケッチからデザインをしましたが、かなり苦労をしました。

親父も、亡くなる前に病室で「七隈線のデザインは、その土地の歴史が掴みにくいので難しいだろう」と話していましたね。

「福岡市営地下鉄」の各駅シンボルマークを制作。令和5年3月に開業される櫛田神社駅前を含めた七隈線のデザインは、伊三雄氏が生前に描いたラフスケッチを基に雅幸氏が制作。

 

編集部)
雅幸さんは、どのようにして七隈線のマークを完成させたのでしょうか。

 

西島雅幸氏)
まずは、親父からも紹介をして貰っていた、武野要子さん(福岡大学名誉教授)にご相談をさせていただきました。

親父は、生前から武野さんと仲良くさせていただいており、「歴史では福岡でナンバーワンだろう」とも話していました。
実際、武野さんからは多くのことをお聞きし、デザインに活かすことが出来ました。

そして、それに加えて、親父も大切にしていた「本物を自分の目で見ること」を実践しました。
デザインの対象となる土地に自ら行き、現地の方にお話しを伺いながら、駅シンボルマークのデザインを仕上げていきました。

 

編集部)
現地に出向いて得られた情報が、そのデザインの最後のピースとなる場合もあるんですね。

 

西島雅幸氏)
繰り返しになってしまいますが、デザイナーの仕事というのは、絵を描くだけじゃないんですよね。

実制作以外にも、デザインの対象からわずかな情報を見つけ出し、それを摘んで引っぱり出すことこそが、デザイナーの仕事なんだと思っています。

 

 

編集部)
そのためにもコミュニケーションが大切になるのでしょうね。

 

西島雅幸氏)
そうです。親父もコミュニケーションの大切さを常々言っていましたね。

描くことよりも、まずはその下調べに重きを置いて、丁寧に行うこと。
そしたら面白いものができるったい!」ってね。

 

編集部)
今は、ネットなどで情報が得られやすい時代になっています。そんな時代を生きるデザイナーでも、下調べを「より丁寧に」行うことに重きを置くと、さらに作品の質を高めていくことができるかもしれないですね。

最後になりますが、そんな若手クリエイターの皆さんに一言いただけますでしょうか。

 

西島雅幸氏)
実際に絵を描くことや、デザインをすることはとても大事なことです。

ただ、デザインだけをするのではなく、少し視界を広げると、より広い社会が見えてくると思います。

「多くの人と出会い、経験し、
相手のことを思いやる。」

私も親父から教わったことですが、本当に大切なことだと思います。
皆さんも、心の隅っこで良いので、留めておいていただけると嬉しいです。

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