写真家 鈴木邦弘エッセイ「戦いの後に・・・」vol.2

サラエボの中でも空港は激戦地のひとつだった。私は撮影のために空港周辺の住宅地に向かった。そこには廃墟になったアパート群が連なり、人の気配はまったくなかった。

三脚を立て撮影の準備をしていると向こうに人影が見えた。一人の少年が犬を連れてこちらに向かってくる。近づいた少年に声をかけた。

「なにをやってるの」
「使えそうなものを拾っているんだ。ここはたくさんの人が住んでいたからいろいろあるんだよ」と笑顔が返ってきた。

そこで彼と犬の写真を撮らせてもらい、カメラを担ぎながら周辺を歩いた。

突然、路地の奥からその場に不釣り合いな自転車に乗った少女があらわれた。彼女に声をかけようとすると私たちの周囲をぐるぐる回りだした。「写真撮らせてよ」と私は何回も声をかけた。少女はまるで何も聞こえていないかのようにニコニコしながら私たちのまわりを回り続けた。

しばらくすると私たちの前に止まってくれた。そこで私は自転車にまたがる笑顔の少女の写真を1枚撮った。「フヴァラ(ありがとう)」とお礼を言うと、少女はニコニコしながら廃墟の中を自転車に乗って走り去っていった。そして、私の内には少女のキラキラした瞳が残った。

私はその場にそぐわない心地よさの中にいた。なぜか会う子供たちがいい顔をしている。そして楽しそうなのだ。内戦が終結し、ある程度の安全な環境が回復したことが一番の理由だろう。しかし理由はそれだけではなそうだ。生き生きしているのだ、多くの悲しみを経験したであろう子供たちが。

この時サラエボでは秩序の回復を急ピッチですすめていた。破壊された道路、水道などのインフラ整備、建物や医療施設などの再建等々。国連やNGOの車が町中を走りまわっていた。しかし秩序は完全に回復されたわけではない。ここには一瞬の安全な無秩序が成立していた。子供たちは学校に行けず、銃弾のとばない廃墟の中で自由に遊んでいた。親たちは日々の生活に追われていた。子供たちは、このサラエボに出現した束の間のアナーキーな空間を満喫していた。

セルビアのベオグラードに到着した二日後、どこからも援助の手が差し伸べられない小さな難民キャンプを訪れた。そこで暮らすセルビア人の女性は、私たちにナベで沸かしたトルコ風のコーヒーをすすめながら写真を持ち出して話し始めた。

「これが私たちの住んでいた家。これが家の中で、ここがリビング」
「これが私の家族なの、これが夫、これが息子、わたしの妹・・・」と写真の中の顔を指しながら家族を一人ずつ紹介した。

そしてクロアチアでの生活の様子をとめどなく話し続けた。

「クロアチア兵たちが突然来て、ここから出て行けと言うの。結局、家を追い出され家は焼かれたの」

そこで話は途切れ、しばらく沈黙が続いた。

「何故こんなことになったの、私にはわからない。だから聞かないで、その理由を。本当にわからないの・・・・・」

私は返す言葉を持っていなかった。涙にぬれる彼女の顔を見つめながら私も黙っているだけだった。私たちは重い沈黙の中にいた。

私はクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアの6週間にわたる旅の中で、多くの人々と出会い、たくさんの話を交わした。撮影の合間に「コーヒーを飲んでいきなさい」とよく声をかけられた。コーヒーをごちそうになりながら、私はたびたび彼ら彼女たちの重い沈黙を経験し、同時に再生への熱い思いを聞いた。彼ら彼女たちは多くの問題を抱えながら確実に生きていた。

戦争は人を殺し、風景を殺し、音を殺す。
そして人々は戦争の後、生きるために淡々と日常を営む。畑を耕し、語り合い、子供たちは遊びまわる。喜びも悲しみも、ここ旧ユーゴスラビアにはすべてがあった。

歴史は日々の繰り返し、その積み重ねでつくられる。決して公の歴史ではないが、無名性の中で生きる人々の日常がそれぞれの“私の歴史”をつくってゆく。旧ユーゴスラビアの人々は“歴史の抹殺”という戦いの後にそれぞれの“私の歴史”をつくり始めていた。

文・写真/鈴木邦弘

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