鉄道撮影紀Ⅱ ~ 鶴見線大川支線~ 去り行く古豪 クモハ12
横浜市の鶴見駅を起点とする鶴見線の大川支線には、1996年(平成8年)3月まで、戦前に製造された電車が走っていた。蒸気機関車のD51よりも古く、昭和4年と6年に作られた「クモハ12」だ。
運転されていた鶴見線大川支線は、武蔵白石駅から大川駅の約1kmの短い路線だが、武蔵白石駅に急カーブのホームがあり、現在走っている通常の20m級の車両が入線できず、短い17m級の車両でなければ走ることが出来ない路線であった。
そんな特殊な路線だったので、昭和から平成に変わっても旧形車両が2両で日々交代しながら運転されていた。
しかし、路線の特殊さ故に奇跡的に残った鶴見線のクモハ12が老朽化面で限界となり、1996年(平成8年)3月15日をもって営業運転から退くこととなってしまう。
写真学校入学する前から、時間があれば鶴見線に行き撮影をする日々だったが、運転終了が公式発表されたのを機会に、仕事を一時辞め、鶴見線に通い撮影することを決意。最後の活躍を記録し写真展をする事を目標とした。
写真展を目標にするからには、30~50枚の作品を見せられる事を想定しながら撮影していくが、列車の運転は朝夕のみの線区なので闇雲に撮っても纏まらない。決まりを作り撮影する事にした。
鶴見線の撮影は、始発から終電まで、運良く自宅から通うことができる場所だった。鶴見線の定期券を購入し、週1日の休みを設け、それ以外はなるべく撮影に行く日常がはじまった。
朝一番の列車が鶴見線の車庫から出てくるところを撮影するため、5時前に最寄り駅から列車に乗って現地に向かい、朝の運転が終わると入庫の撮影。昼間はフイルムの現像を出しに行ったり、ロケハンしたりして、夕方の出庫に合わせ再度移動。運転が終了し車庫に入るところまで撮影し、自宅に23時前に帰宅する毎日。
撮影時期は1月~3月。日の出時刻が遅く、電車が走行する時間帯は陽がまだ低くて撮影条件は厳しかった。今とは違い、感度の低いフイルムでの撮影だったが、当時は明るい単焦点レンズをメインで撮影していた。
路線の大半は道路と並行しているが、線路側は歩道がなく大型トラックの通行も多いので、道路からの撮影は極力避け、安全を最大限に優先して撮影に挑んだ。
武蔵白石駅は急カーブ上にあり、少し走ると大川駅まで長い直線になるので、安全に撮影でき、沿線の工場への踏切、鉄橋、終端となる大川駅、その奥にある工場と短い線区の割に様々な撮影ポイントがあったので、始発から終電まで様々なカットを撮ることができた。
しかし、写真展を目標と思い立ち撮り続けてきたが、最終的に季節感が足りないことに気が付いた。撮影できる期間が短く、いわゆる冬らしい写真が撮れていなかったのだ。
横浜や川崎は冬でもなかなか雪が降らない。このまま撮影期間が終わってしまうか、と思っていたその矢先、最終運転終了の直前に降雪があった。それはまさに奇跡的なタイミングであった。雪の中を「クモハ12」が走り抜けるカットを撮る事が出来、冬を強調する写真を撮ることができた。
その後、最終運転まで、撮ったカットの見直しや再撮影をしたり、新たに撮影ポイントを探したり、大判カメラで撮影したりと試行錯誤しながら様々なことに取り組んだ。そしてついに迎えた最終日。雨が降る中、営業運転の最後を見送った。
定期運転が終わり、お別れ運転が行われるまで少し期間があり、貸し切りでの運転が行われ、定期運転されていた区間以外にも走ったので、追加の撮影をすることが出来た。
「クモハ12」のお別れ運転が行われた日、鶴見駅には人が溢れるほど集まった。くす玉割が行われ、イベントが盛大に開始された。お別れ運転を記録し、これで本当に最後の撮影が終了した。
すべての撮影を終え、写真をセレクトして展示点数を揃えた。2か所のメーカー系ギャラリーの公募に応募してみたが、落選。当時は今ほど鉄道写真への評価はされておらず、著名な鉄道写真家でもメーカーギャラリーでは、なかなか展示がおこなわれていなかった。
結局、当時渋谷にあったカメラ量販店のラボが運営しているギャラリーに応募し、無事に採用。念願の写真展を1997年5月に開催した。
写真・文 伊藤純一
▽使用機材
〈カメラ〉
35mmカメラ
Nikon F3P Nikon F4
〈レンズ(全てニコン)〉
28mmF2,8 50mmF1,4 85mmF1,4 85mmF2 105mmF2,5 180mmF2,8 300mmF4,5 20-35mmF2,8 80-200mmF2,8
〈フィルム〉
・カラー
Kodak E100 EPP EPZ
Konica 森羅100 (SRS)
・モノクロ
富士写真フイルム NEOPAN 400 PRESTO
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