Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー vol.14

学校法人呉学園 日本写真芸術専門学校には、180日間でアジアを巡る海外フィールドワークを実施する、世界で唯一のカリキュラムを持つ「フォトフィールドワークゼミ」があります。

「少数民族」「貧困」「近代都市」「ポートレート」「アジアの子供たち」「壮大な自然」、、

《Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー》では、多様な文化があふれるアジアの国々で、それぞれのテーマを持って旅をしてきた卒業生に、思い出に残るエピソードをお伺いし紹介していきます。

変化の痕跡

PFWゼミ13期生 堀川 渉

山間の小さな街を過ぎると、峠のカフェに辿り着く。

バスに酔った乗客が店の裏から田んぼの畦道へと下り、盛大なリバースを繰り広げている。

僕は顔見知りの運転手とコーヒーを飲み、その様子を見ながら笑っていた。

ベトナムのハザン市からドンバンまでは約6時間の道のり。

彼の乱暴な運転にはいつの間にか慣れてしまっていた。

この地域ではローカルバスを利用するしか移動手段がない。

もちろん、バイクを所有していれば移動に苦労することはないだろうが、自給自足の家庭が大半を占めるこのドンバン地区では、その数は限られている。

僕が取材で訪れる際は、タクシーや旅行会社のツアーは利用せずに、毎度、このローカルバスに乗って移動するようにしている。

現地の人の生活スタイルに合わせ、同じような環境に身を置くことで、彼らとコミュニケーションが取りやすくなるだろうと考えた。

取材交渉のハードルが下がり、その後の撮影も緊張感なく行えるようになる。

バスの中での思いがけない出会いも楽しみの一つである。

峠を越えた辺りから、周囲はより一段と深い山岳地帯の風景に変わる。

車窓の乱立した岩山を見上げながら、久しぶりの光景に胸を高鳴らせていた。

2022年6月、入国規制が緩和されて以降、初めての取材である。

コロナ禍で帰国を余儀なくされた2020年4月以来、この地域の様子を知るすべはなかった。

海外取材に憧れて入学した日本写真芸術専門学校。

学校のカリキュラムを通じてベトナムに魅了されて以来、何度も渡航を繰り返している。

外部と遮断されたコロナ禍の生活は、僕のベトナムへの想いをさらに募らせた。

村の風景は変わっているだろうか。

人々の生活は変わっているだろうか。

色んな想いを巡らせながら、険しい山道を進む。

四方を山に囲まれて、その間を縫うように道が続いている。

そこに突如として現れる街、ドンバン。

古民家を改装した宿が立ち並び、夜になると怪しげなネオンサインが輝きだす。

街中にはFree Wi-Fiが網羅されており、日本の地方では考えられないほど充実した通信環境である。

険しい山岳地帯のど真ん中にありながら、ネット社会の先端を行く興味深い街である。

どんなに辺鄙な地域であろうと、通信インフラの整備は惜しまない。

人と人との繋がりを何よりも大切にするベトナム人の人間性が表れているように感じた。

翌日の撮影に備えて早めの就寝を考えていたが、現地の友人に誘われて、食事をともにする。

僕を歓迎してくれているのか、牛肉の料理が異常に多く感じた。

酒を注がれ続け、既に力尽きそうである。

街中を散策していると、現地の住民よりも観光客の数が圧倒的に多くなっていることに気付く。

この地域の一番の見所は、広大な山脈の風景と今もなお残る伝統的な生活様式であろう。

土壁民家の素朴な風景や牛耕を用いた伝統的な農作、華やかな民族衣装などは全て、観光客の目を惹きつける。

観光客のこの嗜好を生かしてビジネスに結びつけている現地の人もいるようである。

それとは対照的に、古い民家は取り壊し、セメントを用いた現代的な家を新築する集落も増えている。

今回の取材で注目した点は、やはり
“コロナ禍の2年間で何がどのように変化したのか”
ということである。

たかが2年、されど2年。

変わって欲しくないという想いと、変わり様への大きな期待。

この相反する感情が、僕を悩ませた。

伝統的な生活様式を見たいという観光客と、生活水準を高めたいという現地の住民との間には、方向性に大きな違いが生じているようにも感じる。

街から3kmほど離れると急斜面の山裾で生活するモン族の集落が点在する。

岩と岩のわずかな隙間を耕す光景は圧巻である。

村を散策中に出会った二人暮らしの老夫婦を取材した。

夫婦は5人の子どもに恵まれて、3年前までは一緒に生活をしていたが、現在は5人全員が家を出ているという。

首都ハノイで生活している者、別の村へ嫁いだ者、中国に出稼ぎに行っている者。

それぞれの事情で故郷を離れて生活しているそうだ。

今はビデオ通話のおかげで、遠くにいる子どもたちといつでも会話ができる。

そのため寂しさはあまり感じないという。

農作業が終わった後、夫婦は僕を家まで案内してくれた。

コンクリート壁の立派な家とその隣に家畜小屋がある。

つい最近、以前の藁葺きの民家を取り壊して建て替えたばかりだという。

出稼ぎに行っていた長男からのプレゼントだった。

僕は夫婦に今の生活をどう感じているかと尋ねた。

それに答えた夫の言葉が心に残っている。

「今の生活に不満はないし、この地で生まれ育ったことを誇りに思っている。

何か新しいものが欲しいとも思わない。

妻と一緒に畑を耕し、一緒に食事をする。

この毎日の繰り返しが私の生き甲斐だ。

『雨が降りそうだね』
『きれいな花が咲いているね』

こんな会話だけで毎日を過ごしても構わない。」

この夫婦にとっての豊さは必ずしも生活水準の向上ではない。

家族と過ごす時間や日々変わらない生活そのものが何よりも大切なのである。

人の内面的な部分を聞き出すことに成功したのは、今回が初めてかもしれない。

それをきっかけに、写真を撮ることだけが目的であった従来の取材スタイルに疑問を感じるようになった。

取材をするということは、単に写真を撮ることではない。

写真が通過点となり、ファインダーの向こう側の被写体に対する好奇心を高めてくれる。

その好奇心があるからこそ写真を撮り続けることが出来る。

そのことをようやく実感できたような気がした。

この新しい気付きを、次回の取材に繋げていきたい。

様々な刺激を得ることができた2年ぶりのベトナム取材。

ファインダー越しに見えたものは、この地域の風景でもなく、人々の生活でもなく、自分自身の“変化”であった。

 

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