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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.12 “人間らしさ”のひたむきな探求 大石芳野 『ベトナム 凜と』 鳥原学

“シャッターをきる”
その一瞬のために、写真家は膨大な時間を費やす。
大石芳野の場合、それは傷ついた人々が背負っている物語を見出すためである。
「人間とは何か」という普遍的なテーマがそこから掘り下げられていく。

 

見える瞬間

人間の表情ほど雄弁な被写体はない。 それは目鼻立ちの整い方とか、表情や身振りの大きさといったこととは別の問題である。たとえば額や頬に刻まれた一本のシワや微かな傷跡、わずかな顔の傾き、あるいはこちらを見返す目の輝きから、私たちは無意識にその人の物語を読み取ろうとしてしまう。

ことに大石芳野の写真を見ていると、想像力がひどく掻き立てられる。だが、背負っている物語を読み解くのは容易ではないともすぐに気づかされるだろう。

大石のカメラの前に立つ多くの被写体は、紛争や戦争あるいは圧政で、人生を破壊された人たちである。

ことに百万人以上が犠牲者となったカンボジアでの大量虐殺を取材した1981年の著書『無告の民・カンボジアの証言』(岩波書店)、あるいはナチスドイツによる絶滅収容所アウシュヴィッツ(ビルケナウ)を訪ねた1988年の『夜と霧は今』 (用美社)などを見てほしい。これらに収録された生還者による体験談は、想像をはるかに絶している。文字通り生きながら地獄を見てきた人々は、果てしない絶望と虚無とを、その瞳に刻んでいる。

もちろん彼らが、それほどのトラウマを誰にでも、直接的に見せるわけではないのである。だからこそ大石の取材が実に粘り強く、誠実なことがわかる。その粘り強さを支えるのはひとつの確信である。敬愛する社会学者の鶴見和子との対談で、大石は次のように言っている。

「でも、それが見える瞬間がある。その瞬間を見逃さないということが、私にとって一番大事なことです」

ただ、その瞬間はいつ訪れるのかわからない。取材を重ねればいいものでもなく、 初めての出会いで「見える」こともあると大石は言う。

2000年に出版された『ベトナム凜と』(講談社)の表紙に使われた一枚もまた、まさにそんな出会いの瞬間に撮られている。激しいスコールのなか、大きな竹かごを背負って歩く若い農婦がひとり。彼女がこちらに向けた顔には、はにかんだ、温かな微笑が浮かんでいる。見ていると、不思議と大きな安心感を覚えてくる。このとき、大石は農婦とすれ違いざまに2回シャッターを切っただけだという。しかも2コマ目では、彼女の目線はレンズから外れていた。たった一瞬の視線の会話に、永遠が宿っている。

大石の撮る対象には女性が多く、彼女らを見る眼差しには敬意と共感が込められていて、この写真も例外ではない。しかも長いベトナム取材の経験、現地で人々と関わり得てきた理解がここに凝縮されているとも言えよう。戦争で多くのものを失いながら、それでもなお暮らしを再建しようと歩んできた、粘り強いベトナムの人々の凛とした強さが、このスコールと微笑みに表れている。

 

ベトナムでの誓い

大石が初めてベトナムを訪れたのは1966年2月のことだった。

日本大学芸術学部写真学科の4年生だった大石は、早稲田の学生らが現地の学生との交流を目的に結成した、東南アジア文化親交団に参加した。ひと月あまりの日程で、ベトナムとカンボジアとを回る旅である。

この当時、ベトナム戦争はすでに泥沼化していた。前年にはアメリカが本格的に軍事介入し、北ベトナムの首都ハノイへの空爆も始めていた。大石も南ベトナムの空港に到着すると、すぐ戦場の空気を感じ取った。首都サイゴン(現・ホーチミン)は一見平穏だったものの、路上の子どもたちの瞳には 「緊張と不安と恐怖のようなものがぎっしり詰まって」おり、まるで「大人の目」のようだと感じられた。

同年の『アサヒカメラ』11月号には、この旅行で触れた避難民村の子どもたちの写真4点が「南と北のベトナム避難民」のタイトルで掲載されている。これを見ると、大石の言葉の意味がよくわかる。また、被写体となる人の表情を見つめた撮り方や、彼らの状況を丁寧に描写した解説文は、後の作品に見られる方法論の原型だったと言えよう。

この年、大石は大学を卒業すると、そのままフリーとして仕事を始めた。しかしこれは本人が想定していたコースではなかった。もともと新聞社か出版社への入社を望んでいたが、女性にはカメラマンの採用枠がなく、入社試験を受けるチャンスさえ与えられなかったのだ。当時の写真界は完全な男性社会であり、女性の写真家やアシスタントを募集する企業はなかった。新聞社の写真部がカメラマンに女性を採用に踏み切るのは、1986年に男女雇用機会均等法が施行されて以降のことである。もともと大石が写真を選んだのは、社会を近くで見る仕事に就きたかったことと、写真ならば男女に能力差がないという点にあった。今であればしごく真っ当な動機だが、1960年代の世間的な常識とはかなりの乖離があったのである。

フリーの旗を掲げたとはいえ、学校を出たばかりの新人、それも女性のカメラマンに最初から仕事が集まるわけはない。男性よりも低く見られ、ずいぶん屈辱的な思いもしたようだが、大石は当時について多くを語らない。無論、無理解に負けて簡単にギブアップするつもりなどなかった。たとえ違う仕事に移ったとしても、この格差が解消される職場はないのだから、ここで戦うしかないのである。

何より、ベトナムで出会った同年代の学生の言葉がいつも彼女を支えていた。大学を卒業すると戦場に向かう彼らは、日本人学生に「平和な日本だから自分の道を邁進できる、だから自分の国のことをしっかりやってほしい、そのことがやがてベトナムの平和にもつながるだろう」と語ったのだった。このとき大石は自分の甘さを省みて、苦しくとも写真を続けることを誓ったと振り返って る。

やがて、そんなひたむきな大石を応援してくれる人がしだいに増え、広告・ファッションからルポものまで幅広く仕事をこなすようになった。それと同時に、自らの作品にも積極的に取り組み始めていった。

 

人間とは何か

1971年2月、大石は初の個展「少年パパニー」をニコンサロンで開催した。外交官を父に持つガーナ人の少年を主人公にした、ポエティックな魅力を持った作品である。またこの年には大学時代から興味を持っていたパプアニューギニアを初めて訪れ、1か月間、高地の部族の生活を訪ね歩いてもいる。石器時代さながらの暮らしとアニミズムの文化に魅了された大石は、その後3度の渡航を重ね1978年に『愛しのニューギニア』(学習研究社)を出版している。

驚くべきことに大石は、この1970年代から80年代前半を通じて対照的な質の作品を同時に手掛けている。ひとつは内面の世界を表現した主観的でフィクショナルな作品であり、もうひとつはありのままの事実を客観的に記録し、より多くの人々に伝達する正統的なドキュメンタリーである。

前者の系統には、ほかに『来ればよいのだ春などは』(深夜叢書社 1973年)や『花黙し(はなもだし)』(ブロンズ社 1979年)という、女性モデルを演出した、心象的な写真集がある。豊かな性的なニュアンスと情念を含んだこれらの作品で、大石は自身のうちにある女性性を見つめ、その自意識の深層を掘り下げようとしていた。

また後者では、1984年の『隠岐の国』(くもん出版)もまた印象深い。パプアニューギニアと同様、伝統的な生活様式を丹念に描出して、人の営みの原型に近づこうとしたものだ。大石は異なった方法論で、個人と共同体の文化的なアイデンティティの問題を見つめようとしていたのだと思える。

そしてこれ以降、大石はドキュメンタリーをはっきり仕事の軸に据えるようになるのだが、作品にはこのふたつの視点が重なり合うようになっている。先に触れた『無告の民・カンボジアの証言』や『夜と霧は今』、返還直後から取材を続けた『沖縄に活きる』(用美社 1986年)、被爆者の戦後を追った 『HIROSHIMA 半世紀の肖像―やすらぎを求める日々』(角川書店 1995年)など、では心と体に癒えぬ傷を抱えた個人の心理的葛藤を見つめながら、過酷な社会状況を浮かび上がらせるのである。

そんな大石の作品は、人間の本質的な不可解さへの強烈な問いを含んでいる。被害を受けたのも、戦争という過酷な環境を作り出したのも、国家が崩壊するまでその暴走を止めることができなかったのも、私たち人間に違いない。だとすれば、人間とはいったい何なのか。そう問うているのである。

しかし、凄惨な事実と取り組み、カメラを向け続けることは精神的にもきつい。大石も眠れぬ日々が続き、悪夢にうなされることも少なくないと言う。それでも事実を知った者の責任感と、人間の本質を深く知りたいという探究心が仕事を支えてきた。 なかでも『ベトナム 凜と』には、そんなひたむきな仕事を続けてきた者だけが語ることのできる、ある希望が込められている。

大石が本書に至るベトナム取材を始めたのは、学生時代の旅から15年後、ベトナム戦争の終結から6年が過ぎた1981年からである。 ポルポト政権下のカンボジアや中国との紛争を経験してのち、社会の再建が始められていた時期だった。

人々は気持ちのゆとりを多少取り戻していたが、一方では戦争の傷跡が大きな社会問題となっていた。残された膨大な不発弾、家族や親密な共同体の解体、そして戦闘に参加した元兵士たちに残る重い戦争後遺症。さらに米軍が使用した枯葉剤の汚染によって、先天的な障害を持つ子どもが多数生まれていた。それでも、ベトナムの人々の表情は凛々しく、ことに働く女性たちの表情には、地に足をつけて生きている者の実感が強く感じられた。

大石は、そんなベトナムの人々と社会の取材を丹念に重ね、日本に伝え続けてきた。『ベトナム 凜と』から見えてくるのは、個人も社会も、大きな傷を抱えながらでも、人間らしさを取り戻すことができるという確信だろう。それは自分の道を邁進することがベトナムの平和に繋がるというあのベトナム人学生の言葉が、遂に形になったものなのだと思えてならない。

本書は大石の新たな節目となったが、その後も変わらぬ仕事を続けている。2013年の『福島 FUKUSHIMA 土と生きる』(藤原書店)では深刻な放射能汚染が奪ったものの大きさと、それでもなお明日に向かおうとする人々を、2019年の『 長崎の痕(きずあと)』(藤原書店)では年齢を重ねた被爆者たちを撮影している。

これら人々の表情は、地に足をつけて生きるベトナム人女性たちの表情と重なって見えてくる。復興への遠い道のりを照らし出す、小さな光のひとつひとつが、しっかり浮かび上がるのである。

 

大石芳野(おおいし・よしの)

1943年東京都生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業し、フリーに。パプアニューギニア、カンボジア、ベトナム、コソボなど各地を取材し、作品を発表。主な著作に『無告の民・カンボジアの証言』、『アフガニスタン 戦禍を生きぬく』、『夜と霧は今』、『ソビエト遍歴』、『ベトナム 凜と』、『福島 FUKUSHIMA 土と生きる』、『戦争は終わっても終わらない』などがある。日本写真協会年度賞、講談社出版文化賞、 土門拳賞など受賞。 紫綬褒章受章。

参考文献

『Olympus photography』1984年2月号 「重森弘淹・現代写真家と語る2 大石芳野の世界・その作品と秘密」
鈴木志郎康『写真有心』(フロッグ 1991年) 「大石芳野こころでこころを撮る」
『国際交流』2000年7月号 「巻頭対談 大石芳野・今橋映子フレームの外側の現実―現代世界を斬ること」
大石芳野、鶴見和子『魂との出会い写真家と社会学者の対話』(藤原書店 2007年)

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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