【写真学校教師のひとりごと】vol.17 久保木英紀について②
わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。
これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。
▼【写真学校教師のひとりごと】vol.15 久保木英紀について
あれから、久保木は写真を某写真展会場に送付した。写真展応募のために。
結果がでるのは今年の暮れである。
かれは小学3年生の終わりに千葉県から、この茨城県牛久市に移り住んだ。
父親が建てた念願のマイホームだ。
団地とよばれる新興住宅が、雨後の筍のようにあちこちで建ち始めたころである。
久保木はこの牛久に住んで40年近くになる。写真学校に通っていた間は東京に住まいを移していたが。
写真学校をでて、この牛久市にもどり、サラリーマン生活を続けている。
子供も3人いる。かれらは大学を出たり、現在大学を目指したりしている。
そんなかれらと親としていろいろな話をする。
そんなとき久保木は自問自答した。自分は人生でとことん努力したことがあるだろうか。
写真学校を卒業したころ、写真作品をそれなりに完成させ、展示しようと思い、あるところに応募した。数カ月後、落選の通知がきた。
月日がすぎ、写真とのかかわりもきれ、そのままになってしまった。
このごろ子供たちと話していて、自分が一生懸命努力すべきときに、そうしてこなかったことが気になり、子供に胸をはって言えるだろうかと逡巡するようになった。
そんなことを考えたあげく、現在住んでいる地、牛久にカメラを向けるようになったのだ。
もともと担当教師のわたしから見て、いままでに久保木は写真展をやっていても、何の不思議も感じさせない力量を持つ男である。
つまり遅ればせながら、自分がやると決めた写真、それを完成させ作品として展示しよう、ということにやっと行き着いたのだ。
遅ればせながら、原点に立ち戻ったというのだろう。決めたことがうまくいかなくて、途中で挫折するということは、よくあることだ。
子供の教育というか人間としてまずい、放り投げたままではいけない、努力しよう、初志貫徹だと悟り、やり直そうと考えたのである。
これは実際にはなかなか誰でもができることではない。よく決心出来たものだと思う。心からの喝采をおくりたい。
結果ではない。たとえうまくいかなくてもとことん努力するという、人間としての生き方の問題だ。
1回ぐらいは落ちるかもしれない。なんといってもずいぶん長いブランクがあるのだから。だが落ちた後が肝心だ。
生涯いままでにやったことがない、始まって以来という努力で、なにが足りないのか考え、撮りこむことだ。
今まであえて越えてこなかった壁を乗り越えなければいけない。
そうすれば、かれは審査を通し、展示にこぎつけることができるだろう、という確信に近いものがわたしにはある。
そうすれば、愛する子供たちに父親としての生き様を胸を張って見せることができるだろう。
先日久々に見た、最近かれの撮った写真の数々。
その素直な目線は昔のままだった。
久保木は申し込んだ。
菊池東太
1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。
著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか
個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか
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