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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.51 名作写真とその時代 常盤とよ子『危険な毒花』(1957年 三笠書房) 鳥原学

常盤とよ子は、戦後の写真史を語る上で、欠くことができない女性の一人である。1950年代に発表した「働く女性」シリーズで注目され、なかでも“赤線地帯”で働く女性たちを撮ったパート「赤線地帯の女」は、写真界を巻き込む大きな議論を巻き起こしだ。それを受けて、1957年に出版された著書『危険な毒花』で、常盤はその心情を極めて率直につづることになる。

 

写真家の肉声

「ガラスの天井」とは、目に見えない社会的な障壁を指す言葉である。特に女性の社会進出という場面において使われることが多く21世紀の今も、いまだそれは存在していると指摘もされている。だが写真の世界を見れば、表現動向やコミュニケーションの面でムーブメントをけん引してうるのは間違いなく女性の活動だ。例えば写真界の芥川賞といわれる木村伊兵衛賞でも、2000年以降の受賞者を見れば、女性が男性を上回っている。彼女らの表現は確かにガラスを割り、行く先を照らし出している。

もちろんそれ以前にも、写真界に飛び込んだ女性の先駆者たちがいた。彼女らの仕事がしだいに壁を壊し、ついに現在の状況が生まれたことを忘れはならない。

なかでも、ドキュメンタリストとして足跡を残したのが、常盤とよ子だ。1957年、29歳で出版したフォトエッセイ『危険な毒花』には、女性しか接近できない対象が大胆に捉えられていた。それは当時、売春が公認されていた地区、つまり「赤線地帯」だった横浜市の真金町の遊郭街、またパンパンと呼ばれ外国人相手の私娼たちの日常である。本書には、昼間の日常的な表情から“夜の女”への変貌ぶりや、男の腕の中で振りまく愛想、あるいはその腕をふり切って叫ぶ痛切な表情などが、活き活きと描写されている。また受診が義務づけられた性病検査の様子なども収められもいる。1957年の「売春防止法」の施行からおよそ70年を経た現在では、その史料価値も高まっている。

本書においては写真だけでなく、文章もまた魅力的だ。常盤とよ子という個性的な若い女性の、恋愛感情を含めた私的な心境の変化が、一人称でじつに率直に吐露されているのだ。

この点を、高く評価したのは写真雑誌の編集者、目利きで知られた桑原甲子雄だった。1950年に『カメラ』誌上の月例コンテストにおいて、土門拳の「リアリズム写真運動」の舞台を用意したことで知られる桑原は、当時『サンケイカメラ』編集長に移って腕をふるっていた。その桑原が同誌1957年12月号で、本書について「ヒューマンなカメラ自叙伝」と題する書評を書き、被写体に対する人間らしい愛情がわかり「たんなる暴露趣味をプロカメラマンではないことを、この本ははみごとに立証している」と褒め、さらにこう続けたのである。

「とくに感心するのは、おそらくこの本が日本ではじめて、カメラマンの肉声を聞かせてくれたという、地に足のついた文章として深く訴える点である。このことは、従来の多くの写真家の観念過剰な思考に反省をうながすであろう」

これは見事な洞察と言わねばならない。報道写真が全盛の当時、写真家の著作は社会的な啓発を目指すものが大半であり、彼らの生活実感が明らかにされることはなかったのである。つまり、本音や「肉声」を欠いていたのだ・

そんな好意的な評価の一方で、『危険な毒花』をセンセーショナルに捉える向きもあった。撮影対象の素顔に接近するために常盤は、ときに隠し撮りさえしたこともあり、プライバシーの侵害に当たるのではないかと強い反発を招いている。そのため戦後写真史のなかでもきわめて稀なほど、多くのマスコミを巻き込んだ議論にまで発展した。

写真史を振りかえってみると、先駆者の多くははつねに賛否とともにあり、そのなかで鍛えられて成長するもののようである。常盤とよ子もまた、その道を辿ったのだった。

 

ヨコハマの戦後

常盤が初めての自前のカメラ、常盤精機製の二眼レフ“ファースト・フレックスを使ったのは1951年の「写真の日」、つまり6月1日だった。この日、新宿御苑で開催されたモデル撮影会に参加し、いきなり入選を果たした。これで多少の自信を得た23歳は、プロ写真家という目標に一歩でも近づけた気がしたという。

もちろん、当時、このような志を抱いていた女性は珍しかった。写真を学んでも求人はなく、しかも結婚すれば家庭に入ることを求められるのが常だった。当時の雑誌などを見ると、“女流”と呼ばれた写真家は、都内でもまだ20名ほどしか確認できない。とはいえ、本書で述べているように、彼女も良妻賢母になるよう育てられていた。

「カメラに興味を持ち出すまでのわたしは、普通なお嬢さんが考えているようなことを考え、漠然と、やがてお嫁さんになるにつもりで、お花とかお茶とか―ありきたりなお稽古ごとに、余暇をさいていたにすぎなかった」

1928年生まれの常盤の生家は、横浜市の東神奈川駅前に店を構えていた有名な酒問屋屋だった。元銀行だったという3階建ての洋館が店舗兼自宅で、両親と11人の兄弟姉妹が暮らしていた。幼い頃から芸事が好きだった彼女は、隣家の蕎麦屋の座敷で芸者衆が舞を披露していると、お囃子に合わせてよく踊ったと、私に思い出を語ってくれた。それは、彼女が最も幸福だった時代の記憶である。

だが、大戦末期の横浜大空襲が、家も大黒柱だった父も奪ってしまった。それでも常盤は高等女学校から麹町の家政学院に進み、その後には洋裁学校にも通ったいる。つまり戦後の困難な時期においても、人並以上の花嫁修業を積んだのだった。しかも、親の勧めに従い、すでに婚約者もいたという。

典型的なお嬢様的コースから外れたきっかけは、戦後に次兄が桜木町で経営していた、街頭広告の会社に勤めたことにある。宣伝用にアナウンスの仕事を担当した彼女は、それに適性を見出した。まだ珍しいテープレコーダーを使うなどして熱心に練習し、神奈川県では1位、全国コンクールでも4位にも入ったという。1951年に、日本で初めての民放であるラジオ東京(現・TBS)が設立されると、その女子アナに応募することも考えていた。

だが、ある写真家の強い影響によってその道に進む。それは兄の友人であり、後に彼女と結婚する奥村泰宏である。常盤より16歳年長の奥村は、戦前から注目されたアマチュア写真家で、ことに港町のシャレた風情の描写には定評があった。

だが横浜の受けた戦争の傷跡がその作風を変えた。異様なほど活気づく闇市と赤線地帯、そこを我が物顔で闊歩する占領軍兵士たち、一方で死んだように静まり返ったままの地域もある。戦前のモダンな横浜を知る奥村は、この現実を無視することはできず、街の様相を忠実に記録すようになったのだ。アマチュア写真家に「社会の困難さを見よ」と呼びかけた、土門のリアリズム写真運動にも呼応した、新しい方向性でもあった。そんな奥村たちグループ展を見たとき、常盤ははっきりと写真をやろうと決めたという。なにかアナウンサーよりは、写真家の方が、一流になれる可能性があるように思えたのだった。

それに個人的にも彼に惹かれてた。174cmという当時としては高身長で痩身、無口だが写真のことを熱っぽく話すときの表情に頼もしさとそれを超える感情を抱いた。奥村のことは同書の中に「Mさん」という仮名で登場するのだが、常盤は「わたしは年頃の娘としてMさんになにか理由のない温かいものをいだいていた」と綴っている。さらに、彼から言われた決定的な一言があった。

「戦後は、女の人があらゆる職業面に見覚ましい進出を見せてきたが、まだ写真界には、これぞという女流写真家が出ていないね。だから、あなただって、その気になって、一生懸命やれば、ひょっとすると一流カメラウーマンになれるとも限らないね……」

この頃、アメリカの写真界の影響は強く、『ライフ』のスター写真家であったマーガレット・バーク=ホワイトやドロシア・ラングといった女性のフォトジャーナリストの名前はよく知られていた。奥村の年頭にも、それがあったのだろう。

こうしてその気になった常盤は、たまたま有楽町駅前で知った、当時設立されたばかりの女性だけの「白百合カメラクラブ」でカメラの操作を習った。だが、お稽古ごとにとどまるクラブには物足りさも覚えたのである。そして2か月後、新宿御苑でのモデル撮影会で成果を挙げると、プロという目標に向かって突き進んでいったのだ。

 

『危険な毒花』への賛否

常盤は小柄だが、自ら「心臓に毛が生えている」というくらい肝が据わっている。その強さはカメラを持つとさらに増幅した。流行りのスカート姿で欄干に登ったり、列車のなかで寝そべってカメラを構えたりするなど、ずいぶん周囲を驚かせたという。

そんな常盤は、自分のなりたいものはプロの写真家であるとの意思を固めると、まっすぐに目標に向かっている。まず写真雑誌のコンテスト欄やグラビアの常連になった。それらで発表した写真の多くは、横浜の生活風景や外国船をめぐる情景で、奥村の作品とともに掲載されることも多かった。彼と行動をともにしながら、急速に独自の表現性を育てたのだ。ただし、プロの報道写真家になるためには独自の社会的テーマが必要だった。テーマもなく写真を撮ることが無意味であるとも感じるようになった。

そこで焦点を当てたのが女性の職業だった。

撮影に一年半かけたその成果は、1956年4月に銀座の小西六ギャラリーでの初個展「女から見た―働く女性」で披露されている。「赤線地帯の女」、「ショップガール」、「女子プロレスラー」、「海女」、「マネキンガール」、「看護婦」、「特殊女性」、「女子工員」、など14の職業についてのフォトルには、連日、行列を作るほどの観客が押し掛けてきた。

写真評論家の伊奈信男は『アサヒカメラ』7月号で同展をとり上げ、作者の視点は「男性の眼と少しも変りはない」が、女性だからこそ撮れた「赤線地帯の女」と「特殊女性」は注目に値すると書いた。とくに前者は鋭い描写で「この地帯の女たちに特有な生活感情と生態とが、典型的に表現」されており、素質を伸ばせば「わが国には数少ない女性カメラマンとして、大成することもできるだろう」と期待を示した。

こう褒められた常盤だが、「赤線地帯の女」をラインナップに加えたのは、このテーマが入ることで作品が強く印象に残るものになると思えたからだった。

とはいえ対象の女性たちに対して常盤自身、当初は好意的ではなかったという。米軍の空襲で父も生家も失った彼女には、焼け跡の街を闊歩するアメリカ兵への嫌悪が強あり、それが対象への厳しい眼差しに転化されている。だが撮り進めていくにつれ「感情の不純さが、芸術の持つ何ものかに浄化され」(本書)るのを感じ、写真も変わったのだ。

「赤線地帯の女」の撮り方にも、心境の変化が表れている。最初は川を挟んだ街から狙い、買い物かごにカメラを隠し持って接近したが、やがて街角のスナップになり、ついに彼女らに部屋に上って撮影するようになる。そこからさらに、診療所の協力を得ての性病検査の撮影や、女性たちの更生施設の取材など、社会派カメラマンとしての視点を深めた。

そして展示の翌年、『危険な毒花』が出版されると、常盤は新進の女流報道写真家としていっそうの注目を浴びたのだった。本書もよく売れて翌年にはすぐ15版を超え、写真雑誌はもちろん、全国紙と有力な週刊誌にも書評が掲載されている。

ただし、その評価はまったく賛否両論に分かれた。肯定的な意見はさきの桑原に代表されるが、否定派は「人間性を無視した度ギツイ写真」(『週刊朝日』12月8日号)など、プライバシーへの配慮がないというもの。写真雑誌では『フォトアート』が後者の急先鋒で、ときに座談会に土門拳を登場させるなど強く批判し、『サンケイカメラ』と数号にもわたって論争を重ねるなど、大きな論争に発展したのだ。

この騒然とした状況を、常盤自身はどう思っていたのか。1999年に行われた日本写真家協会のインタビューでは、彼女の周囲は怒っていたものの「でも、私はひどく面白いと思って、「ああこんなことをやってくれるんだ」という感じでした」(『日本写真家協会会報』№122掲載)と、こともなげに振り返っている。

『危険な毒花』は、そんな明るく強い女性だからこそ生まれ得た大きな成果だといえよう。それは戦後史のきわめて重要な記録であり、本作について交わされた議論を含め、この時代の女性のあり方を鮮やかに浮かび上がらせているのである。

最後に、本書に記した常盤の決意を引用しておきたい。これを読んでみなさんは、今どう感じるだろうか。

「わたしの仕事の大部分は、これまでのところ、女性なるがゆえに、生み出すことができた作品の多いとは見逃がしえない事実なのだ。

カメラへの魅力は、男だから女だからと、そこに違いがあろうとは思えない。アマチュアでない限り、カメラのメカニズムをとおして、現代の社会現象をとらえて、それを深くえぐることは、女性にだって許されている」

 

常盤とよ子(ときわ・とよこ)

1928年、神奈川県横浜市生まれ。東京家政学院と洋裁学校を卒業後、街頭宣伝会社のアナウンサーを経て写真家をめざす。1950年代から70年代にかけ精力的に作品を発表。1957年、新鋭写真家を集めた企画展「10人の眼」に参加。他の主な写真集・著作に「わたしの中のヨコハマ伝説 1954-1956」、「横浜再見――二人で写したストリート」(奥村泰宏との共著)がある。

 

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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