• HOME
  • ブログ
  • 写真
  • 【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.49 「人間を見る」ということ  鬼海弘雄『PERSONA』(草思社、2003年) 鳥原学

【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.49 「人間を見る」ということ  鬼海弘雄『PERSONA』(草思社、2003年) 鳥原学

1978年以来、鬼海弘雄が浅草で撮影した人の数は数千人以上にもなる。しかも、それらは全て同じスタイルで克明に写されている。この古典的な手法は、写された人々の圧倒的な存在感が浮き上がり、私たちにこう問いかる。「私を見ているあなたは、いったい何者か」と。おそらく、それは鬼海自身に最も突き刺さる問いだったに違いない。いったい、なぜ彼はこのシリーズに取り組み続けたのか。

 

聖者のフロンタル・ビュー

現在でも繁華な浅草の街だが、日本一といわれる賑わいを見せたのは、関東大震災後の1930年代から戦後の 50年代初頭にかけてのことだった。浅草寺に参拝する善男善女に加え、六区の映画館や芝居小屋に集う群衆で、休日は地面が見えないほどだったという。興味深いのは、その階層にはある偏りがあったことだ。演芸史に詳しい作家の小林信彦は、この頃の浅草に「押し寄せる人の大半は、東京の下層階級とお上りさん〈田舎の人〉」、または「日常生活で、しいたげられている人々」だったと『私説東京放浪記』に書いている。

街の風景は往時からすっかりと変わったが、浅草を好む人の層はさほど変わっていないように思える。たまに仲見世あたりを歩いてみると、独特な生活感を濃厚に漂わせる人たちを見かけることがあるからだ。それは鬼海弘雄の撮り続けた肖像写真から抜けてできてたような、と形容できる人々でもある。

その鬼海が初めて浅草でポートレートを撮ったのは 1973年、28歳の春だった。勤務先の写真現像所の暗室に閉じこもる日々に倦んでいたとき、ふと思い立ってアパートから近いこの街に出かけてみた。すると、そこに懐かしい顔を見出したという。写真集『PERSONA』では、次のように振り返っている。

「育った東北の小さな農村や、卒業してから数年間その場つなぎに働いていたトラック運転手、職工、マグロ船員などで知り合ったひとびとと、どこか似ていて親しみをおぼえた」

このときから断続的に浅草に出かけては、気になった人物に声をかけて撮らせてもらうようになった。結果的に、その数は延べ数千人以上に及ぶのだから、驚くべき持続力である。

しかも撮影スタイルは常に同じである。ハッセルブラッドの正方形のフォーマットに、どの人物も同じ大きさで真正面から捉えるという極めてシンプルなものだ。

撮影場所もごく初期の段階から、浅草寺の回廊に固定されている。ちょうど壁がホリゾントの役目を果たし、被写体から時代背景を消してくれるからだ。だから見る者の意識は、その風変わりな被写体の外見へと集中せざるを得ない。

写真の緻密なディテール描写は、モノクロの柔らかい階調と相まって、その不可解さを強く浮かび上がらせている。ただし、鬼海は不可解さを好奇の対象とするのではなく、偉大な人々、大きな敬意を払うべき人々の証明として捉えていることに気づくはずだ。

その印象は、まずその単純な構図から与えられるものでもある。西洋絵画では正面から人物を捉えることをフロンタル・ビューと呼び、王や聖人など権威を強調する際に使われてきた。このような絵を見ていると、鑑賞者は描かれた人物の強烈な眼差しにさらされ、心のうちを見透かされたような気分になっていくのである。

もちろん、鬼海の被写体は対象とは対照的な人々だが、その眼差しに圧倒されてしまう。それは世俗的な外貌の内奥にある、名状しがたい聖性が見事に引き出されているからだろう。

鬼海自身はこのシリーズを続けてきた動機を、「ひとへのいとおしさの研究」だとエッセイに書いている。

 

哲学者との出会い

鬼海がこのシリーズで使い続けた撮影機材もまた、シンプルだ。 ハッセルプラッド500Cに80ミリの標準レンズというベーシックな組み合わせを、三脚を使わず手持ちで撮った。しかも、ずっと同じ一台で撮り続けてきたのだ。もともとメカにはさほど興味がないからでもあるが、このカメラだけには格別の愛着を持っていた。

ハッセルを買ったのは、写真家を志したばかりの20代半ばである。大卒の初任給が4万円ほどの時代、正価が60万円もするカメラは定職を持たない身には、まず手の届かない高嶺の花だった。それがある日、いまは西新宿のカメラ店に、およそ半額の32万円の並行輸入品が店頭に出ていたのである。思い切って買うべきかどうか。悩み抜いていた鬼海を見て、黙って資金を渡した人がいた。鬼海の母校、法政大学で哲学科の教授を務めていた福田定良であった。

鬼海と福田の関係は、じつに奇特なものだった。教授と学生の関係だが、学部も違っていたし、教室での印象はどちらからも薄かった。その両者をつないだのは映画であった。当時、雑誌に執筆していた福田の映画評に鬼海が興味を持ち、その研究室を訪れたことで親交が始まったのである。

学生時代の鬼海は、まったく映画にハマっていた。きっかけは、リバイバルで見た今村昌平の『にっぽん昆虫記』(1963年)だった。戦前戦後の山形の山村生活を背景に、生きるため、食うため、あるいは性愛のために、苦界に染まっていく女性を徹底的にリアルに描いたこの作品に「胃袋を掴まれたような衝撃を受けた」のである。何しろ映画の舞台は、彼の郷里の月山に近く、登場人物の造形も地元の人たちによく似ていた。農家の五男として育った鬼海は、一度地元の役場に就職したものの、映画のストーリーと同じく、地方から脱出するため改めて東京の大学に入ったのだった。当時の大学は、まさに彼のような出自の若者たちで溢れていた。

ほかに、ポーランドの名匠アンジェイ・ワイダが、第二次大戦直後の母国を舞台にした『灰とダイヤモンド』にも大きな感銘を受けた。狡く愚かで自分勝手、同時に賢く利他的でもあるという不可解な人間の本性。それを表現できる映画をより深く見始めたとき、普通の言葉で、しかし深い映画評を書く福田の存在を知ったのだった。

福田もまた風変わりな哲学者であった。象牙の塔におさまらず、市井の人々との対話を通じて哲学を実践することを軸に置いた人だった。それも素人を指導するという態度ではなく、 アマチュアとして対等の立場で話すことを重視した。

それは「自分がオカシナ人間であることに気がつく」ためだと福田は言っている。この点に気づけば、人は社会的な上下関係を超えて、主体性をより発揮して生きることができると考えたのである。それは大戦中に徴用に志願し、はじめて肉体労働者とともに働いた経験から学んだことだった。

この視点は、1987年に初めて鬼海が出版した写真集、浅草でのポートレートをまとめた『王たちの肖像』(矢立)でも鮮やかである。まずこのタイトルは福田が名づけたもので、「王」とはイエス・キリストのことを指す。その真意は、あとがきとして寄稿した「エッケ・ホモという言葉について」に書かれている。

ここで福田は聖書を引用しながら、現在よりずっと「人間的な世の中」が存在することを予感させる人々が、世俗に存在するのだと述べている。ただし、彼らは世間的には「いくぶんおかしな人物」に見えるため、その正体にはまず気づかれることがない。イエスとはまさにそのような人物であり、だから当時の人々にバカにされ、罵声を浴びながら磔刑に処せられてしまったのだ。

ただし、そんな彼らと本質的に近いものだけが、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」と声をあげ、その聖性を視覚化することができるのだと福田は指摘する。もちろんこの場合、それが鬼海弘雄を指すことは言うまでもない。

 

永遠の物差し

鬼海が写真を始めたのは1970年である。もともと大学を卒業した鬼海は肉体労働で食いつなぎながら表現者を目指していた。だが、とくに明確な目標はなかった。好きだった映画界はすでに斜陽で、性格的にも集団作業に向いていないことは分かっていた。

そんな模索を続ける教え子を案じて、福田定良はひとりの人物に引きあわせてくれた。当時、写真界のオピニオンリーダーと目されていた『カメラ毎日』編集長の山岸章二である。この出会いをきっかけに、鬼海は写真に強く興味を持ったのである。ちょうど日常性に目を向けた「コンポラ写真」と呼ばれる傾向が、若い写真家を中心に広がっていたころだったから、鬼海もまずそれに倣ってみた。だが、いくら撮っても、見るべきものは何も写っていない。だが、この挫折こそが出発だったというべきだろう。

そんな閉塞感を破ろうと、1972年3月、鬼海は遠洋マグロ漁船に乗り込んでいる。およそ8か月間の航海はさすがにきつく、撮ったフィルムは十数本に過ぎなかったが、何かを掴んだようだった。山岸は初めて写真を評価してくれ、1973年5月号に「船員手帳番号:三崎16000」が掲載されたのでる。

このデビュー作をもっとも喜んだのはやはり恩師だった。福田は同誌にも連載を持っていたが、特にこの新人を採り上げている。その文章からは深い愛情が見える。ただ、それ以上に重要なのは、同じ号に掲載されたダイアン・アーバスと同じ基準で、鬼海を評価している点である。

その基準とは、他者との関わり方だ。アーバスは1971年に自死したアメリカの写真家だが、  その翌年にニューヨーク近代美術館で回顧展が開催され、同時に写真集が出版されると世界的な注目を集めていた。最大の理由は彼女の被写体がおもに社会から疎外された、たとえば性的なマイノリテイや身体的な奇形を持つ人々だったからだ。「フリークス」と呼ばれ、普通なら見ることを避けられていた人々の姿を、彼女は正方形の画面の中に残酷なほど克明に捉えていた。福田はそのアーバスを「ふつうの女性ではなかったからこそ、彼女はマガイモノのほうがホンモノより見ごたえがあることを主張せざるをえなかった」のだと分析している。この一文は、その後の鬼海のスタンスにもあてはまるはずだ。

鬼海自身もアーバスの作品を強く意識していた。山岸から彼女の写真集とオリジナルプリントを見せられたとき「見知らぬひとたちが直接、生きることの深淵について饒舌に話しかけて」きたと感じ、それから何度も写真集を見返していのである。ハッセルプラッドを欲しいと思ったのも、アーバスの影響であった。

1974年、その鬼海が浅草のポートレートシリーズを初めて発表した。この年のAPA展に12枚組の「浅草・浅草寺境内」を応募し、見事、特選に選ばれたのである。「これで写真の仕事が殺到すると思った」と鬼海は冗談めかして言う。だがその後も、肉体労働をしながら撮影を続ける生活に変わりはなかった。

作家としての仕事が着実に認められるのは、ようやく1980年代後半からである。特に浅草のポートレートシリーズは1987年の『王たちの肖像』以降、随時写真集としてまとめられていき、2008年にはドイツからも出版された。それに伴い、国内外の展覧会に呼ばれることも増え、しだいに世界的な評価を受けるようになったのである。

なかでも評価を決定づけたのは2003年の『PERSONA』だった。浅草で撮り始めてからちょうど30年目に出版された本書は、印刷もレイアウトも最高の出来で、各方面から絶賛を浴び主要な写真賞も受賞した。本書を開くと、その冒頭には出版を見ることなく前年に亡くなった師への献辞が置かれている。あらゆる意味で鬼海の資質にかたちを与えた福田の哲学は、普遍的な物差しであり続けたのである。

さて、この浅草シリーズの最後の写真集は2019年の『PERSONA 最終章』(筑摩書房)で、鬼海は翌年にこの世を去った。残された膨大な写真は、これからも「この人を見よ」と私たちを促し、「人間とは何か」を考えさせていくに違いない。

 

鬼海弘雄(きかい・ひろお)

1945年山形県生まれ。1978年法政大学文学部哲学科卒業。
1987年の写真集『王たちの肖像』で、日本写真協会賞新人賞、第 回伊奈信男賞を受賞。他の写真集に『INDIA』『や・ちまた:王たちの回廊』『東京迷路』『しあわせ:インド大地の子どもたち』などがある。2020年、永眠。

参考文献

土方正志『写真家の現場―ニュードキュメント・フォトグラファー19人の生活と意見!』(JICC出版局 1991年)
「鬼海弘雄 社会的風景を撮る―被写体に自分自身を見出す」
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1974年11月号 鬼海弘雄「衆生縁」
『AERA』(朝日新聞社) 2005年4月25日号 神田憲行「現代の肖像 鬼海弘雄」

関連記事


文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

↓PicoN!アプリインストールはこちら

関連記事